人類の周辺 今西錦司薯

もう80才だというのにがんばっていらっしゃいます。まったく頭が下がる思いです。

本書は、今西氏の最新のエッセイや講演をまとめたものです。全体は「人類の周辺」「山と私の人生」「教育と宗教」と3つに分かれていて、内容も生物学はもうちんのこと、人類学。社会学、教育、宗教、そして山岳関係と幅広く、寄せ木細工的ですが、専門論文のような堅苦しいものはなく、なかなか良い今西錦司入門の書だと思われます。「棲み分け理論」や「個体と種」、あるいは、いわゆる「今西進化論」等々。今まての著作の中て書かれたことがほとんどですが、私が本書を読んで特に目についたのは、「直観」という言葉でした。

「直観」とか「なるべくしてなった」などという言葉を今西氏のような人生の大先輩からいわれると、「悟った」「天上人」の言葉のようで、「目につく」というより「鼻につく」という感じだったのですか、今回は(私自身が変ったからかもしれませんが)「直観」が失なわれつつあるということが、とても重大なことに思われました。分かれ道で右か左かわからないということだけでも、私たちは、大変な損をしているにちがいないのです。

直観というと、「霊感」の同義語みたいで、「理性」で理解することができない、「うさんくさい」ものだ、というイメージがあリます。だから、そういう意味では、直観は、理性と対立する概念です。

人間は、言語ができて、理屈やロジックというものを使えるようになるまでは「言語によらず、理性にたよらないで、ずっと洞察一本でやってきた」(本書P.275)わけです。昆虫を見てください。ミツバチのダンスやアリの帰巣は、普通いう「理性的」だとは思えません。

私は、「直観」とは、このような非言語的思考(反応というほうが近いかもしれません)の1つだと考えています。つまり、それは、客観的状況のすなおな(言話中枢、あるいは意識を経ない)反映だと思うのです。私たちの行動だって、それほど「理性的」なわけではありません。ちょっと注意をしてみるなら、自分の行動のほと



んどが「考えなしに」行われていることに気がつくはずです。

前に「霊感」という語を書きましたが、「信仰」とか「宗教」とかは、その「理性」に対する大きな要素です。

宗教は、人間がまだ自然を「理解」できないころに、そのために生じたと教えられました。しかし、自然を「理解」する必要は、どうして生じたのでしょう。理解しなくても、自然はつねに自分たちのまわりに存在するのだし、私たち人間自身もその自然の一部なのです。自然に背を向けないかぎリ、自然を「理解」する必要などなかったのではないかと私には思えるのです。

今西氏は、宗教は「もともと個人を対象とし、個人をコントロールすることをたてまえ」(P.298)としているといっています。自分という自然を理解するという意味では、そういえるでしょう。しかし、だからといって「社会をコントロールする力」が宗教にない、ということにはなりません。私は宗教にくわしくありませんが、大体の宗教には、世界観や、自然観(宇宙観)があると思われます。なぜなら、自然から離れた人間が、自分たちと自然との関係をはじめて「言語」で表現したのが宗教だと思われるからです。言い方を変えるならば、人間が自然に背を向けた瞬間に、言語としてあらわれた直観、洞察が宗教なのではないかということです。

子供は、言語に侵されていない分だけ直観が働きます。子供が描いた絵が、後になって大きな意味を含んでいたことがわかる、というような話を聞いたことがあるでしょう。ところが、(直観の話ではありませんが)最近の子供は、ころんで歯を折ることが多いそうです。つまリ、ころんで反射的に手が前に出ることがなくなった、ということなのです。恐ろしい。

「直観が働かなくなること自体の良い悪いは、簡単にはいえません。しかし。それを失うにみあうものはあるのでしょうか。それを探す努力とともに、「直観」というものをもう一度考えてみることも必要なのではないでしょうか。



(1982年記)

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