批評とポストモダン 柄谷行人 1989 福武文庫(1985 福武書房)

批評とポストモダン

批評とポストモダン


柄谷はつねに批評する。天性の批評家なのである。世間がある方向に進むとき、柄谷は批判する。世間が柄谷に味方すれば、柄谷は自分を批評(ここでは「批判」と同じ)するだろう。彼がソルゼニーツィンを評したように言えば、彼は本質的な「反体制家」なのだ。


 彼は、共同体制の内にいられない。しかし、外も「反=内」である。だから、彼は批評を続ける。自分をニュートラルにするために。しかも、彼は内でも外でも「場所」を求めているように思える。それが彼の弱さであり、一筋の希望の光なのではないか。その場所は自分ではない。彼は「自己」そのものをも相対化してしまう。自己は他人と同じ社会性にすぎない。彼はつねにネガティブであり続けることによってポジティブである。彼は自分の認めるために自己否定をしているように見える。他人の理解を得るために批評をしているのだ。


 その彼が「NAM」を始めるが、そこには共同体的なもの(旧いもの、形を変えた新しいもの)が現れてくるだろう。そのとき、彼は自分の場所を失うのだ。


 彼が数冊の著書を費やすより「ミニモニ」の歌の一節の方が世間に受け入れられるのだ。現代における科学性とはそういうものなのである。


 自己矛盾というとヘーゲル的であるが、私たちはヘーゲル的にしか生きられない(考えられない)のだ。ヘーゲル的なものは、資本(商品)の中に埋もれている。私たちはそれを消費して生きているのだ。テクノロジーの進歩は、少しも人類の進歩ではない。それは新しい欲求を作るための手段にすぎない。自己否定を続けるか、あるいは/かつ、神になるか。「あるいは/かつ」そのものがヘーゲル的である。