LGBT法(性的指向および性同一性に関する国民の理解増進に関する法律)

LGBT法(性的指向および性同一性に関する国民の理解増進に関する法律)

2023/05/18、自公がLGBT修正法案を提出しました。

たまたま新聞を読んだのですが(TVの情報番組で取り上げたのでしょうか)、社説に法案について書いてありました。その論点は3つ。

(1)「差別は許されない」が「不当な差別はあってはならない」と骨抜きにされた。

そのとおりだと思います。「不当でない差別」は「あってはならないけど許される」ということになりますから。たとえば、企業はLGBTの人を「相手に与える印象」で営業から外しても、会社の利益を考えた時には「不当ではない」ということが出来ます。男女平等(最近は「ジェンダー平等」などという言葉も使われますが)と言いながら、企業の受付に「若い女性」を置いているところは多いと思います。男女は不平等でも、LGBTは平等ということでしょうか。

(2)「性自認」を「性同一性」に変更した

後述。

(3)学校の設置者の努力義務

独立の条文を削除し、事業者の努力義務の中に含むとした。

昨日からG7広島サミットが開かれているけど、「議長国として差別解消に取り込む姿勢をアピールするが、かえって差別意識が根強く残る日本の後進性を露呈したと言うほかない」(社説)。社説のタイトルは、『差別意識現れた与党案』。

この論旨には賛成だけど、「後進性」ってなんなのでしょう。どこまでやれば「後進性」はなくなるのでしょうか。逆に「先進性」ってなんなのでしょうか。G7は「先進7カ国首脳会議」だから、この7カ国が「先進国」なんでしょうね。世界の国を「先進国」と「後進国」に分けるのは「差別意識」ではないのでしょうか。

「性自認」と「性同一性」

これらは専門用語(医学用語や法律用語)なのでしょうか。どうやら野党は「他人がどう判断するかではなくて、本人が(自分が)どう思うか」という意味で「性自認」という言葉を使っているようです。与党が「性同一性」をどういう意味で使っているのかはわかりません。きっと「医者が「性同一性障害」と判断した人」というような意味で使っているんでしょうね。野党は「客観より主観が大切」、与党は「主観より客観が大切」と言っているように思います。

でも、これでは論争にならないでしょうね。与党も野党も新聞社も、自分がなにを言っているのかわからないのではないでしょうか。

加害者意識のない犯罪

いくつあるのかわからないほどの「〇〇ハラ」は「客観的な根拠(モノ)」によって立証されるのではなく「主観的な感情(コト)」なのだ、という考え方が主流です。これは犯罪の構成要素である「動機」の否定です。

「動機」つまり「意図的な行為」であることが近代西洋的な犯罪構成の要素なのです。だから、「意図がない行為」は「過失」となります。また「心神喪失」「心神耗弱」とか「未成年(日本の刑法14歳未満、民法18歳未満)」とかは「責任能力がない」ことになります。Wikipediaによれば、

「責任能力(せきにんのうりょく)とは、一般的に自らの行った行為について責任を負うことのできる能力をいう。

刑法においては、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力をいう。また、民法では、不法行為上の責任を判断しうる能力をいう。

「善悪の弁別」、つまり「やっていいこと・悪いこと」を判断できる能力が責任能力で、その能力をもっているにも関わらず「違法なこと(つまり「悪いこと」)を行った時に犯罪が成立するということです。「善悪」「正しいこと・間違ったこと」を判断するのが「理性(合理的思考)」です。「理性的な個人(主体)」が「犯罪者」となり得るのです。そしてそれが近代的な「人間」です。理性をもたない「子供」「狂人」等は人間ではありません。言葉がわからない「未開人」も人間ではありません。一昔前までは、「女性」も人間ではありませんでした。その女性を人間と認めること、つまり「女性の人権」が認められた(認められつつある)のは20世紀以降です。そして今、「子供の人権」が認められつつあります。つまり、子供も「犯罪者」となっていくでしょう。次は「AI(ロボット)の人権」が認められるのでしょうか。そうなれば AI を逮捕できる法律ができるでしょう。

差別がある文化

差別が「存在する」文化があります。その差別は文化が規定しています。その社会は「平等(同一性)」に基づく社会です。「平等という理念」があり、その理念に合わないものが「差別」です。「男として平等」「白人として平等」「大人として平等」「人間として平等」等の理念があるこそ、その社会の中では「平等理念」に合わないものを「告白」します。でも、平等でないことは明らかなので、「告白」は永遠に続きます。「先進国」と言われる社会(経済社会)では、「経済的な格差」が明白です。「経済」はイリイチの言葉で言えば「希少性」に基づく社会構造ですから、格差(持つものともたざるもの)が常に存在します。いや、その格差が経済を作り上げています。

経済格差、男女格差、学歴格差・・・等が社会を動かしているのです。格差に基づくのに平等を理念としてもっている、それが先進国です。

逆に言うと、差別がない文化は「平等がない文化」です。でも、私のように戦後の民主教育を受けた人は、「自由・平等が大切」だと言うことが身に染み付いています。だから、「平等がない文化は差別文化だ」と眉間にしわを寄せてしまいます。でも、私とあなたは違うし、大人と子供と老人は違うし、男と女は違っています。それを「市民として同じ」とか「国民として同じ」とか「人間として同じ」・・・と広げていけるならいいのですが、大抵はどこかで止まってしまいます。「AIと人間は平等」「人間と犬と猫とクマは平等」「動物と植物は平等」・・・どこかで「それは違う」と言わなければなりません。

だから、「差別のある社会」はどこかに「ひずみ」を抱えた社会なのです。

同一性

性を「自分がどう思うか」という「個人の問題」とするにしても、「客観的証拠によって証明されるもの」とするのも、「男あるいは女という性」というものが(これはきっと「sex」の訳語のことでしょう。「さが」ではないですね)「ある」と思っているのです。そして、それは「科学的(医学的)な性」として(たとえば)DNAで決定されるような性があって、それとは別に社会的に決定される性があるのです。「女とはこういうもので、こういう特徴がある」ということです。

「男らしさ」「女らしさ」と言うと、すぐ批判されますが、その「男女という性」は、たとえば「男は女を愛するもの」「女は男を愛するもの」というような「科学的に決定された基準」があると仮定された文化では、「男を愛する男(女を愛せない男)」は男として認められません。自分自身も「自分が男なんだ」と認めることは出来ません。

「私が女(男)なんだ」というのが「性自認」で、「あなたは女(男)なんだ」というのが「性同一性」です。その二つは同じことの裏返しにすぎません。

「私とあなたは同じ人間で平等(同一)だ」と言うためには、「人間でないもの」を作らなくては(想定しなければ)なりません。つまり、「人間でないもの」を仲間から「排除」することによってしか同一性は保てないのです。「私は男(というもの)なんだ」という「自認=自己同一性」には「男ではないもの」という「排除の論理」が必要なのです。

アイデンティティ・クライシス

自然界から「生物」を切り離し、生物から「動物」を切り離し、動物から「人間」を切り離し、人間から「男」を切り離し、・・・、最後に残るのが「私(個人、自我)」です。個人は「分けられないもの(individual)」とされていた西洋でも「心と体」とか「過去(あるいは未来)の自分と今の自分」「働いている自分と家庭にいる自分」「科学者としての自分とキリスト教徒としての自分」等の細分化(再分割化)の圧力が常に働きます。一応「個人が確立していた」西洋においての自己分裂はエリクソンにおいて「アイデンティティー」として厳格に再定義されます。定義が厳密になればなるほど、不純物は切り捨てられます。「自我」は、様々な(限りない)要素を持っているので、削ぎ落とせば削ぎ落とすほど、玉ねぎのようにどんどん「本体」が見えなくなってしまいます。

生殖器としての性

男はおちんちんがあり、女はオマンコがあり、男はオマンコにおちんちんを入れるのが気持ちが良くて、女はオマンコにおちんちんを入れるのが気持ちいい。そういう「女(男)」が「有って」それが普通なんだけど、そうじゃない人もいる。そういう人の存在も「ゆるそうじゃないか」ということ。近代以降はそれに「遺伝子」という「科学的」な裏付け(証拠)があって、それを疑うことはしません。「性」を「生殖器」にする文化です。

「気持ちいい」というのは文化が創るものです。同じように「遺伝子」が証拠になるというのも一部の文化が持つ考えにすぎません。その「証拠」に「遺伝子で男女が決まる」と思っていない文化がたくさん(多分そのほうが多い)あるじゃないですか。その文化に対して、「遅れている」とか「未開(私たちが知っているものをまだ知らない)」とかと感じるのなら、それこそが「差別意識」です。

同じ「行為(出来事)」でも、文化によって「気持ちいいこと」だったり「気持ち悪いこと」だったりするのはよく知られています。「納豆」は好き嫌いはありますが、それを「きらい」ではなくて「気持ち悪い」と思う文化はあります。ヨーグルトなんて、「腐った牛乳」です(そんなものよく飲めますね)。

売春婦に対する差別意識、女性をモノにする文化(女性をおっぱいとオマンコと規定し、男をおちんちんと規定する文化)、他人を金(かね)にする文化、その文化は「法」を創る文化ですが、他の文化から見たこの差別文化の中で、差別を法で規定することはその差別をなくすことにはならないのは明らかです。その差別を法で規定してまた新しい差別を生むことでしかないのです。





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