終焉をめぐって 柄谷行人 1995 講談社学術文庫(1990 福武書店)

終焉をめぐって

終焉をめぐって



評論家というものがどのようなものなのかよくわからない。「○○くずれ」が「○○評論家」になるくらいに思っていた。評論家は、専門家と大衆の橋渡しとして生計を立てている。不思議な存在である。大衆は、評論家のいうことを通じて作品を理解する。しかし、それは作品を理解したのではなく、評論家のいうことを理解したのであり、評論家の理解を理解しただけなのである。

 なぜ、人は評論家(あるいは各種の解説本も含めて)を通してまで作品を理解する必要があるのだろうか。そこには、理解に対する脅迫的な欲望があり、その根本には自己の理解の必要性、すなわち自己意識の確立がある。(人は、自己を理解するためにまで通訳、たとえば精神科医、を求める。)


 そう言った意味では評論家は、自己意識が人一倍強いだけなのかもしれない。


 柄谷の評論を読んだが、私が読んだ本は一つもなかった。だから、私は伊藤仁斎がどういっているのかではなく、柄谷がどういっているのかを読むしかなかったし、それがおもしろかった。今回初めて私が読んだ本が出てきた。村上春樹の本である。「固有名」の問題として大江健三郎と並んで論じられているその内容はとてもおもしろい。


 大量生産、大量消費の現代、固有名は、自己差別化を図った商品名に圧倒され、その意味を失いつつある。固有名が、この世に唯一のものであることをやめ、全世界どこの街角にも存在するものになった。「自己」も同じ運命にさらされている。しかし、それを自己喪失と嘆くのはもう古い。自己はないのだ。社会が強制する自己と、非自己との狭間に立ってみること、あるいは同じことだが、大量生産の商品に埋もれて言葉にできない差異を感じることが現代なのであり、そこに新たな固有名の可能性があるのだ。
Mon Apr 30 17:01:45 2001























p60世界に意味があるがゆえに、「普遍」が先行しているように見える。また、ある物はたえず別の意味をもつように見える。

p61一回的な出来事性
p128まるで言語の任意の差異化が対象世界を勝手に変えてしまうかのような思考が生じる。これは、カントのあとで観念論が生まれたのと平行している。

p129固有名が重要なのは、それが対象と結びついているからではない。それがいつもすでに他者によって与えられるものだからである。いいかえれば、固有名は超越論的主観が乗り越えられない世界の外部性を示している。
p165シュティルナーはどんな類にも共同体にも属さない「この私」からなる社会的連合体を主張した。

p168歴史を目的のための手段として見、現在をたえず犠牲にしていく思考、ニーチェが『反時代的考察』で批判した「歴史主義」が1870年以降支配したのである。

p169マルクスは個と類との円環を断ち切ったのであり、この意味で、共産主義はそうした個々人の単独性singularityの解放でなければならないというシュティルナーの考えを一面で受け入れている。

p176現在の日本文学においてドミナントな傾向は、何一つ達成すべき理念や(p177)意味をもたない生を肯定すること、そして差異の戯れとしての無=関心(差異)にいたることである。

p180終わりからみることは、結果を原因の中に投射することであり、また個別的で偶然なものに一般的で必然的なものを見いだすことである。

p184人は、資本主義を社会主義や宗教と同じように任意に選びとれるものと考えているらしいのだ。もともと、これをイズムと呼ぶことに錯覚の原因がある。資本主義はたしかに幻想の体系だが、それは交換=コミュニケーションの必然に根ざすかぎりにおいて、用意に破りえない「現実性」である。そして、資本主義は、交換が貨幣を通してなされる限りにおいて不可避的にあり、またその危機も不可避的にある。
資本主義はヘーゲル的な意味で「現実的」である。

p185しかし、資本主義はそもそも「物質的」ではない。あるいは経済的下部構造でもない。それは人間と人間の交換=コミュニケーションにかかわるものであり、そこから生じ且つそれを規制する現実的な力なのだ。

p186相対としてみれば、資本主義はいまここで決済を要求されれば崩壊せざるをえない。それは、自転車操業のようにたえず決済を無限に先送りすることによって存続している。むろん、時折決済が突然要求されるときがくる。それが恐慌であり、恐慌はつねに信用恐慌としてあらわれる。

p188今日の労働者は重工業的段階のような組織的形態の中にはいないし、したがって、彼らを中央集権的に組織しようとする運動がうまく行かないのは当然である。だが、それは「消費」が「生産」にとってかわったことではない。そのこと自体が新たな生産力と生産関係のあらわれである。

p193民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。
それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、・・・表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。

p195民主主義と自由主義の拮抗しあうバランス・・・資本主義が「世界的」でありながら、同時に一国の経済としてしか実存しないという矛盾に対応するものとして、つねに具体的な局面においてあるのだ。

p198そもそも「真理」は多数決によるものではないと思うものは、暗黙に反「自由主義」的である。・・・「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。
p228ニヒリズムとは意味の不在に対する抗議であり、意味の要求に他ならない。