テレビCMを読み解く 内田隆三 1997 講談社現代新書














テレビCMを読み解く

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私はTVCMが好きである。テレビを見るのはCMを見るためといってもいい。15秒、30秒の時間のなかに、現代の英知、テクノロジー、ノウハウ、タレント、それらすべてが凝縮されている。現代は商品社会であり、消費社会である(といわれる)。その商品と消費を結びつけるのがCMである。資本の論理でいえば、商品流通において需要を創出してゆく手段である。

「広告表現を通じて、社会が自分のイメージを表現し、そしてそれを自分自身に伝えている」のであるが、そのイメージを創っている社会と、受け手としての社会は同一ではない。同一でないからこそ、イメージは創られるともいえるし、且つ創るともいえるのである。Massの側に立つ送り手と、それを受ける個がいる。そして、その個がMassを造っているのである。受け手としての個は身体性を持つ。だから、広告は身体性に訴える。広告のなかに自分の身体性を見出すのである。

著者が、社会を切り出す手段としてTVCMを取り上げたのは卓越した目であり、そのCMを身体性から解読しようとしているのもポイントを衝いている。

特徴的なCMを取り上げ、それと社会変化を対比する論理は明快である。ただ、その分析の結論が、新しい時代に応じたCMの創造に期待するということだけでは分析した意味がない。その創り手であり、受けてである個の特異性の可能性をどこに見出すかが問題なのである。CMが持つ両面性、資本の論理の伝達と、消費者(個)の可能性を見つめていかなければならない。

今後の著作に期待したい。
p22 欲望が商品に誘惑されるのは、欲望がある一線を超え、商品の存在に侵入していくときであり、両者のあいだに自他の区別がつかなくなるときである。・・・そこで商品は、欲望が自らを癒すために到達し、同化すべき自己の遠い鏡像になる。



自分と商品の同一化。商品が盗まれるのは自然である。盗みを禁止するものは何か。HK



p35広告表現を通じて、社会が自分のイメージを表現し、そしてそれを自分自身に伝えているという構図がある。・・・個々の「商品についての意識」と同時に「社会の無意識」が表現されているのである。



p59それは社会的な意味の次元よりももっと小さな「限界差異」の次元が、われわれの<身体>にとってより本質的な表現の場となる時代、つまり消費社会がやってくることを明らかに告げていたのである。



(2000年記)

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