惑星の暗号 グラハム・ハンコック 田中真知訳 1998 翔泳社


確率・統計という手段は、やったことのある人ならわかると思うが、いくらでも操作ができる。いや、むしろ情報を操作するために統計するのだ。そして、人はその「結果」だけしか手にすることはできない。元データを手に入れることが可能な場合でも、基本設計や質問項目がすでに意図的に設定されていることもあり、また、当然手に入れた人が統計学の専門知識を持っていなければならない。
確率からいえば、今日、交通事故で死ぬかもしれないし、転んでけがをするかもしれない。だからといって人は外出しなくなるだろうか。必ず何人かは今日交通事故で死ぬのに。
これが地震などの自然災害となるとまた別である。逃げ場所がないからだ。そこで、心の不安を埋めるために狂信的な新興宗教に走る人も出てくる。
人は統計や確率を信じやすい。「数字は嘘をつかない」などともいう。しかし、数字は嘘をつくし、嘘を科学的に見せかけるための道具として使われる。
数字が嘘をつかないことがある。それはその表されているものが数字として意外に要素を持っていない場合である。それは「貨幣」である。だから「お金は嘘をつかない」。貨幣は数で表すよりほかに方法はない。それ以外のものを数字で表すということは、それぞれが持つ特殊性(特異性)を捨象したときである。「今日の交通事故での死亡者2名」、人を数で表すときは、それぞれの人が持つ個性を無視する限りにおいて可能である。人間を無個性の「物」として考えるのである。数は究極の抽象である。そして、資本主義はすべてを数字化しようとする動力である。個人の思考もその影響を受けているのだ。
イラクで何万人が死ぬ。復興支援に何億ドルが投入されるというとき、人は現実としてそれを認識できるのだろうか。父親が死ぬというのは現実的である(それを父親が1名死んだという人はいないであろう)。その死体を見、葬儀を行うとき、それは現実となる。1万円というのもそれを物に置き換えれば、あるいは実際に1万円がある物を買って手に入れれば、実感としてわかる。しかし、何万人の死、何億ドルのお金というのは認識をこえたもの、単なる数字である。
確率についてはもっと実感できない。コインの表裏ですら確定できないからだ。「たばこを吸うと肺ガンの発生率が5倍になる」(統計学的には無意味な数字であることはほぼ明らかであるが)ということで、人はたばこをやめようと思ったりする。しかし、5倍だというのと2倍だというのと10倍だというのは大きな違いであるはずだが、その差を認識することはできない。何倍でもいいのである。それが民衆にたばこの被害を植え付ければ。
惑星に隕石が落ちる確率はある。それ自体は正しいのであろう(この本が出たあとでNASAが彗星の衝突の可能性について発表している)。それを読む人には黙示録的な恐怖心を抱かせることができる。問題は、その恐怖心をどのような方向に導くのかということである。人々のあきらめか、宗教への誘いか、国際的な連携か。
この本が大きな話題にならなかったのは、人々の心がまだ科学(数字)に染まっていないからかもしれないし、えせ科学が横行しているせいかもしれない。いずれにしても、科学を持ってしまった人間が、その科学を自分たち全員を守るために使う可能性はある。

2006年6月10日記

お風呂本。とうとう地球を飛び出したハンコック。これで終わりかと思ったら、また新しい翻訳が出ている。そのうち安く手には入ったら読むつもりである。(長年のつきあいだから。)
昔の書評。




火星の顔と隕石が地球に衝突する話。

ハンコックの本を読む気はないのだが、偶然手に入れてしまった。現代の予言者ハンコック。科学性を装っているが、最終的には信じるか信じないかの話。なぜかというと、読者はその科学性を検証するすべがないから。

確かに、隕石は落ちるだろう。1000年後か、10万年後か、それとも明日か。