唯脳論 養老孟司 1989 青土社

唯脳論

唯脳論


 あるメーリングリストで話題になっていたので、読んでみた。どこがおもしろいんだろう。単なる解剖学者の思いこみを綴ったものである。


 脳化社会についてはかなり期待をしたのだが、単に人工物は人間の脳の所産であるといっているだけである。同義反復にすぎない。しかし、所々考えさせる記述がある。自己言及性については、自己が自己を考えること、つまり自分の脳が自分の脳を考えるというところに物理的な視点と心理学的な視点の接点を見出している。西洋近代科学的な思考をする人にとっては魅力的な考えである。が、それではなにも解決しない。「意識が意識を意識する」といったほうがまだましである。


 身体性についての記述は面白いが、脳が意識とは別に自立しているような記述であり、彼が避けている「構造と機能」の混同のように思える。だだし、脳は脳を嫌っているかもしれない。(そう考えたほうが面白い。)


 日本における身体性の思想は、そう単純ではない。エタ・ヒニン(漢字が出てこないのは自己規制のせいか)が、江戸時代にどの地域(都市)で、どのように作られたのかを考える必要性がある。江戸時代にあっても、死は身近であり、成仏であったはずである。明治以降も現代に至るまで、それはつづいているのであり、それを単に身体性の思想の欠如にしてしまうことは、自己存在の不在(ファシズム)につながってしまう。


 全体として、意識を、脳の機能に還元し、身体性に近づけようとする傾向が感じられる。それが、「科学的」だと思われる風潮がある現代では受けるかもしれないが、それが孕む危険性も考えるべきである。著者は「脳死」については慎重であるが、まさしくその科学性が脳死の思想を生んでいるのである。


 むしろ、脳が意識できない(無意識)身体存在そのものが大切であって、それを脳がどう意識できるのかが問題とされなければならない。(意識できないことこそが大切であると言ってもいい。)つまり、近代科学性こそを批判するべきなのである。そこに自己言及性の解決の道があるかもしれない。(ないと思うけど)


脳化社会


 社会は脳の産物以外の何物でもない。脳が外化したものである。建物も、道路も、そして社会そのものも。


自己言及性


 脳が自分の脳を考えること。


身体性


 脳化社会が身体を嫌うのは当然である。脳は必ず自らの身体によって裏切られるからである。


 性と暴力


日本における身体思想の欠如


 社会は脳の上に成立し、個人は身体の上に成立する。



自然の統御


 外部の自然を従え、統御してきたが、我々に復讐すべき自然は、人の身体性であり、脳の身体性である。



Sat Feb 10 17:00:33 2001