往復書簡 限界から始まる 上野千鶴子、鈴木涼美著 2021/07/05 幻冬舎

往復書簡 限界から始まる 上野千鶴子、鈴木涼美著 2021/07/05 幻冬舎

赤裸々な往復書簡

赤裸々な本だし、そうであってほしいと思います。作り出されたものである可能性はありますし(商業主義)、ふたりとも書くことが商売ですから。それでもすべてが二人の意に反するものではないでしょう。

二人の女性が、みずからの生い立ちや性を饒舌に語る姿は、痛ましくすら感じます。

『「AV女優の社会学」なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』鈴木涼美著

鈴木さんが問いかけ(問題提起)をして、上野さんが答える形式で12回の往復書簡です。内容は二人が置かれている状況と生き方。だから、女性の立場や生き方に関するものです。娘としての自分、恋愛、過去の自分、女性差別、・・・等々です。

鈴木さんが意気込んで始めて、尻窄み。上野さんは、それを感じ取って自らをさらけ出すことによってカバーしている感じがしました。

差別から逃れられない

私は女性を馬鹿にしている差別主義者です。私はアジア人を馬鹿にしています。私は黒人を馬鹿にしています。私自身の肉体も馬鹿にしています。老人も馬鹿にしていました。でも、今自分が老人になって、自分の体以外に自分の場所はありません。頭でっかち(書物頭)な自分が嫌いです。

私は白人を馬鹿にしています。私は労働者も「大衆・民衆」も嫌いです。資本家や権力者も馬鹿にしていますが、その違いは、「被害者」あるいは「羨望」として身についているもの

親も(子供も)バカにしてきましたが、それは明らかに「優越感」に基づくものです。〈私〉を中心として、私が正しい、私のことはわかってもらえない、女性にモテたい・・・等の感情が入り混じったものです。六十数年の人生の中で、一度目覚めた〈私〉は消えること無く、世界の中心に居座っています。いつからか目覚めた差別意識からも抜け出すことができないのです。

差異と差別

AとBとが違っている、ということ、つまり「差異」があるということが差別の必要条件です。ただ、違うということだけで差別は生まれません。

リンゴとミカンは違います。でも、それは差別ではありません。優劣がないからです(人によって「リンゴが好き」あるいは「ミカンが好き」というのはありますが)。猫と犬も好き嫌いはあるでしょうが、差別とはなりません。

Aさんのうちで採れたリンゴとBさんのうちで採れたリンゴは違います(同じではありません)。ここでは差別が発生する可能性が出てきます。それは、どちらもリンゴだからです。まったく同じリンゴはありません。でも、同じ「リンゴ」だからこそ差別の可能性が出てくるのです。Aさんちのリンゴは甘いけど、Bさんちのリンゴは酸っぱい。」つまり、同じものの中に違いを見つけること。「比較する」ということです。だから、犬と猫でも「ペットにする動物」という同じ土俵に上げた場合は、差別が生まれる可能性があります。リンゴとミカンも「果物として」という共通の土台に上げることで、比較、優劣、そして差別が可能になります。人種、性別、国籍・・・等で差別が生まれるというのは、「同じ人間」という「共通点」があって、そこに優劣をつけるところに差別が発生します。

それは「なぜ猫に絶望せずに生きられるのですか」という問いでもあります。

差別は極端には「抹殺」という結末を迎えますが、そのためには「同じ人間」という土俵を外すことが必要です。つまり、「あれは人間じゃないんだ」と考えることが必要なのです。

男女の違い

男女差別がどこから発生するのかは難しいです。ただ、この本を読んでいてなにか感じました。それは、女性は他の女性を「別の自分」、男性を「別の人」つまり「他人」と見ているという感じです。その視点でいえば、子供はまさしく「別の自分」、母も別の自分、父は別の人となるのかもしれません。「他者」に対する視点が違うのです。男は他の男がまさしく「他人」です。

ただ、男も女も、異性に向かうときに「団結」するのは同じです。それが「共感」なのか「罪悪感の共有」かは異なる気がしますが。

男はわかり合えない前提で同性と話をし、女性はわかり合える前提で話をしているように思っていたのですが、『お帰りモネ』を観ていると、今は女性同士でも「わかり合えない」前提が全面に出てきつつあるような気がします。このままでは、男女ともに上野さんがいう「孤独」に向き合わなければならなくなりますね。

エゴと歴史

「なぜなら男たちは最初から自己利益を最優先して生きてきたのですし、男女を問わず、人間というものはもともと「自分が一番大事」なエゴイストだからです。」「生きるとはこの自分のエゴイズムと孤独に向き合うことにほかなりません。そしてエゴとエゴとが対等に葛藤し合うよな関係をつくることができれば、初めて男女のあいだにまともな恋愛が成立するでしょう。」(P.323)おっしゃることはもっともです。先程、自分が中心だといいました。それこそを今考えているのですが、それに付随することに触れておきます。

「自分が中心」というのは二つの意味があります。それは、自分と「他人」(あるいは「他の自己」)という、空間的な中心としての自分と、現在の自分という時間的な中心です。現在が自分の「到達点」ですから、過去の自分は「未成熟」あるいは「未完成」な自分です。今より知識は少ないし、経験も少ない存在だと思っています。でも、その瞬間に未来を考えます。未来の自分から見れば、今の自分は「未成熟・未完成」の「一段階」としての存在です。だから、未来に夢(あるいは可能性)を持つことができます。

時間と空間はまったく違います。時間を一つの「次元」と考えることが主流ですが(4次元目でも33次元目でもいいのですが)、なんか違うと感じます。単純です。空間は移動することができるし、止まることもできます。でも、時間は無情にすぎていきます。ミンコフスキー空間に対する私の違和感はそんなところです。

「未開人」「未開社会」「発展途上国」・・・それらは、(目標としての現在の)自分たちの社会より劣っているものです。同様に、人間は猿やネコや魚やウィルスよりも進化したもので、優位なものなのです。それらは支援や啓蒙、そして「哀れみ」の対象なのです。「進化論」というのはその西洋的エゴの現れにすぎません。

進化論が、社会進化論に結びつくのは当然です。

歴史を覗いたときに、そこに発見するのは「民主主義」も「平等」もない「悲惨な(劣った)」社会です。上野さんは、50年前と今との違いをどう感じているのでしょうか。フェミニズム運動を続けてきた彼女にとっては、不満なところがたくさん有ったとしても、今の社会が一定程度「進んだ」社会に見えているのではないでしょうか。きっと、50年前の女性は今より「家庭」「子ども」あるいは「家」に縛られていて、男性から今以上の差別的な扱いを受けていた、「かわいそうな」「哀れな」存在に見えているのではないでしょうか。

多分、自分の老いの中で、その感触は変わっていくだろうと思います。でも、老いが「いままでに自分が行ってきたこと、考えてきたことの否定」、つまり自己否定(エゴの否定)につながるの辛いですよね。

そして、目指すのは、(より)完全な社会、(ヨリ)完全な自分です。でも、完全な自分なんかありません。「完全」ということそのものが幻想です。もし、いうとすれば、「すべてがそのものとして完全」です。だだ、どの一つ一つも、それ単独では存在しません。そういう意味では不完全です。でも「ともかくも一個をなしている」のです。

他人を思い遣る心

「女性たちはその「共感」をもとに女性運動をやってきました。」(P.321)「共感力」ともいわれます。他人の気持ちがわかるから、「辛い生き方をしたくない、自分以外の人にもしてほしくない」と思います。これが人間独自のものではないことは、猿のミラーニューロンの研究が明らかにしています。相手の中に自分を見つけるということですね。

映画『猿の惑星』で、過去に人類の文明が有ったことを砂浜の中に「人形」を見つけることで悟るシーンがあります。イヌやネコに話しかける(ある人は植物に話しかける)ということと、人形に話しかけることは同じです。これが、「物神崇拝(フェティシズム)」の基です。

『商品経済』もこれで成り立っています。広告を見るとよくわかります。

先日の新聞に、内閣府の調査が載っていました。女性の回答者のうち「女性は女性らしい感性があるものだ」(47.7%)「女性は感情的になりやすい」(36.6%)という「無意識の思い込み(アンコンシャスバイアス)」があるそうです。男性も同じようです(前者が51.6%、後者の数字は記載されていませんでした)。たしかに、それは「思い込み」で、男性だって感情はあるし、他人を思い遣る心もアイドルに対する思いも強いものがあります。上野さんがフェミニズム運動に期待するものの中に、この「女性の」共感力はないのでしょうか。

過去の人の思いや状況は変えられませんが、今生きている女性、将来の娘や孫娘に対する「共感力」が運動を支えていると思います。

社会変革

私はマルキスト(マルクス主義者ではありません)として、社会変革を求めてきたつもりです。その中で、「どうしてわかってくれないんだろう」「どうして気づかないんだろう」という気持ちが常にありました。それと同時に、「大衆が支持している社会や政権を私が否定できるんだろうか、私じゃなくて大衆が主人公なんじゃないのか」という思いも強くありました。

私は、ひねくれ者の天の邪鬼です。「規則」とか「道徳・倫理」という言葉が大嫌いでした。だから、「お前はこうする〈べき〉だ」とか、「世の中はこうある〈べき〉だ」という言葉には常に反発をしてきました。倫理じゃなくて論理でなくてはならないと(「論理的に語る〈べき〉だ」(笑))。ところが、労働運動をする中で、その〈べき〉というのは多く出てきます。そりゃそうです。社会変革は、現状とは違う、新しくて、よりよい社会を作ろうとすることですから、当然〈べき〉が多く出てきます。そして、「前衛」は「気づいた者」として「気づかない大衆」に向かって「何をなす〈べき〉か "Что делать?"」(レーニン)と問いかけるのです。私はそこに「科学」ではなく「宗教」の匂いを感じました。宗教も、私しが拒否してきた(むしろ憎んできた)ものです。

それは、気付いた者の「傲慢(高慢)」、他人に対する「冒涜」でしかないのではないか、ということです。それはまさしく「エゴ」です。世の中を変えたい、良くしたいというのは「エゴ」でしかないのではないかという思いです。「私は辛い」と言うのはいいのです。「だから、お前も辛いだろ」と言うのは「余計なお世話」です(と同時に「自分の苦しさに名前をつけられて(「経験の定義」)安心した。だから、助けてほしい、自分を助けたい」という気持ちになる人もいます)。でも、「私は私、あなたはあなた」では社会は変わらないと思いました。「共感(力)」に希望を持ちながらも、それが「自我」と「社会」の橋渡しをするかもしれないという思いもありました。

「わたしは社会変革とは、ホンネの変化ではなく、タテマエの変化だと考えています。そして、そこまでが限界だと考えています。」(P.291)今の世代(社会)のタテマエが変われば、次の世代のホンネが変わるような気がします。タテマエとは「社会」あるいは「文化」のことです。ホンネを変えるのは宗教家の仕事です。でも、タテマエが変わるのも辛いです。

なぜ男に絶望せずにいられるのか

鈴木さんの大きな問いの一つは「なぜ男に絶望せずにいられるのですか」というものです。長年、フェミニズム運動(女性解放運動)の最前線で、散々「男を批難してきた」(と思われている)上野さんに、ブルセラショップ以来、いやらしくてバカで情けない男たちに絶望してきた鈴木さんが問いかけます。

それに対する上野さんの答えは、「「しょせん男なんて」という気は、わたしにはありません。「男なんて」「女なんて」というのは、「人間なんて」と言うのと同じくらい、冒瀆(「涜」の印刷字体)的だからです。人間は卑劣で狡猾でもありますが、高邁で崇高でもありえます」(P.260)というものです。

私が上野さんに問いたいのは、むしろ「それじゃあ、なぜ人間に(あるいは自分に)絶望せずにいられるのですか」ということです。私は絶望しながらも、なんとか生きてきましたが、どの哲学者も、学者も、運動家も、何かしらの希望を見つけていたように思います。中にはニーチェのように壊れてしまった人、ソクラテスのように社会に従って死んだ人もいます。でも、ほとんどの人が生きている社会(文化・構造)の中で、希望を見つけて(あるいは希望を求めて)「書く」という行為を止めませんでした(ソクラテスは書いていませんが)。みんな悩んで、何かに気がついて書き残しました。だから著作は残っているのです。はじめから絶望している人は書くこともなく死んでいったのだろうと思います。

著者、あるいはフェミニズム

著者ふたりがしっかり乗せられちゃって、編集者の勝ち。役者よりも監督が勝った感じです。

上野さんは、最近は「おひとりさま」という自分の状況を基礎に、様々な文章を書いています。彼女はもともと毒舌で、鋭い切り口が持ち味です。私は、そう多くは読んでいませんが、自分自身のことも結構書いているように思います。自分自身が置かれた状況で、自分自身を語る。それが、彼女が支持される理由だと思います。「現在」「ここ」にいる自分を語ること。それは「中心としての自分」〈エゴ〉を語ることにほかなりません。エゴなしに『上野千鶴子』は存在しません。

上野さんがウケたもう一つの理由は(それはフェミニズムが一定の勢力を持った理由でもありますが)彼女の著作のタイトルです。『女遊び』『スカートの下の劇場』、『発情装置』・・・。それらのタイトルは、スケベでバカな男どもが喜んで手に取るものです。もちろん、上野さん自身が言っているように、それと同時に『資本制と家事労働』『構造主義の冒険』『近代家族の成立と終焉』・・・という「硬い」タイトルの本もたくさん書いています。

それは、彼女が(多分、苦笑しながら)書いているように、「女は自己利益を男を通じてしか追求できない構造のもとに置かれてきたので、女の生存戦略は「男をたらしこむこと」だったり「男につけこむ」ことだった」(P.322)と見られてもしょうがありません。

でも、それ自身は本質的なことではありません。問題は、〈エゴ〉が「友人の死とともに少しずつ減っていく」、「老い」が減らすのを待つということです。「自ら」〈エゴ〉を放棄することの難しさです。

「信じる」こと(宗教の助けを借りること)をせずに「自我を放棄すること」は、わたしにもできないでいます。「生きるとはこの自分のエゴイズムと孤独に向き合うことにほかなりません」(P.323)。そうなんです。でも、それは「特殊な社会」の「ある時代に特有なこと」だというのも事実です。

フェミニズム(ウーマンリブ)が社会を変えたのは間違いないでしょう。弱者、少数者、被支配者等の「声」が社会に届くようになったとも言われます。

SNSなどのITがそれを推進した、とか言われます。「〇〇ハラスメント」なるものが、100以上も現れています。

その一方で、「労働者の声」は聞こえなくなりました。女性が社会進出したことで、男性の賃金は半分以下になりました。専業主婦願望の女性がいくら増えても、「妻子を養える」男性(それを「甲斐性持ち」と言いました。「浮気は男の甲斐性」とも言われましたが)は一握りしかいなくなりました。「「分断支配」の鉄則」(P.101)が功を奏して、労働者(被支配者)の間の亀裂は深まっています。

金持ちとそれ以外の人の格差はどんどん広がっています。コロナ禍の間にGAFA(GAFAM)は「史上最高」の利益を上げ、ビル・ゲイツらは、資産を倍増させています。それに「フェミニズム」が寄与しなかった、とは私は考えていません。

フェミニズムは、「男性と対等になること」「男性と同じ土俵に立つこと」だけを目指していたわけではないでしょう。対等になるためには、まず同じ土俵に上がらなければなりませんが、「対等になること」「同じ土俵に上がること」が目的ではなかったのではないでしょうか。「土俵(が有るのが)おかしい」というのが、その始まりに有ったように私は思っています。少なくとも私はそう思っていました。

ノーベル賞が話題になっています。日本人が獲ったとか、少ないとか。カズオ・イシグロが「日本人受賞者」に載っているのは笑いましたが、あれは「世界」の賞ではなくて、欧米の賞です。アカデミー賞がアメリカの賞であるのと同じです。欧米にとっては「世界」は自分たちであり、「人間」は男です。日本がそれを真似したり、ありがたがったりする必要はまったくありません。

男性と女性は「違い」ます。男性と女性を同じ土俵に上がらせたときに「土俵に乗れない人」が出てきます。対等になる、ということは「対等じゃないもの」を生み出すことです。それが、性的少数者だったり、障害者だったり、老人だったり、子供だったりするのではないでしょうか。そしてそれらの存在は「差別(あるいは罪悪感、優越感)の裏返し」である「同情」(場合によっては「共感」)によって「許される」のではないでしょうか。

「みんなが土俵に上がることを目指す。みんなが上がったときに、土俵の意味がなくなる。」そうでしょうか。科学が発展して、生産力が無限になれば、希少性がなくなる。みんなが、無限と言われる人間の欲望を満たせる。でも、それは「不満が永遠に続く」というのと同義ですね。

逆に、世界は有限だから、自分の欲望を抑えよう、というのも同義です。SDGsの発想も同じです。

タテマエ(構造、社会)が変わればホンネ(感情、個人)は変わるでしょう。でも、その対立は、「自我(エゴ)を中心(出発点)に置く限り」いつまでも続くと思うのです。私は、フェミニズムが「違い」と向き合うことから始まっているところに、その乗り越えの可能性を見出しています。上野さんの発言が持つは「豊かさ」と「矛盾」こそが、「可能性」だと思います。

今の、この社会に生きる自分の〈エゴ〉は、いつでも「限界」です。常にわたしたちは限界にいて、そこから始まります。〈エゴ〉を私は50年以上前に「特異点」と名付けました。「限界」はその特異点であり、〈エゴ〉です。「限界から始まる」というのは、「我思う、故に我あり」と同じことです。「そこから始まる」のではなくて、「なぜそれがあるのか」を考える時期に来ているのではないか、「自分のエゴイズムと孤独に向き合う」人生をそろそろ「卒業する」〈べき〉なんじゃないか、西洋的な「永遠の思春期」(中二病)に付き合う必要はないんじゃないか、とこの頃感じています。

〈impressions〉

Naked round-trip letter

It's a naked book, and I hope it is. It could have been created (commercialism), and writing both is a business. Still, not everything is against their will.

It feels painful to see the two women talk about their upbringing and sexuality.

"Sociology of AV actresses" Why do they talk about themselves? "By Ryomi Suzuki

This is a 12-time round-trip letter in the form of Mr. Suzuki asking a question (raising a problem) and Mr. Ueno answering. The content is the situation and the way of life where the two are placed. So it's about women's position and way of life. My daughter's self, romance, past self, discrimination against women, and so on.

It wasn't until Mr. Suzuki was enthusiastic that his hips were narrowed. Mr. Ueno felt that he was covering it by exposing himself.

I can't escape discrimination

I'm a racist who makes fun of women. I'm making a fool of Asians. I'm a fool of black people. I also make a fool of my own body. The old man was also a fool. But now that I'm an old man, I have no place other than my body. I hate myself as a big head (book head).

I'm making a fool of white people. I hate both workers and the "popular". Capitalists and powers are also ridiculous, but the difference is what they have as "victims" or "envy."

Parents (and children) have been stupid, but it's clearly based on a "superiority complex." Centered around , it is a mixture of emotions such as I am right, I do not understand me, I want to be popular with women, and so on. In my 60-odd years of life, I, who once awoke, never disappears and stays in the center of the world. We cannot get out of the sense of discrimination that we have awakened for some time.

Differences and discrimination

The fact that A and B are different, that is, that there is a "difference", is a prerequisite for discrimination. However, discrimination does not occur just because they are different.

Apples and oranges are different. But that is not discrimination. Because there is no superiority or inferiority (although some people say "I like apples" or "I like oranges"). Cats and dogs may like or dislike, but they are not discriminatory.

The apples harvested by Mr. A and the apples harvested by Mr. B are different (not the same). Discrimination can occur here. That's because both are apples. No apple is exactly the same. However, there is a possibility of discrimination because it is the same "apple". Mr. A's apple is sweet, but Mr. B's apple is sour. That is, to find the difference in the same thing. It means "comparing". Therefore, if dogs and cats are raised to the same level as "animals to be pets," discrimination can occur. By raising apples and oranges to a common foundation of "as fruits," comparison, superiority, and discrimination are possible. Discrimination based on race, gender, nationality, etc. means that there is a "commonality" of "same person", and discrimination occurs where superiority or inferiority is given.

It is also the question, "Why can you live without despair from cats?"

Discrimination ends up in the extreme of "eradication," but to do so, it is necessary to remove the "same human being." In other words, it is necessary to think that "that is not a human being."

Difference between men and women

It is difficult to know where gender discrimination comes from. However, I felt something while reading this book. It's like a woman sees another woman as "another self" and a man as "another person" or "another person". From that point of view, the child may be just another person, the mother may be another person, and the father may be another person. The perspective on "others" is different. A man is just another man.

However, it is the same for both men and women to "unify" when heading for the opposite sex. I think it's different whether it's "empathy" or "sharing guilt."

I thought that men talked to the same sex on the premise that they couldn't understand each other, and women talked on the premise that they could understand each other. I feel that the premise of "I don't understand each other" is emerging. At this rate, both men and women will have to face the "loneliness" that Mr. Ueno calls.

Ego and history

"Because men have lived with the highest priority on self-interest from the beginning, and human beings, regardless of gender, are originally" the most important "egoists. "To live is nothing but to face this egoism and loneliness. And if the ego and the ego can create a relationship that conflicts with each other on an equal footing, a decent love affair will be established between men and women for the first time. Probably. ”(P.323) You are right. Earlier, I said that I was the center. I'm thinking about that now, but I would like to mention that it accompanies it.

"I am the center" has two meanings. It is the spatial center of yourself and the "other" (or "other self") and the temporal center of your present self. Since the present is my "achievement point", my past self is "immature" or "unfinished". I think he has less knowledge and less experience than he does now. But at that moment, I think about the future. From the perspective of my future self, I am now a "one step" of "immature / unfinished". So you can have dreams (or possibilities) in the future.

Time and space are completely different. It is mainstream to think of time as one "dimension" (4th dimension or 33rd dimension is fine), but I feel something different. It's simple. Space can move and can stop. But time goes by ruthlessly. That's what makes me feel uncomfortable with the Minkowski space.

"Barbarians," "barbarians," "developing countries," ... they are inferior to their own society (as a goal). Similarly, humans are more advanced and superior to monkeys, cats, fish and viruses. They are the object of support, enlightenment, and "compassion." "Evolution" is just a manifestation of that Western ego.

It is natural that the theory of evolution is linked to the theory of social evolution.

When we look into history, we discover a "disastrous (inferior)" society without "democracy" or "equality." How does Mr. Ueno feel about the difference between 50 years ago and now? For her, who has continued the feminist movement, even if there are many dissatisfactions, it seems that the present society seems to be a "advanced" society to some extent. I'm sure that women 50 years ago were more tied to their "home," "children," or "house," and were treated more discriminatory by men, becoming "poor" and "poor." Isn't it visible?

Maybe that feeling will change as I grow older. However, it is hard for old people to lead to "denial of what they have done and thoughts", that is, self-denial (denial of ego).

And the aim is (more) perfect society, (yori) perfect self. But I'm not perfect myself. "Perfect" itself is an illusion. If so, "everything is perfect as it is". However, none of them exist by themselves. In that sense, it is incomplete. But "it's just one".

A caring heart for others

"Women have been doing the women's movement based on that" empathy. " (P.321) It is also called "empathy." Because I can understand the feelings of others, I think, "I don't want to live a hard life, I don't want people other than myself to do it." Studies of monkey mirror neurons have shown that this is not unique to humans. It means finding yourself in the other person.

In the movie "Planet of the Apes", there is a scene where you realize that there was a human civilization in the past by finding a "doll" on the sandy beach. Talking to a dog or cat (some talk to a plant) is the same as talking to a doll. This is the basis of "reification (fetishism)".

The "commodity economy" is also made up of this. You can see it by looking at the advertisement.

A survey by the Cabinet Office appeared in the newspaper the other day. Among the female respondents, there are "unconscious beliefs (unconscious bias)" that "women have feminine sensibilities" (47.7%) and "women tend to be emotional" (36.6%). The same is true for men (51.6% for the former and no figures for the latter). Certainly, it is a "belief", and even men have emotions, and they have a strong feeling of caring for others and a strong feeling for idols. Isn't this "female" empathy in what Mr. Ueno expects from the feminist movement?

I can't change the thoughts and circumstances of people in the past, but I think that "empathy" for women living now and future daughters and granddaughters supports the movement.

Social change

As a Marxist (not a Marxist), I intend to seek social change. Among them, I always had the feelings of "why don't you understand" and "why don't you notice?" At the same time, I was strongly wondering, "I wonder if I can deny the society and government that the masses support, or if the masses are the main characters, not me."

I am a twister's heavenly evil spirit. I hated the words "rules" and "morals and ethics." Therefore, I have always opposed the words "you should do this" and "the world should do this". It must be logical, not ethical ("should" speak logically "(laughs)). However, in the labor movement, there are many "should" things to do. That's right. Social change is about creating a new and better society that is different from the current situation, so naturally there are many things that should be done. Then, the "avant-garde" asks the "unaware mass" as "the person who noticed" "what should be done" "Что делать?" (Lenin). I felt the smell of "religion" instead of "science". Religion is also something I have rejected (or rather hated).

It means that it is nothing more than "arrogance" of the person who noticed it, and "blasphemy" of others. It's just an "ego". I think that it is only the "ego" that wants to change and improve the world. It's good to say "I'm spicy". "That's why it's painful for you too" is "extra care" (at the same time, "I was relieved to be named for my suffering (" definition of experience "). Some people feel like "I want to help"). However, I thought that society would not change with "I am me, you are you". While having hope for "empathy (power)," I also thought that it might bridge the "ego" and "society."

"I think that social change is not a change in the real world, but a change in the vertical, and I think that is the limit." (P.291) The current generation (society) of the vertical If it changes, I feel that the next generation of real people will change. Tatemae means "society" or "culture". It is the job of a religionist to change the truth. However, it is hard for the vertical to change.

Why can a man not despair?

One of Mr. Suzuki's big questions is, "Why can a man not despair?" For many years, at the forefront of the feminist movement (women's liberation movement), Mr. Ueno, who has been "criticizing men" (believed to be), and Mr. Suzuki, who has been desperate for nasty, stupid and pathetic men since the Brucella shop. Asks.

Mr. Ueno's answer to that is, "I don't feel like a man." "A man" and "a woman" are as profane (printed font of "涜") as "human beings". Humans are sneaky and cunning, but they can also be noble and sublime ”(P.260).

The question I would like to ask Mr. Ueno is, rather, "Why can we not despair of humans (or ourselves)?" I've managed to survive in despair, but I think every philosopher, scholar, and activist has found some hope. Some have broken down like Nietzsche, and some have died according to society like Socrates. However, in the society (culture / structure) in which most people live, they did not stop the act of finding hope (or seeking hope) and "writing" (though Socrates did not write). Everyone was worried, noticed something and wrote it down. That is why the work remains. I think those who were desperate from the beginning died without writing.

Author or feminism

The editor wins because the two authors are firmly on board. It feels like the director has won over the actors.

Recently, Mr. Ueno has written various sentences based on his own situation of "one person". She is originally a poisonous tongue, and her sharp cut is a characteristic. I haven't read so much, but I think I've written quite a bit about myself. Talk about yourself in the situation you are in. I think that's why she's so popular. Talk about yourself in the "present" and "here". It is nothing but talking about "self as the center" (ego). "Chizuko Ueno" does not exist without ego.

Another reason Ueno was so excited (although that is also why feminism had a certain power) is the title of her work. "Women's play", "Theatre under the skirt", "Estrus" ... Those titles are gladly picked up by lewd and stupid guys. Of course, as Mr. Ueno himself said, at the same time, he wrote many books with "hard" titles such as "capitalism and domestic labor," "adventure of structuralism," "establishment and end of modern families." ..

As she writes (perhaps with a bitter smile), "Women have been placed under a structure where self-interest can only be pursued through men, so a woman's survival strategy is to" bring in a man. It can't be helped if it is seen as "or" to take advantage of a man "" (P.322).

But that is not essential in itself. The problem is that "decreases little by little with the death of a friend" and waits for "old age" to decrease. It is difficult to abandon "self" .

I can't "give up my ego" without "believing" (with the help of religion). "To live is nothing but to face this egoism and loneliness" (P.323). That's right. However, it is also a fact that it is a "special society" that is "unique to a certain era."

There is no doubt that feminism (Woman's liberation) has changed society. It is also said that the "voices" of the vulnerable, the minority, the ruled, etc. have come to reach society.

It is said that IT such as SNS promoted it. More than 100 "○○ harassment" have appeared.

On the other hand, the "worker's voice" has disappeared. With the advancement of women into society, men's wages have fallen to less than half. No matter how many women want to be full-time housewives, there are only a handful of men who can "feed their wives and children" (I called it "worthiness", although it was also said that "affair is worth a man"). lost. The "Iron Rule of" Divided Rule "" (P.101) has been successful, and the cracks between workers (controlled) are deepening.

The gap between the rich and the rest is widening. GAFA (GAFAM) made "highest ever" profits during the Corona disaster, and Bill Gates and others have doubled their wealth. I don't think that "feminism" did not contribute to it.

Feminism wasn't just about "being equal to men" and "standing on the same footing as men." In order to be equal, you must first go up to the same level, but I think the purpose was not to be equal or to go up to the same level. I think that "it is strange that there is a ring" was at the beginning. At least I thought so.

The Nobel Prize has become a hot topic. The Japanese caught it or it was scarce. I laughed that Kazuo Ishiguro was listed as a "Japanese Winner", but that was not a "World" award, but a Western award. The Academy Awards are the same as the American Awards. For the West, the "world" is ourselves, and the "humans" are men. Japan doesn't have to imitate or appreciate it at all.

Men and women are "different". When men and women are raised to the same ring, some people cannot get on the ring. To be equal means to create something that is not equal. Maybe it's a sexual minority, a disabled person, an old man, or a child. And their existence may be "forgiving" by "sympathy" (or "empathy" in some cases), which is "the inside out of discrimination (or guilt, superiority complex)".

"Everyone aims to go up to the ring. When everyone goes up, the meaning of the ring disappears." Is that so? As science develops and productivity becomes infinite, shortage disappears. Everyone can satisfy the human desire that is said to be infinite. But that is synonymous with "dissatisfaction lasts forever."

On the contrary, since the world is finite, it is synonymous with trying to suppress one's desires. The idea of ​​SDGs is the same.

If the vertical (structure, society) changes, the real (emotion, individual) will change. However, I think that the conflict will continue forever "as long as the ego is at the center (starting point)". I find the possibility of overcoming feminism where it begins with facing the "difference." I think that "richness" and "contradiction" are the "potentials" of Mr. Ueno's remarks.

My "ego" living in this society today is always the "limit". We are always at the limit and start from there. I named the ego a "singularity" over 50 years ago. The "limit" is its singularity, the . "Starting from the limit" is the same as "I think, therefore I am". Maybe it's time to think about "why it's there" instead of "starting from there", "face your egoism and loneliness" and "graduate" from your life. I feel that it is not necessary to deal with the Western "eternal adolescence" (Chunibyo) these days.

 

[著者等(プロフィール)]

上野千鶴子(うえの・ちづこ)
1948年富山県生まれ。東京大学名誉教授。2011年から認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。女性学、ジェンダー研究の第一人者。京都大学大学院社会学博士課程修了。社会学博士。1993年東京大学文学部助教授に。1995年から2011年まで東京大学大学院人文社会系研究科教授。『スカートの下の劇場』『家父長制と資本制』『ナショナリズムとジェンダー』『生き延びるための思想』『ケアの社会学』『女ぎらい』『おひとりさまの老後』『在宅ひとり死のススメ』など多数の著書がある。


鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。作家。慶應義塾大学環境情報学部卒業、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。大学在学中に、キャバクラのホステス、AV女優などの経験を経たのち、2009年から日本経済新聞社に勤務。記者となるが、2014年に自主退職。著書に『「AV女優」の社会学』『身体を売ったらサヨウナラ 』『愛と子宮に花束を』『おじさんメモリアル』『オンナの値段』『女がそんなことで喜ぶと思うなよ』『すべてを手に入れたってしあわせなわけじゃない』、『ニッポンのおじさん』など。



「上野さんは、なぜ男に絶望せずにいられるのですか? 」
女の新しい道を作った稀代のフェミニストと、その道で女の自由を満喫した気鋭の作家が限界まできた男と女の構造を率直に、真摯に、大胆に、解体する。

「しょせん男なんて」と言う気は、わたしにはありません。――上野
・女の身体は資本か? 負債か?
・娘を幸せにするのは知的な母か? 愚かな母か?
・愛とセックスの分離から得たもの、失ったもの
・家族だけが磐石だという価値観は誰に植え付けられたのか?
・人間から卑劣さ、差別心をなくすことはできるのか?
「エロス資本」「母と娘」「恋愛とセックス」「結婚」「承認欲求」「能力」「仕事」「自立」「連帯」「フェミニズム」「自由」「男」――崖っぷちの現実から、希望を見出す、手加減なしの言葉の応酬!



〈書抜〉


1 エロス資本
(上野)「「エロス資本」は努力によって獲得することもできず(努力によって獲得できるというひともいますが、それには限界があります)、蓄積することもできないばかりか、年齢とともに目減りしていくだけのものだからです。しかもその価値は、一方的に評価されるだけで、評価基準はもっぱら評価者の手の内にあります。つまり資本の所有者がその資本のコントロールができないという状況のもとにある財を、「資本」と呼ぶことは端的にまちがっています。資本主義は基本的に私的所有と結びついていますが、「エロス資本」の帰属先(すなわち女性)が、その所有主体であるかどうかも疑わしい状況を、「資本」と呼ぶことに、まぎらわしいメタファー以外の効果はありません。この概念が示すのは「若くてキレイな女性はトク」という通俗的な世間知を、アカデミックに粉飾しただけのものでしょう。」(P.23)__資本は資本家の所有(私有)を超えている。
「なぜなら対価を伴う「性の市場」というものが、すでに成り立っているからです。」(同)
「あなた自身が書いているように「強制的に与えられ、その後剥ぎ取られる」「意思と関係なく持っている」ものを、「資本」などと呼んではならないのです。」(P.24)__「カラダが資本」。男女関係なく目減りしていく。
「私も若いころ、逸脱的なふるまいをするたびに、こんなにつまらないことがこんなにおいしいのは、ひたすら「親の禁止」があるからだ、とわかっていました。」(P.25)
「その際のもっとも強力なエクスキューズが「自己決定」です。(LF)「性の市場」は、経済資本の上で圧倒的なジェンダー非対称性があることによって成り立っています。」(P.26)__労働者と資本の非対称。自己決定。対等な契約ではない。
「社会学に構造か主体か、というディレンマがあることは、ご存じですね。主体が個人として「自己決定」を主張すればするほど、構造は免責されます。構造的劣位にあるものが、その劣位を逆手にとって構造から搾取することは、短期的には成り立ちますが、長期的には構造を再生さるる結果になることは、...」(P.30)
2 母と娘
(鈴木)「でも幼心には、黙ることが許されず、自分の思いのたけを常に説明させられる環境は、逆に言葉の外に出る自由がないような気分にさせられるものでした。」(P.40)__「女性は感情的」?
(上野)「その「侮辱」は男性の性的ファンタジーを具現化したものにほかなりません。」(P.56)
「(男にとって不利な)女性の経験を過小評価し、自己を免責するのは男性の定石、それを内面化する女性がいるというのは、彼らにとって好つごうです。」(P.57)
「その自分の経験や感覚を信じ尊重できない人間が、他人の経験や感覚を信じ尊重できるわけがないのです(それを前提でわたしは「『被害者』を名のることは、弱さの証ではなく、強さの証」と書きました)。」(P.58)
3 恋愛とセックス
(P.61)__オナニー。客体としての自分の体
(P.65)__男と女の違い。リンゴとミカンの違い。AさんのリンゴとBさんのリンゴとの違い。違う「ちがい」を違うと言うこと。違うことと優劣とは違う。
(P.66)__尊厳・尊重と自己。優劣ではない尊厳とは。
(P.69)__アウシュヴィッツのあとに詩は可能か。フェミニズムのあとに恋愛は可能か。
(上野)「近代のセクシュアリティは、「性と愛を一致させなければならぬ」と(女にだけ)命じました。ロマンティック・ラブ・イデオロギーは、今から思えば一致するはずのないものをむりやり一致させようとする凄技のトリックだったのですけれども、半世紀経って、ようやく性と愛は別のものだから、べつべつに扱うほうがよいと、あるべきところにさしもどされるようになりました。そこまではよかったのですが、その変化がもたらした効果は何だったでしょうか?」(P.75)
「性のハードルはおそろしく下がったのに、せいのクオリティはいっこうに上がらないことを。」(P.76)
「実のところ、メディアは恋愛の学習装置です。性だって愛だって、わたしたちはあらかじめメディアの中でそれがなにかを学習しているからこそ、経験に名前を与えることができるのです。」(同)
「あとになってそれに該当する感情を経験したときに、「ああ、これが(あの物語で知っていた)恋愛というものなのね」と得心することを「経験の定義」といいます。あらかじめ知っている概念がなければ、経験に名前をつけることはできません。」(同)
「(ついでにあわてて付け加えておきますが、前近代の日本では、女性に性欲や快楽かあることは当然視されていました。)」(P.77)
「快楽もまた学習されます。男のように単純な快楽と違って、女性の快楽の学習にはテマヒマがかかります。」(P.78)__違っていいけど、男の快楽だって作られたものです。
「女の快楽を受動的なものだと思ってはなりません。ひとはそれを自らに受け入れたときだけ、快楽を感じることができます。同じルーティンをくりかえしても、女の側に能動的な「受容」と「没入」がなければ、快楽など訪れようがないのです。」(P.79)__だから、作られるんだって。
「しかしわたしを含めて、吉本読みの女たちは「対幻想に」衝撃を受けました。「恋愛は論じるものではない、するものだ」と見なされていたじ時代に、恋愛が「論じるに値する」思想的な課題であることを示してくれたからです。」「異性愛が相対化されても、LGBTQのあいででも「カップル」信仰はなくなっていないと感じます。(LF)「「恋愛」というのは日本近代が生んだ翻訳語です。前近代には「惚れる」とか「色好み」という表現はありましたが、「恋愛」という用語はありませんでした。近代になってむき出しの個人になることを強いられた男女が、「自我の闘争」である「恋愛」のゲーム場へと、「新しい男」と「新しい女」とをプレーヤーとして召喚しました。」(P.80)
「女以外の何者にもなれない/なることを許されない女にとっては、男を人間からひきはがしてタダの「男」にむき出しにするのは、対等な「恋愛」ゲームを演じるための条件でした。(LF)「恋愛」は自我の闘争です。私には「女」になるためにゲームの相手である「男」が必要でした。そして自分の女としてのアイデンティティが、男の存在に依存していることをふかく自覚していました。」(P.81)__男=「人間」の西洋文化。日本・中国はもともとは違ったと思う。
「恋愛とは相手の自我を奪い、自分の自我を放棄する闘争の場です。」(P.82)__自我を失わなくていい男と、自我を失うことを(何度か)強制される女。整理、恋愛、セックス、結婚、妊娠、出産、子育て、・・・。社会(構造)。
「ですが、親子関係は(FF)圧倒的に非対称な関係であるうえに、「母性」が過剰に神話化されているために、親になった男女が自分のエゴイズムを自覚することはきっと困難でしょう。」(P.82-83)
「付け加えておくならば、「恋愛」は決して自我の境界線を死守するようなゲームではありません。自分とは違う他者の手応えをしたたかに味わうことを通じて、自分と他者とを同時に知っていく過程です。他者が絶対的に隔絶した存在であること、他者とは決して所有もコントロ(FF)ールもできない存在であることを確認しあう行為です。」(P.83-84)__女性にとって、他の女性(や自分の子供)は「違う自我」、男性は「他者」、という感覚。男性にとっては、他の男性も「他者」なのではないか。そもそも、自我を作らなければならないという「思い込み」はどこからきているのか。
4 結婚
(上野)「男にとってつごうのよいカテゴリーにとどまってくれる限りは女を「尊んでくれる」とありますが、「尊ぶ」というより、もっと正確にいえば、そのカテゴリーにふさわしい扱いをしてくれるだけ。しかもこの3つのカテゴリーのあいだに序列をつけて、女性同士を対立させ、差別するのが、「分断支配」の鉄則です。この家父長制の狡知に絡め取られて、どれほどの女が「女の敵は女」と無用な対立をさせられてきたことでしょう。」(P.101)
「あなたも「この母親」を選んで生まれてきたわけではないでしょうが、お母さまにしてみても「この娘」を選んで産んだわけではなかったことでしょう。「家族」という言葉がマジックワードになるのは、この選べない運命性をひとが求めているからだとしか思えない節があります。」(P.110)
5 承認欲求
(鈴木)「少女漫画も一世紀の歴史の中で多様化していますが、特別な何かになる機会、承認欲求が満たされる機会として恋愛が絶対的なものである点ではあまり変わっていません。」(P.119)
(上野)「フーコー流に言うなら、統制権力が内面化した結果、強制ではなく自発性に見える、たとえば見合い結婚が減少して恋愛結婚が増加しても結婚市場におけるマッチングに少しも変化が見られない(親が選ぶ代わりに、同じような相手を本人自身が選ぶ)という現象と似ています。」(P.135)
6 能力
(上野)「身体は自分の思うようにならない、身体は自分にとって最初の他者だ、と思うようになったのは、障害者のひとたちとつきあうようになってからでした。あのひとたちは、長期にわたってままならない身体とつきあってきています。他人とはままならないものですが、それ以前に自分の身体というままならない他者とつきあわなくてはなりません。加齢とは、誰もが中途障害者になるようなものです。」(P.168)
「乱暴に扱えば、心もカラダも壊れます。壊れものは壊れものらしく扱わなければなりません。」(同)
7 仕事
__告白合戦の様相を呈してきた。
8 自立
(上野)「いつも学生たちに言ってきたことは、誰に届けたいか、文章の宛先addresseeに、できれば顔の浮かぶ固有名詞をもった誰かを想定して書きなさい、ということでした。」(P.218)__なるほど。
「なるほど、文化というのは経済的保障と時間がないと生まれないのだな、と思いましたが、カネとゆとりは必要条件であって十分条件ではない、ということがよくわかります。」(P.219)
「親と教師は、あるとき子どもや学生から「長いあいだお世話になりました。明日からあなたはもう要りません」と言ってもらうために存在する、と思ってきました。それからあとは、自分を育てるのは自分だけです。」(P.220)
9 連帯
(鈴木)「私が次第に夜の世界に所在なさとういうか、居心地の悪さを感じ出したのは、(FF)ここでしか生きられないからこの場所を選んで、その「運命を選択に変えた者たち」と言ってもいい友人たちもいる中で、ここでしか生きられないわけではなかった者として、劣等感を持っていたからかもしれません。」(P.224-225)
「私にとって売文業がvocation、profession,jobのどれであるか、という問いを投げかけてくださいました。」(P.225)
(P.229)__自由と社会の対立
(上野)「「三歳児神話」なんて現実が変わればこんなにあっけなく消えてしまうのか、母性をとりまく規範は、なんとまあごつごう主義なんだろう、と感じ入ったものです。(P.234)
「子どもに障害や難病があると、逃げたり否認したりできるのか・・・日本の男たちは子捨てをしてきたのだ、と思わないわけにはいきません。ですが、そのツケは確実に彼らにまわっています。(LF)「ワンオペ育児」ということばがなかった時代には、「密室育児」「母子密着」ということばがありました。わたしたちは登場しはじめのコインロッカーに子どもを捨てた母親の世代です。」(P.235)__怖い予言。だけど、先に女性たちにまわってきていると思います。
「年に一度も面と向かって会うことができなくても、ましてこのコロナ隔離のもとでは対面することがかなわなくても、あのひとがあそこで生きている、と思えるだけで、大きな安堵があ(FF)りますし、もし、まんがいち、あのひとがいなくなったら、と考えるだけで、その喪失感にうちのめされそうになります。なるほどなあ、長生きすることのつらさのひとつはこれなのか、おのれを知るひとがひとり去り、ふたり去りするたびに、そのひとと共にした経験ごと、私の一部があの世に持っていかれてしまう・・・そうやってわたしが少しずつ削られていく、という経験なのか、と。」(P.237-238)
10 フェミニズム
(鈴木)・・・「相手をブロックして内輪のグループをあまりに簡単に固めてしまえるSNS社会で、」(P.252)
(上野)・・・「、むしろホンネやだらしなさを無防備にさらけだすために、彼らはわざわざおカネを払ってまで夜の街に繰り出すのかもしれません。」(P.256)
「それにしても、なぜ男はあれほど無防備に、自分のなかのもっとも自分勝手で卑劣な部分を女に向かってはさらけだすことができるのでしょう?そして臆面もなく、その無理無体な要求をまるごとすべて受け容れよと、女に求めることができるのでしょう?」(P.257)__「カサンドラ症候群」。きついなあ。甘えちゃダメなんでしょうか。女性だって、男に甘えるもんだと思うんだけど。そういったさらけ出しは自我を崩して相互侵入する契機なのではないでしょうか。
「「しょせん男なんて」という気は、わたしにはありません。「男なんて」「女なんて」というのは、「人間なんて」と言うのと同じくらい、冒瀆(「涜」の旧字体)的だからです。人間は卑劣で狡猾でもありますが、高邁で崇高でもありえます。」(P.260)
「ひとの善し悪しは関係によります。悪意は悪意を引き出しますし、善良さは善良さで報われます。権力は忖度と阿諛を生むでしょうし、無力は傲慢と横柄を呼び込むかもしれません。」(P.261)
「女性運動も運動(ムーブメント)ですが、そこには「わたしたち女性」という集合的アンデンティティの確立が不可欠です。そしてその女という集合的アイデンティティは、見たことも会ったこともない他人とも想像的に構築することができます。わたしたちはそうやって、外国にいる女たちが悩んだり苦しんだりしたことに共感し、「私も#Me Too」と叫んできたのです。」(P.267)
・・・「、彼(FF)女たち、誇り高いクリエータが、「女たち」とひとくくりにされるのはまっぴらごめん、と思ったことがわかります。ですがその「女たち」とは、男がまなざした「あの劣った(二流の)集団」の代名詞で、そのミソジニーにまみれた男の視線を女性たち自身も内面化していたことになるでしょう。」(P.268-269)
・・・「、「#わきまえる女」は侮蔑に甘んじ、「#わきまえない女」は制裁を受けます。どちらに転んでもミソジニーの効果を受けるのは同じ。」「ですが、救いは「わたしは別」という差別化の代わりに、わきまえようがわきまえまいが、「わたしは女」という集合的な自称詞が登場したことでした。「わたしは傷つかない」と被害者化を拒否する女たちも、その罠から自由だとはとうていわたしには思えません。」(P.269)
「そのように後から来るものは、つねに先を歩いた者の「肩の上に乗る」特権を持っています。」(P.273)__進化論的思考。特権と言えるかどうか。後人はたくさんの記録の積み重ねに押しつぶされます。
11 自由
(上野)「何が変わったのか?世間のタテマエが変わったのです。そしてわたしは社会変革とは、ホンネの変化ではなく、タテマエの変化だと考えています。そして、そこまでが限界だと考えています。」(P.291)__タテマエが変われば、次の世代のホンネが変わります。タテマエとは「社会」あるいは「文化」のことです。ホンネを変えるのは宗教家の仕事です。でも、タテマエが変わるのも辛いです。
12 男
(鈴木)__emotion、thought、behavior
・・・「風前の灯のように消えかかっている男性への信頼をどう取り戻すべきっかけにしたいと思ったからです。」(P.305)__男が相対的に弱くなった。女性は男性に頼ることができなくなったが、安心(心の平安)したい。でも、その原因は〈自我〉にあるので、男たちが数千年間経験してきたことを女性が経験することになるだけだと思う。
(上野)「女性たちはその「共感」をもとに女性運動をやってきました。もし女性運動に匹敵するような男性運動がないとしたら、その理由は男性たちが自分たちの加害性に無自覚か、もしくはそこから利益を得ているから、としか考えられません。」(P.321)__そうですね。でも、別の自覚がある可能性はあります。別の構造と闘っているのです。それは共通の〈自我〉の構造に対する戦いです。上野さんは〈自我〉とその構造に自覚的でありながら、そこを前提として話をしているような気がします。
「もちろん、女も男も、誰だってエゴイストですが、女は自己利益を男を通じてしか追求できない構造のもとに置かれてきたので、女の生存戦略は「男をたらしこむこと」だったり「男につけこむ」ことだったのでしょう。」(P.322)__上野さんも、自分の母の世代は不幸だった、自分の子供の世代はより幸福だ、と思っているのでしょうか。それこそ、母親に対する傲慢・冒涜ではないでしょうか。それは上野さん自身の人生の問題です。上野さんは不幸な人生を送ったのでしょうか(構造のために)。それとも幸福な人生を送ったのでしょうか(構造にかかわらず)。
「その構造のもとに置かれた女性が自分の持てる資源を最大限に活用して有利に生き延びようとするふるまいを、誰も責めることはできません。わたしには「専業主婦になりたい」という娘たちですら、時代錯誤どころか、自己利益を最優先した選択だと思えます。この選択を翻訳すれば、彼女たちは「夫や子供に尽くす人生(FF)を送りたい」とはこれっぽっちも思っておらず、「厳しい競争社会から距離をおいて余裕のある暮らしをしたい」という(男性には許されない)ジェンダーの用語で粉飾しているだけのことだと思えます。」(P.322-323)
・・・「なぜなら男たちは最初から自己利益を最優先して生きてきたのですし、男女を問わず、人間というものはもともと「自分が一番大事」なエゴイストだからです。」(P.323)
「飛躍しますが、ついでに言っておけば、生きるとはこの自分のエゴイズムと孤独に向き合うことにほかなりません。そしてエゴとエゴとが対等に葛藤し合うよな関係をつくることができれば、初めて男女のあいだにまともな恋愛が成立するでしょう。」(同)__エゴ(自我)を前提としていては、決してその関係は成り立ちません。上野さん自身も「恋愛とは相手の自我を奪い、自分の自我を放棄する闘争の場です。」(P.82)「恋愛」は決して自我の境界線を死守するようなゲームではありません」(P.83)と言っているではありませんか。それでも、「恋愛が成り立つ」と思う上野さんの楽観主義は嫌いではありませんが。
「あなたが今、何者であるかのほうが、かつて何者であったかよりも、もっと大事です。」(P.324)__何か「きれいごと」に聞こえます。(『お帰りモネ』)

〈採用を諦めたメモ〉

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