民族という名の宗教 -人をまとめる原理・排除する原理- なだいなだ 1992 岩波新書

















































民族という名の宗教

民族という名の宗教



この本を読むのは2回目である。1回目はたぶん7年ほど前であろう。この本が出版された時点ではまだソ連が崩壊していなかったようである。(ソ連崩壊が何年かも知らない私である。)もし、この本の執筆時点でソ連が崩壊していたら、いくらか表現が変わったかもしれないが、内容はほとんど変わらなかったであろう。むしろ、ソ連の崩壊を予想するような表現が随所に見られるのである。

なだいなだの絶妙な表現はA君との対話形式という手法で、冴え渡っている。民族とは、国民を一つにまとめるためのイデオロギーであり、遠い神話までを引っぱり出して作り出されたフィクションである、というのが彼の主張である。近代、つまり資本主義が大きな国家を必要とするまでは、部族(エスニック・グループ)はあっても、民族というものはなかった。まして、国家を形成する民族などというものは宗教にすぎないのである。その結果としてのナショナリズム(民族主義あるいは国家主義)は国民を単一化(均一化)しようとする。その均一化とは人間が単なる労働者となること、あるいは自分の労働力も含めた1個の消費者となることである。それ自体にアイデンティティを求めることは難しい。そこで他人と「同じ」ことでの安心感と均一化のなかでのぎりぎりの差異とを求めることになる。社会のなかでの(人間は社会の中でしか生きられないが)自分を守るためにはそれしかないのである。それにたえられない人間には宗教(イデオロギーも含めて)か、「自己崩壊」が待つのみである。

民族という名の宗教から逃れる方法は、国家という枠組みをはずすことであるが、その方法は2つあると思う。一つは、資本によるグローバライゼーションを極端に押し進める方法。もう一つは、新たな部族主義(ローカライゼーション)の探求である。なだいなだのいう「抵抗」は、「近く人類の前に危機の原因として現れる」「日常的な人間の消費活動」を解決しうるだろうか。

「民俗」「国家」という言葉を使うための必読書である。
はじめに
第1章 人間は集団を武器とした

p.34狩りをしても、分配の問題があるから、やたらと大きな集団を作るのは得策ではない。



争いの相手が人間になった時から、大きな集団を作りだした
第2章 血の信仰

p.48タブーが家族を意識させたわけだ。・・・タブーという互いを遠ざける力が集団を大きくするのに役立った



p.64血の信仰は、実は系譜の信仰で、血はフィクションでいいのだよ
第3章 部族から帝国へ 血から言葉へ



p75集団が定着するようになってから、逃げるという選択はなくなり、勝か負けるかだから、戦いはより残酷になった。



p.77戦争は平和を持ちきたすために行われたのだよ。



p.86それぞれの部族が、勝手に自分たちの氏神を拝んでいる状態では、部族を超えた集団を作ることは難しい。



p.89より寛容な、博愛的な、公平な道徳を説く宗教が、帝国的なものさしにあう宗教ということになる。



p.90国内の部族の対立を越えさせるためには、輸入の宗教のほうがよかったんですね。



p.92血よりも言葉が、同一性のシンボル
第4章 イデオロギー



p.108フランスとイギリスは、産業革命以後の時代にふさわしい体制として、近代国家に変わりつつあった。・・・その国家を支えるために国民を一つにまとめるイデオロギーが欲しい。そこで生まれてきたのがナショナリズムさ。



新しいネイション・ステイツ、国民国家が圧倒し始める。



p.109もともとローマとしてまとまっていたんだ、と古いイメージを引っ張り出してくる。これが民族意識さ。部族を越えて大きくまとまろうとするために都合のいい意識だ。ぼくが民族はフィクションだといったのは、そういう意味なのさ



p.111ナショナリズムはまず国家のイメージから始まるんですね。そして国家にふさわしい国民のイメージが求められる。それが民族というフィクションだ。日本は数多くの部族からなっていたのではなく、日本人という単一民族としてまとまっていたというフィクション



p.113国家にふさわしいのは(p.114)国民という呼び名、その国家と人間とをどろどろとした感情で結びつけようとして用いられるのが民族というフィクション。



p.115国は人の生命さえ犠牲として要求する、いわば宗教なのだよ。ことに民族独立のために戦争が控えている場合にはね。



p.116エスニック・グループ、つまり部族



p.118チトーは社会主義のというより、ナショナリズムのシンボルだったのか
第5章 国民と民族



p.130国という考えが先にあり、それにふさわしい国民のイメージとして民族が作られた



p.132攻撃性を外に向けさせ、エスニック・グループ同士あるいは階級間の反目を乗り越えさせてしまうには、戦争が一番だからだ



p.139民俗は現実だけど、民族はフィクションだ。日本国民は現実だけど日本民族はフィクションなんだ。国民性論議なんてそのフィクションの上に乗った議論なのだ。
第6章 国の中の少数派



p.145(ユダヤ人の内)スペインにいたグループがスファラド系、キリスト教圏にいたのがアシュケナーズ系



p.154正真正銘の一個人になれない人間は、所属することによって自己の存在感を確認するのだからね



p.156人種差別はエスニック・グループ間の葛藤や対立と違う。国民国家の建前の中での差別なのだよ。



p.157アメリカは市民意識は必要だが民族意識は関係ないところだ。



p.159近代国家は、そもそもが産業革命の要請でできたもの



p.161どっちみち人をまとめるためには、難しい理論は不要なのさ
第7章 「同じ」意識



p172実際、同じになりつつあるからだろうね。同じにしようと教育しているんだから。子どもたちだって、それを感じている。それで、必死に同じになろうと努力しているのさ



p.175近代化は部族を越えた一体化を目指したけれど、そういう(見知らぬ人が突然隣人となるような)状況を作り出すものでもあった。



p.177なぜ近代国家の国民が単一化してくれないと困るかといえば、人間を労働力として考えるようになったからだ。労働力は均質化していた方がいい
第8章 理性的批判主義



p.193民衆の側からすれば、社会主義を取るか宗教を取るかは、同等の価値の二者択一なのだよ。決して次元の違う問題じゃないのさ。



p.194社会主義は人の集団だった。理論の集団ではなかった。



p.196科学は未来を研究するものではないよ。今、悲惨の極みにある人間には、科学であろうとなかろうと、どうでもいいのさ。未来を信じさせてくれればいい。



p.197約束は未来にしかできないけどね。



p.201公害を輸出している。その視点を資本主義はもてない。批判があって初めて修正する。じゃあ、誰が批判し、修正させるかだ。宇宙的視野、国際的連帯感情が必要だろうな。



4 抵抗の理論としての社会主義



p.202抵抗は欲望をもとにしない。あくまでも守勢で、守りきる姿勢だ。これには多(p.203)数を集めようとしても無理だ。抵抗は少数でできる。そのうち、相手にも理性が復活するだろう、という待ちに徹した方法だ。抵抗なら理論はいらない。現実だけが問題だ。これならどんなグループとも一体になれるだろう。それが社会主義の原点だったのだよ



p.204近く人類の前に危機の原因として現れるのは、日常的な消費活動だ。
おわりに



p.208思想を述べた人のほうに身を寄せて考える人は多い。だが、思想を受け取った人たちのほうに身を寄せて考えるものは意外と少ない。

(2000年記)

シェアする

フォローする