文学部唯野教授 3冊 筒井康隆 1990、1992








 久しぶりに筒井康隆を読んだ。おもしろい。恥ずかしいが、私は文芸批評は知っていても、「文芸批評論」という「学問」を全く知らなかった。

その一端を知り得たことも収穫である。

因みに、行をあけているのは、読みやすさを優先しているためであって、書くことがないからではない。

この本は、作家による「文芸評論」批判であって、作家と評論家との戦いの記録である。

それにしても、優れた小説家は何でもできてしまう。(どの分野でもその第一人者に多く共通することであるが。)難しい(と思われている)哲学等の思想をいとも簡単に登場人物に言わせてしまう。

「ポスト構造主義による「一杯のかけそば」分析」は短編であるが、痛快である。このぐらいの破天荒な分析形式の批判が「一杯のかけそば」(と、それを流行らすような社会)には必要なのである。

「女性問答」は、意図してそういう質問を選んだのかどうかは不明だが、半分「身の上相談」化している。そんな中で、作者の女性(問題)に関する考え方が現れていておもしろい。

また、アリストテレス(神)に関する部分は、思わず納得してしまった。

エイズ問題について一言。筒井康隆個人のエイズ認識は確かに低かったように思える。ただ、それは当時の日本におけるエイズ認識のレベルであり、小説の進行上、当時の日本におけるエイズ認識でいるところのエイズ(または、それに類したもの)が必要であったことも理解できるのである。

作家は万能ではないし、作品は完成されれば作者の手を離れる。そして、それは作家と読者の直接の(双方向の)関係ではない。作者は、作品を通じて(媒介して)しか作者ではない。作者が作品を通さずに読者に語りかけること、あるいは読者が作品ではなく作者に語りかけることは、作品を否定すること、あるいは作者が作者でなくなることである。作品が作者の手を離れたとき、作者がどれだけ後悔しても作品が作者の手にもどり、作品はなかったということにはならない。作者に許される手段は、次の作品を作ることだけである。

今後の作品に期待したい。次の作品を作る権利と能力を持つのもまた「作者」の宿命である。


文学部唯野教授 筒井康隆 1990 岩波書店

文学部唯野教授 筒井康隆 1990 岩波書店



文学部唯野教授のサブテキスト

文学部唯野教授のサブテキスト



文学部唯野教授の女性問答 筒井康隆 1992 中央公論社

文学部唯野教授の女性問答 筒井康隆 1992 中央公論社


(2000年記)

シェアする

フォローする