一九八四年 ジョージ・オーウェル 1949年 新庄哲夫訳 ハヤカワ文庫(1972/02/15)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

線引やメモをしてあるので、何度目かの読書だ。

『動物農場』の続編とも言えるが、寓話というより痛烈な社会批判の本である。

その対象は直接にはスターリニズムであるが、人間の心理を通してその社会がいかに形成されるかを分析するような作品だ。

管理され、自分たちの状況もわからない世界で「もし希望がありとすれば・・・それはプロレ階級の中にこそある。」「その気になりさえすれば、あすの朝にでも党を粉砕できるに違いない。」「彼らは意識を持つようにならない限り決して反逆しないであろうし、また反逆した後でなければ意識を持てないのである。」

オーウェンは支配社会の構造を三層に分け、権力の交代は上部の二階級のみで行われるという。そして、支配の方法は、暴力による強制ではではなく、自らが自らを統制するのが最善である。これはフーコーの生政治につながるものであるし、またエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」でもある。その他、外的脅威や相互監視など細く様々な方法が記述されているが、「性からの快楽の追放」という性管理、フーコーに繋がり、フロムなどから影響を受けただろう考え方が述べられていることに注目される。

それらの最後の戦いは、唯物論との戦いだ。主人公ウィンストンが拷問の中で問われるのは、記憶と歴史、情報と事実、外界と自分の関係である。役者は「唯我論」と言っているが、「唯心論」との戦いである。

今ならば「自己とは諸関係のアンサンブルだ」というテーゼが意識的な人々の間では支配的だが、現実には「自分」というものの存在性と絶対性を受け入れるように、そして今の現実そのものも自分と一緒に受け入れるように強制され続ける。現実を否定するためには自己を放棄しなければならず、それは「死」より恐ろしいことだと教えられる。「普通が一番幸せで、一番難しいことなのだ」と。まさしく「二重思考」である。

ソビエト連邦は崩壊した。しかし、『自由主義社会(経済)』はそれを学び「一九八四年」のごとく民衆を支配している。

それ対するオルタナティブな社会構成は1968年から、あるいは2011年から模索され、一部は実現されてもいる。

この本を読んで、現実の社会に対する「意識」を持つことが今必要だ。それが権力を持つものが一番恐れていることだから。メディアによる過剰情報の中で、人々は思考停止させられているが、ペシミズムに陥ることなく「別な社会」の存在と可能性を知ることが大切である。