マルクスその可能性の中心 柄谷行人 1985 講談社文庫

マルクスその可能性の中心 柄谷行人 1985 講談社文庫

テキストとして読むということ。「思惟されていないものを読むこと」とは、テキストを媒介として思惟すること。それは常に行っている当たり前のことである。結果としてそれをマルクスの言説として認識するが、自己の思考として認識するかの差である。

マルクスに、なんの可能性を見出したのか。それは、マルクスの読み方の可能性であり、新たな考え方(思考)の可能性であり、新たな行為(実践)の可能性であろう。しかし、それは書かれてはいない。マルクスを可能性として今読むということは、今の社会の中で、その社会を読むということであり、可能性の発見は、困難性の認識でもある。

彼の価値形態論解釈は魅力的である。価値が、流通過程のなかで事後的に実現するというのも面白いし、そのように解釈することで商品社会が全面化した現代社会を解釈することができる。しかし、そのことは労働価値説の変更を迫るものではない。労働が価値となる社会において商品ははじめて価値となるのであって、その逆ではない。そしてそれがあらゆるものを商品にし、流通させるのである。流通に(命がけの飛躍)に資本の弱点を見出すのは正しい。しかし、そのときには生産過程に対する視点を常に持ち続けなければならない。私たちは流通一般を問題にするのではなく、資本主義的生産に基づく流通(資本の過程の一環としての流通)を問題にしなければならないからだ。

柄谷は流通過程に注目するあまり、絶対的剰余価値より相対的剰余価値に資本の本質を見る。重商主義のアナロジーとして資本主義的生産を見ようとするのだ。共同体の差異(空間的な差異)から商人資本の利潤が発生するように、時間的な差異から産業資本の利潤が発生するという。それは、利子生み資本を産業資本と同一視するものであって、発達した資本主義社会において一定の利潤率が確保された段階でそう見える(もちろん相対的剰余価値の生産が資本の動機であることは間違いないが)のである。時間的差異からの利潤の発生は、資本-労働者関係を隠蔽するものであることも忘れてはいけない。

柄谷は、この本を書いた後約20年後に「可能なるコミュニズム」を書く。これ以上の批評は、その本を読んでから行いたい。


(2000年記)


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