性(セックス)と宗教 島田裕巳著 2022/01/20 講談社現代新書


買っちゃった

最近、本屋に行っていないので、新聞広告が情報の鍵になっています。だから、ついつい宣伝文句で買っちゃうことがあります。帯の『キリスト教・イスラム教・仏教・・・人間の欲望と戒律にまつわる全ての疑問に答える!』って、今考えれば(眉唾ものの)誇大広告ですよね。「これまでになかったアプローチの仕方ではないでしょうか。」って、どのような視点から言っているのでしょうか。週刊誌から学術文献まで、性と宗教を扱ったものは「あふれるほど」にあると思うんだけど。

こんな広告を許す島田氏はどんな人物なんでしょうか。東京生まれで東大出身ですね。生年月日からすると68歳でしょうか。

まあ、東大主神だから、こんなものかなあと思ったりもします(私は東大出身者に対する劣等感と偏見があります)。68歳ですから、人生の先輩です。面白そうなタイトルの本が多いですね。でも、この本を読む限り他の本を読むきにはなりません。

不思議な文章です。宗教学者の本はあまり読んだことがないですが、他の文献を引用するのは全然構わないのですが、島田市自信が確認できるだろうことも他の著書の記載を根拠にしています。その著書の宣伝をしたいのか、と思ってしまいます。原典に当たれる立場にいらっしゃると思うのですが、それをせずに、他の著者の責任にしているように感じてしまうのです。

忖度の書?

著者の他の本は読んだことがありません。他の本もこんな感じなのでしょうか。

新書の特殊性はあります。ページ数が限られていること、対象が一般お人で読者の多くが学者ではないこと。そうすると、限られたページで一般向けに易しく書かなくてはなりません。文体もデスマス調になっています。

そして、読者には無宗教の人も、キリスト教徒も、仏教徒も、イスラム教徒もいるのです。神道の人もいるでしょう。どの立場の人に対しても、否定的なことばにならないように気をつけて書いているような気がします。

古希近くになって、喧嘩することもない、と思っているのかもしれません。

著者の基本的考え方

この本の最後の部分を引用します。

人間の特異な性のあり方が、宗教という、人間だけにみられるものを生みました。だからこそ、宗教は人類の起源とともに生み出されたのです。

そして、人間は、宗教の力を借りることで性をコントロールしてきました。しかし、現代の性のあり方は、すでに宗教がコントロールできるものではなくなっているのかもしれません。

性と切り離された宗教は綺麗事になるかもしれませんが、本質的なものではなくなっていきます。私たちは今、重大な岐路に立たされているのです。(P.252)

最後だけの引用ですが、著者の言いたいことはこれに集約されていると思います。

宗教学者に「宗教とは何か」と問うことは、当然のことであるとともに、残酷なことでしょう。私のような素人が何かを言うこともおかしいかもしれません。でも、宗教は宗教学者のものではないでしょう。経済は経済学者のものでも経営者のものでもないし、政治学は政治学者のものでも政治家のものでもないように。

近代性

宗教が「科学」なるものから分離し、「文化」なるのも、もっと言えば「社会」なるものから分離したのは19世紀、つまり近代です。他の諸科学と同じように宗教は近代に「再発見(再定義)」されたのです。「性」も「子供」も「処女」も同じです。様々な学問が「分離」され「専門化」されました。それ以降、常に学問は細分化され、再定義されています。ですから、「宗教」ということばは3,000年前にも使われていましたが、学問として捉える宗教は近代以降に再定義されたものです。私たちが考える宗教は近代という「フィルター」が掛かっているということです。その自覚を持って過去の宗教を考えなければなりません。私たちが宗教に抱くイメージが300年前と違うように、「処女」というものに対するイメージも今とは異なります。

単純化して言えば、私たちは「近代」という宗教の中に生きているのです。それには「民主主義」や「平等」とかいう「イデオロギー」も含まれます。民主主義や平等思想を否定しているのではありません。それ自体が「近代」が生み出したものであることを認識しなければならないのです。それ自体を「人類不変の原則」などと考えてはならないのです。今の日本で「男は妻子を養うもの、女は男を立てるもの」などというのが当たり前じゃないように、「自由・平等」も当たり前じゃないのです。

客観的であること

著者は、学者として「客観的」に叙述をすることに徹しています。しかし、その「客観性」とは何なのでしょうか。「主観」に対立する「客観」そのものが「西欧的論理」そのものです。近代というフィルターは、その〈主客構造〉そのものです。

ですから、客観的であろうとすることは「近代という西欧的論理」のフィルターの中にとどまろうということと同じなのです。客観的になろうとすればするほど「近代性」に取り込まれるのです。それが著者が「綺麗事」と呼ぶものなのです。

性の「生々しさ」からできるだけ離れること、精神から「肉体」をできるだけ分離させること、「性」を「客観」、あるいは「客体」として「研究対象」として捉えること。「性」あるいは〈生〉を「実験動物」のように扱うこと。それが近代的「学問」=〈知(du savoir)〉=「Wissenschaft」「科学」です。

西欧は、その〈主客構造〉に悩んできました。それは「インド=ヨーロッパ語」の構造そのものです。「主語」があって「述語」があるという構造です。「主」が〈私〉で、「述」が「(研究)対象」です。著者は「性」あるいは「性欲」の話をするときに、自分の「性」や「性欲」を「脇に置いて」叙述をするのですが、自分が「性」あるいは「性欲」もしくは「生」である以上、完全な「客観性」ではありえないのです。「性欲」のない人が「性」について語ることはできないと思うのです。それは「生」のない人が「生」について語るのと同じくらい難しいことだと思います。

「主体を排除すること」は「神を排除すること」です。宗教学は「神」を研究対象とすることで成り立ちます。人間(主体)から独立した「神」は「生々しさ」のない「死んだ〈神〉」です。ギリシャ神話や古事記に描かれている「人間味」のある神は対象化されることで(あるいは「語られる」ことから「記述される」ことで)、その「本質」がなくなってしまいます。それが、著者の危惧なのです。キリスト教がはらむ西欧の主客構造そのものです。

回心

「回心」とは宗教への「目覚め(覚醒)」です。「男子より女子のほうが信仰の目覚めが早い理由」(P.34)という項で「女子では春機発動と同じ年に回心が起こっている事例がもっとも多く」「男子の場合、春機発動後に回心が起こることが多」(P.35)いと述べています。でも、その理由は明確ではありません。

まあ、思春期に微妙な心の揺れがあるのは誰しもが経験しているでしょう。人によっては「反抗期」なるものを経験したこともあると思います。みなさんはそれを乗り越えましたか。私は強い反抗期らしきものはなかった「いい子」だったようです。心の揺れは乗り越えることなく、60歳を過ぎた今でも健在です。乗り越えたのではなく、「慣れ」だったり、「諦め」だったり、はあった気がします。

「思春期」は「仕方のないこと」「人間にはあって当たり前」のことだと思われています。本当にそうでしょうか。

思春期は「第二次性徴期」と結び付けられます。上記の「春機発動期」(エドウィン・スターバック『宗教心理学』)と同じ考えだと思います。

思春期は、体の変化と同時に「心の変化」があります。その2つを切り離して考えるということが上記の「〈私〉による私の身体の客体化・考察」、つまり「精神による肉体の管理」の始まりです。

それが可能なのは〈私(自己・自分)〉があると思うからです。つまり、〈自我(ego)〉の存在が前提となります。「全能感からの離脱」「母との一体感の喪失」等と呼ばれるもの、それが「自我の目覚め」です。それはかなり早い段階に訪れますが、その「自我」が「自分の肉体との一体感」を喪失する時、つまり「心と体」が乖離する(ズレが生じる)時、それが「第二次性徴期」です。「自己の制御」が利かなくなるのです。「制御が利かなくなる」から、「配慮が必要」となります。そしてそれは女子のほうが明確なのではないでしょうか。初潮が来ると「赤飯」が炊かれ、「これからは体を大切にしなさい」と言われるのです。月経はまさしく、自己の制御が及ばないことですし、そのたびに自己への配慮を痛感するのではないでしょうか(私は男なので、このあたりのことはよくわかりません)。

男子は「精通が来た」ことを表立ってお祝いすることはあまりないようだし、射精はある程度制御が可能です。だからこそ、「淫行の戒律」も可能になるのですから。女子が「大人の階段」を登っているときに、男子は「のほほ〜ん」と自分勝手に生きているわけです。男性優位社会がそれを支えているのでしょう。

ピルによる月経の制御は、だいぶん一般的になりました(男性があまり知らないところで)。ピル(経口避妊薬)はどんなときに使用されるのでしょうか。修学旅行や受験、スポーツの大会時に月経を避けるため、とか、生理不順などの婦人科の病気(?)のときなどでしょう(ピルの話は別のところで書きます)。普通、女性は禁欲(禁セックス)はできても、禁月経はできないのです。そのあたりが、「男女の差」と言えるかもしれません。

性欲とセックス

性欲は、生理的なものだという暗黙の前提がなされているようです。そして「それに基づく」セックスも生理的なものということになるのでしょう。「生理的」というのはまさしく上記の「肉体的」なものということです。「戒律」によって、「禁欲する(セックスしない)」というのは「精神による肉体の制御」です。そこで制御するのはセックスであって性欲ではありません。性欲を抑制する食事などの知恵も伝わっていますが、性欲そのものが無くなっては「戒律(あるいは修行)」の意味がないのです。

性欲以外の煩悩も同じです。たとえば、食欲があって初めて「断食」という修行(儀式)が成り立ちます。煩悩があることは辛いことです。煩悩を断ち切るために宗教に帰依する(回心する)というのが普通だと思いますが、煩悩がなくなってしまえば、修行も、宗教の意味すらなくなるのではないでしょうか。煩悩を持ち続けて、それを「精神が制御する」という構造が必要なのです。少なくとも、戒律を定めている宗教では。

宗教と社会

宗教は、その社会と密接に結びついています。その社会の構造の中に入り、その一部となり、社会を「補完」するものです。ですから、宗教はその社会を反映しているとも言えるでしょう。

戒律を持って欲望を統制する宗教は、精神で肉体を統御しようとする社会であり、それは精神と肉体の分離を原因とする「煩悩」が生まれる社会です。

生きていれば、いろいろな苦しみがあります。私が体験したことのない苦しみもたくさんあるでしょう。苦しみに直面した時、「神にも仏にもすがりたい」気持ちになることもあるでしょう。苦しみに優劣をつけることはできません。どんな苦しみも当人にとっては「唯一無二の」「空前絶後の」苦しみです。物語や小説、映画やドラマで必ず描かれると言ってもいい「恋愛の悩み」も、人それぞれで「唯一の答え」「正解」などありません。状況によって千差万別に変化するものだからこそ、常に語られ続けられるのです。

ただ、優劣や序列をつけることはできなくても、種類に分けられないことはありません。「四苦八苦」もその分類の一つです。では「四苦」つまり「生老病死」を考えてみると、それらは戒律を守れば防げるものでもなく、修行をすれば防げるものでもありません。祈りを捧げればなくなるものでもないのです(祈れば病気が治る、なんて言う宗教はとても怪しいです)。「八苦」も同じです。

では、戒律や修行を必要とするのはどういう宗教でしょうか。それは、上述のように「精神による肉体の制御」が必要な宗教であり、その社会が「主客構造」に立脚した社会であるということです。その社会では、精神が肉体より上位と考えられているはずです。「精神が肉体に従う」、言い方を変えれば「本能のままに生きる」ことを許さない社会だからです。多分、その社会では人間が他の動物より優位でしょう。なぜなら、精神(魂)は人間に固有、あるいは人間で頂点に立っているからです。人間の精神が、自分の肉体のみならず、他の動物も、自然もすべてを「統制・制御すべき」ものとしてあるのです。統御できないものは、「特別なもの」として排除されます。排除されたものは「神」とか「悪魔」とか「狂気」とかとされるのですが、最も身近で、精神と不可分な「自分の肉体」「自分の欲望」は排除できません。排除できない自分の肉体や欲望を統御しようとするのが、戒律であり、修行です。つまり「四苦八苦」と「煩悩」とは「質が異なる苦」なのです。

世界宗教と自然宗教(日本における宗教)

この本で取り上げられている宗教は、キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、神道です。前の5つは世界宗教といわれるものです。それらは教義を持ち、戒律を持ちます。聖徳太子が仏教を国を治める「統治」のために導入したというのは象徴的です。また、ローマ帝国がキリスト教を国教にしたのも同じです。しかし、前述のように宗教はその普及する社会を反映したものです。社会の外部にある宗教はそのままでは受け入れられないからです。日本にはアニミズム的な自然宗教がありました。日本の風土に根ざしたその宗教は、自然を「支配下に治める」というような発想のものではなかったと思います。ですから、仏教を日本に普及させるためには、仏教そのものに変容を加える必要があったのです。それは「妻帯が許されるかどうか」などという瑣末なことではないのです。

西欧におけるキリスト教も同じでしょう。日本は、自然が豊かで、自然は共存するものとしてありました。西欧は、日本ほど自然が豊かではありません。人間が手を加えなければならない、手を貸さなくてはならないものでした(フーコーの言う「牧人」)。でも、中東のように過酷であり、戦わなければならない存在ではなかったのではないでしょうか。

砂漠で生まれたユダヤ教は、古代ギリシア(ヘレニズム)で変容を受け、キリスト教となります。キリスト教がオリエントに戻るときには、そのままの形では戻ることすらできないのです。だから、イスラム教に変容することが必要でした。

宗教(英語で"Religion")はラテン語で"religio"、"re"「再び、後ろに、以前に」、"ligio"「結びつける、束ねる」という意味です。それは直接的には「神」と「人間」を「再び結びつける」という意味でしょうが、分離してしまった、「自然・肉体」と「人間・精神」とを結びつける、あるいは「分離以前の状態をめざす」という意味であったのではないか、と私は考えています。

「宗教」という仏教用語について、ひろさちやは「仏教でいう"宗教"は、「レリジョン」ではなしに、「宗ーー言語によって表現できない究極の真理」と「教ーー言語によって表現された教え」といった意味です。」(ひろちさや著『キリスト教とイスラム教』新潮選書 P.22)と言っています。「違い」も大切ですが、「言葉」を精神、「言葉によって表現できないもの」を自然、あるいは肉体と置き換えれば、"religio"とかなり近いのではないでしょうか。

仏教が日本に入ってくるときには、日本の土着の「アニミズム、シャーマニズム」的な宗教と折り合いをつけなければならなかったはずです。土着の宗教では、上記の「分離」そのものがなかったはずです。人間は神とともにあったし、自然の一部としてあったからです。「言葉」と「言葉で表せないもの」との分離がなかったと思うのです。神を人間から分離しなければ、仏教は普及しません。神は「仏」や「菩薩」として、人間から分離されました。そしてそれを印象づけたのが、仏像や曼荼羅です。仏は人間・自分から分離して、自分の外部に「目に見える」形でその姿を現したのです。そして「信仰」が始まったのです。

仏の教えは「経典」という形で「文字」で「伝えられ」「残され」ました。「言葉」が「文字」になるということは、仏が仏像になるのと同じで、言葉が客観的な実在となります。実際に経典を読めるのは一部の知識人、特権階級です。それ以外の人にとっては、それは「仏像」や「曼荼羅」と同じの信仰の「対象」でしかありませんでしたし、その特権階級はその経典を「蔵」の奥に保管していました。

「聖書("Bible")」も長らく特権階級以外には読めないもの(ヘブライ語・ギリシャ語で書かれ、ラテン語で伝えられた)でしたが、それを「一般の人」にも読めるようにしたのが「宗教改革」です。ルターが聖書を旧約聖書をドイツ語に訳したのは1534年です。文字が信仰の対象から、「言葉の客体化(外在化)」になるにつれて、人間は客体(自然)から分離していきます。それまで特権階級の病であった「自己」と「客体」の分離が一般の人にも広がります。それが「近代」という時代を作っていきます。そして、「宗教」は「科学」から分離し、「再発見」されるのです。

性と宗教

たしかに、「宗教は人類の起源とともに」(P.252)あったでしょう。でも、その宗教は、世界宗教、あるいは近代によって「再発見」された宗教、と同じものだと考えてはいけません。性と宗教の関係は、肉体と精神の関係と同じものです。そしてそれは「肉体と精神の分離」に基づく「世界宗教」、あるいは「再発見された宗教」が孕む本質と同じものです。

「人間は、宗教の力を借りることで性をコントロールしてきました。」(P.252)というのは、コントロールの主体としての「精神」の存在を前提としています。そして、コントロールするためには、「性」あるいは「肉体」が「精神」とは別に存在していなければなりません。精神という「主体」があって初めて性という「客体」をコントロールする「可能性」が生じます。これは「超歴史的」なことでも、「人間に固有」のものでもありません。たしかに、人間には「象徴」するという能力があります。言語そのものにその可能性がありますが、そのことが「主体と客体」構造に直接結びつくものではありません。インド=ヨーロッパ語にその可能性があるとしても、「主語=述語」構造が「主=客」構造になるのは、せいぜい3000年程度のことです。それ以前のことについては、史料がないのでわかりません。ですから、残っている史料から「推測」するしかありません。古典ギリシャの文献を少し読んだことがありますが、当時の識字者が「自分(自我)」を「発見」した驚きや戸惑いと、「自然」を「発見」した寂しさが漂っている気がしました。

私は、勉強していないし、古い史料を読む能力もありません。読めたとしても、その史料を「解釈」するしかなく、そのときはすでに確立された「自分」という「主客構造」のフィルターを通して「解釈」するしかないのです。それを自覚せずに人間と宗教、性と宗教を語ろうとする時、「人間一般」「宗教一般」「性一般」として捉えてしまいます。それが「、宗教は人類の起源とともに生み出された」と考えたり、「宗教の力を借りることで性をコントロールして」きた、と思ったりします。そして、「現代の性のあり方は、すでに宗教がコントロールできるものではなくなっているのかもしれません。」とか「性と切り離された宗教は綺麗事になるかもしれませんが、本質的なものではなくなっていきます。私たちは今、重大な岐路に立たされているのです。」という、「解決できない心配」に繋がります。「宗教が性をコントロールする必要性」がなぜあるのか、また、その「できる可能性」があるのか。それは、「主客構造」そのものを考えることなのです。

恋愛と婚姻

本書では、恋愛については触れられていません。恋愛そのものは目に見えないものです。恋愛とセックス、そして性欲は繋がりがありそうです。関係があってほしい、という気持ちが強いです。でも、今どき「セックスは子供を作るためのものだ」と思っている人は少ないだろうし、恋愛はセックスして子供を作るものだと言ったらLGBTの差別だと言われそうです。子供ができない人(男でも、女でも)は恋愛してはいけない、という人も少ないでしょう。

そう考えると、どうやら人間の性欲と恋愛とセックスは単純には結びついていないようです。「人間は大脳でセックスする」と言われることがあります。おちんちんやオマンコをいじると、大抵は気持ちがいいです。でも、それですら気持ちが良くない人がいます。それが物理的(肉体的)な場合もあれば、強姦されたとか、親からオナニーをすごく咎められたとかの精神的な不感症、あるいは嫌悪感から来ている場合もあります。生殖器(外性器)が気持ちがいいということだけなら、「異性を好きになる」などというのは「単なる刷り込み」なのかもしれません。精神的、あるいは社会的なものかもしれないのです。動物園で生まれ育った動物の一部や、「野生児」と言われる人が、性交ができない、仕方がわからないようだという話を聞いたことがあります。そうではなくても、ほとんどの人がAVや雑誌、小説などでセックスの仕方を覚えたり、先輩から教わったり、嫁入り前に親から教えられたりするのではないでしょうか。もっとも、AVなどから得た知識は、一般的じゃなかったり、間違っていることも多いでしょうが。ともかくも、教えられずにセックスをすることは不可能ではないにしろ、かなり稀で難しい事のように思えます。

人間は、恋愛より前に「恋愛の知識」を、セックスより前に「セックスの知識」を与えられるのです。つまり、もし、「性欲」というものがあったとしても、その発現の仕方は「社会的」なのです。

著者は、「セックスは婚姻の中でなされる」と考えているようです。だから、戒律と妻帯を同列に語り得るのです。しかし、妻帯(結婚)は生殖と育児の社会的(文化的)一形態でしかありません。決して「セックスの形態」ではないのです。だから、結婚していなくてもセックスはするし(あり得るし)、婚姻外でのセックスも当然あるわけです。今の日本の婚姻制度や育児制度を「当たり前」と観ていると、僧侶が妻を持つことや妻以外とセックスすること、乱交の宗教が「宗教界最大のスキャンダル」(どれのことだかわからないけど)と、ゴシップ誌のような記載が可能になるわけです。今、子供の数は夫婦二人に一人、あるいは二人が大多数です。「子供を作るためのセックス」は、生涯するセックスのうちの「数回」なのです。








[著者等(プロフィール)]

島田 裕巳

1953年東京生まれ。宗教学者、文筆家。76年東京大学文学部宗教学科卒業。同大学大学院人文科学研究科修士課程修了。84年同博士課程修了(宗教学専攻)。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を経て、東京女子大学非常勤講師。著書に『ほんとうの親鸞』『「日本人の神」入門』(以上、講談社現代新書)、『創価学会』『世界の宗教がざっくりわかる』(以上、新潮新書)、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』 (以上、幻冬舎新書))、『宗教消滅』(SB新書)、『0葬』(集英社)、『戦後日本の宗教史』(筑摩書房)などがある.




■性をめぐる宗教界のスキャンダルとは

■なぜ浄土真宗だけが僧侶の結婚を許されていたのか

■親鸞は本当に「愛欲の海」に沈んだのか

■カトリック教会が頑なに独身制を維持する理由とは

■イエスに邪な気持ちはあったのか

■なぜイスラム教は性を禁忌としないのか

■罪となる性行為の中身とは

■密教にも存在する性の思想とは

キリスト教・仏教・イスラム教……
人間の性の欲望と戒律をめぐる
すべての謎を解き明かし、
宗教の本質に迫る!

・・

性ということと宗教とはどのように関係するのか。

それがこの本のテーマです。この場合の性とは、文化的、社会的に作り上げられた性差としてのジェンダーを意味しません。
行為を伴ったセックスとしての性です。

この本は小著ではあるものの、世界の主要な宗教における性の扱い方を対象とすることによって、「性の宗教史」としての性格を持っていると言えるかもしれません。
それは、これまでになかったアプローチの仕方ではないでしょうか。

篤い信仰を持っている人たちは自らの宗教を神聖視し、欲望とは切り離された清浄なものと見なそうとします。
それは信仰者の願望ということになりますが、そこで性の問題を無視してしまえば、人間の本質にはたどりつけません。

人間は、自らが抱えた性の欲望に立ち向かうことで、宗教という文化を築き上げてきたのではないでしょうか。

性を無視して、宗教を語ることはできないのです。

・・

本書のおもな内容

第1章 なぜ人間は宗教に目覚めるのか
ーーーー信仰の背景にある第2次性徴と回心の関係性
第2章 イエスに邪な気持ちはあったのか
ーーーーキリスト教が「原罪」と「贖罪」を強調した理由
第3章 なぜ聖職者は妻帯できないのか
ーーーー仏教とキリスト教の違い 女犯とニコライズム
第4章 戒律を守るべき根拠は何か
ーーーー邪淫が戒められる理由
第5章 なぜ悟りの境地がエクスタシーなのか
ーーーー房中術と密教に見る性の技法
第6章 なぜイスラム教は性を禁忌としないのか
――――預言者の言葉から読み解くその実態
第7章 親鸞は本当に「愛欲の海」に沈んだのか
ーーーー浄土真宗だけが妻帯を許された理由
第8章 神道に性のタブーはないのか
ーーーー日本独特の道徳観と系譜
第9章 なぜ処女は神聖視されるのか
ーーーーマリアとスンナに見るその意味




〈書抜〉

はじめに

「フリーセックスを実践しているとして糾弾された小規模の宗教集団もありますし、教祖が信者の結婚相手を勝手に決めてしまうことが問題視さられたこともありました。」(P.4)__「フリーセックス」ーー糾弾した人はセックスに否定的だったのでしょうか。羨ましいと思った人も多かったのではないのでしょうか。羨ましいと思ってもそれを表現することは表向きはできません。それに、フリーセックスをするかどうかは、他の人が決めることではありません。セックスしないのも自由、するのも自由なのではないでしょうか。「結婚相手」ーー結婚とセックスは同じじゃない。

「(・・・)婚姻関係の外部で行われる不倫(・・・)」(P.5)__

(P.7)__語らせるキリスト教。体(健康)と性、自己への配慮と統制

目次

「独身の勧めを説いたパウロ 66」__ソクラテスと悪妻。性と家族制度、家族制度と社会(関係)。性欲と他の欲との関係

__男性中心というか、男の視点のみ。日本には巫女という聖職者がいるが、他の国にはいないのか。キリスト教・イスラム教・仏教以外の宗教は。宗教一般は考えられないか。

第1章 なぜ人間は宗教に目覚めるのか

__歴史、伝説、神話。エリアーデ『世界宗教史』

「「利己的な遺伝子(The Selfish Gene)」という概念がありますが、そうした本能は、遺伝子に埋め込まれているのです。」(P.25)__遺伝子という宗教。本能という宗教。

「日本で起こらないことが、なぜアメリカでは起こるのでしょうか。」(P.42)__キリスト教=>原罪=>セックスに対する罪悪感=>思春期の回心・・・という図式を考えているようだが、思春期というのは西欧特有の減少だったと思う。子供の発見+大人の発見=人間の発見と、思春期の発見。という図式だと思う。

第2章 イエスに邪な気持ちはあったのか

__イエスはオナったか

第3章 なぜ聖職者は妻帯できないのか

「実は、ニコライズムとシモニアとは密接に関連しています。というのも、聖職者が結婚していた場合、その子供や親族に相続権が生まれ、公共物であるはずの教会やその他の財産が私的所有物になってしまうからです。」(P.89)__ニコライズム「11世紀以降、妻帯した司教を司教独身制支持者が非難するときに用いた」『キリスト教の歴史』。シモニア「聖職売買」。相続権、公共物、私的所有、等は近代法の概念。乱用してはいけない。

第4章 戒律を守るべき根拠は何か

「生天をめざすにしても、解脱をめざすにしても、それは現世の価値を否定してのことです。したがって、インドの人々は現世での生に価値をおかず、その分、歴史に関心を持ちませんでした。それが、インドで歴史書が生まれなかった原因になるわけです。」(P.110)__一面的な見方だと思う。日本にも輪廻の考え方がある。『古事記』という歴史書があるというかもしれないが、古事記は書かれてすぐ忘れられる。でも、ヨーロッパにも魂の輪回という考え方があった。歴史書は近代が始まるまで、王室内部のものだったと思う。

仏教徒は異なるジャイナ教の五戒(P.110)

第5章 なぜ悟りの境地がエクスタシーなのか

__『性欲の文化史』(講談社選書メチエ)

__『中国五千年 性の文化史』(邱海濤集英社)

「左道タントリズムは、ヒンドゥー教のシヴァ派の一派で、「性力(シャクティ)」を重視しています。」(P.123)__ヒンドゥー教10講 (岩波新書 新赤版 1867)

「要するにここでは、性の快楽、あるいは性に対する欲望が全面的に肯定され、それは完全に清らかなものとされているのです。」(P.131)__密教経典 大日経・理趣経・大日経疏・理趣釈 (講談社学術文庫)

「糞・尿・精液・経血・肉体などは、一般に穢れとして忌み嫌われるわけですが、ここでは、天から降り注ぐ霊薬(甘露)にたとえられています。そして、女性との交わりが、悟りへと導くものと位置づけられているのです。」(P.134)

「これは「歓喜天」という形で日本にも伝えられていますが、歓喜天が一般に、象頭人身の男女が抱き合っている姿をしているのに対して、歓喜仏は男尊が女尊を抱き、交合しています。これは『秘密集合タントラ』に描かれた釈迦の姿であり、後期密教においては、そこにこそ悟りの境地が示されるのです。」(P.134)

第6章 なぜイスラム教は性を禁忌としないのか

ローマ帝国に浸透したとき、すでにローマ法が存在していたということがキリスト教に独自な宗教法の成立を妨げたと考えられます。(LF)ユダヤ教やイスラム教には、第2章で見たようなキリスト教の原罪の教えは存在していません。原罪という教えはキリスト教独自のものなのです。」(P.140)__前半は納得できません。

「イスラム法は「シャリーア」と呼ばれます。シャリーアとは、アラビア語で”水場に至る道”を意味しています。」(P.141)

「これに関連して一つ重要なのな、イスラム教に関連するアラビア語は普通名詞だということです。イスラム教徒が信仰する「アッラー」の場合も、これは神を意味する普通名詞であって、神の名前ではありません。(LF)シャリーアの元になるのは「法源」と言われますが、決定的に重要なのは、神の啓示(FF)を集めた『コーラン』です。それに次ぐのが、預言者ムハマンドの残したことばや行動を伝えた「スンナ」です。このスンナが集められたのものが『ハディース』です。『コーラン』と『ハディース』に記されていることが、イスラム法を形作っています。 」(P.141-142)__普通名詞、という西欧の言語観をアラビア語に適用するのは間違い。

「ムハマンドは、イエス・キリストのように、人であると同時に神であるというわけではありません。ただの人間です。また、釈迦とは異なり世俗の世界を捨てておらず、出家もしていません。」(P.144)__「宗教学者」だから、「間違っていない」と思うけど、西欧の枠組みで捉えていることは否定できません。

__『ハディース イスラーム伝承集成』(中公文庫)

__『ムハンマドのことば: ハディース』(岩波文庫)

「編訳者の小杉は、耕地ということばに注をつけ、「性交の際の体位は自由、の意」と述べています。(LF)また、スンナの中には、陰部の毛を剃ることを習わしとしたものもあります。たとえば、「アブー・フライラによると、預言者は、『イスラームが受け継いだ古来の慣習には五つあり、割礼、陰部を剃ること、腋毛を抜くこと、ひげを刈ること、そして爪を切ることだ』と言った」(前掲Ⅴ)と述べられています。」(P.149)__アラブ人は髭を伸ばしていると思うけど。

「アリーは、その最後に位置する第4代カリフです。このスンナは、カリフという権威者になったアリーが、実は早漏であったことを伝えています。なんともあけすけです。」(P.150)

「イスラム教ではこうした考え方がとらわれず、権威ある人間というものを本来は認めません。現実は必ずしもそのようにはなってはいませんが、理念としては、人間はすべて神の前で平等なのです。」(P.151)

「組織ができればその内部に上下の関係が生まれ、人と人とのあいだに差別が生まれます。おそらくイスラム教が最初に広がった中東では、もともと組織を生む文化的な土壌が存在しなかったのでしょう。アラブの世界で重要なのは、同じ父祖を共通に持つ、いわゆる部族です。部族は自然発生的なもので、人為的に作られる組織とは異なります。」(P.153)__わかんないなあ。組織が人為的だというのなら、社会が人為的だということになります。「人為的な組織は作られなかった」というのなら、学説としてはありえるけど。

「モスクは、キリスト教の教会のようなものに見えますが、そこに所属するイスラム教徒はいないのです。」(P.153)

「スンナにおいて誰が伝承者かが重要であるように、ファトワーも誰が発したものかが重要です。法学者に限らず誰もが出せますが、信頼のあるウラマーが出したファトワーには多くのイスラム教徒が従うことになります。ただし、その権威は絶対ではありません。それに従うかどうかを選ぶのもまた、あくまで個々のイスラム教徒なのです。」(P.154)

「重要なのは、そこには女性を男性の性的な視線から守るという意味合いがあるということです。そして、家庭における女性たちは、そうした視線から解放され、ヒジャブを身につけることなく、むしろ性を謳歌しているのです。(LF)ですが、いくら法を守ることが個人に任されているとはいえ、現実にはイスラム教が広かった、あるいはイスラム教が国境としての扱いを受けている国では「宗教警察」が存在し、シャリーアに反する行為を取り締まっていたりします。サウジアラビアやアフガニスタン、イランなどがそれにあたります。」(P.157)__「性的意図」。トイレの色(赤青)とマーク(スカートとズボン)

「つまり、キリスト教のように自らの罪深さを自覚することは求められませんし、仏教のように自らのうちの煩悩を自覚する必要もないのです。(LF)罪深さも煩悩も、性的な欲望と深くかかわっています。」(P.160)__「性的な欲望と深くかかわっている」といい得るのは、著者自身も問題との関わりだと思う。著者は性欲に悩まされているのだと思う。私もそうだからわかる。性欲の弱い人は、回心しない?

第7章 親鸞は本当に「愛欲の海」に沈んだのか

__性欲が恋愛に結びつくのが文化に規定されているのかどうかはわからない。文化のない世界は考えられないから。むしろ、性欲が恋愛余家族、社会に結びつくと仮定しておいて、そのうえで、それを乗り越える必要があるのかどうかを考えるのがいいかもしれない。

__限られた文献での「歴史の再構成」は、「現代」の「自分」の反映「解釈」であることを免れない。

第8章 神道に性のタブーはないのか

「教義がないということは、救いの手立てがないということでもあり、また、教団も成立しません。」(P.212)

(P.214)__信者や、指導者、司祭等は男と決まっている?男は暇だからね。暇だった。18世紀までは。

第9章 なぜ処女は神聖視されるのか

「そうした事情を背景に、1854年には教皇ピウス9世の回勅によって無原罪の御宿りの教義が正式に認められました。」(P.233)__処女が「聖なるもの」とされるのは、ずっと昔からあったように思います。それは男の子でも良かったのだとも思います。つまり、子供が聖なるものと考えられていました。処女は童貞と違ってはっきりとしています。それが、セックスに対する禁忌と結びつくことは十分に考えられます。でも、それは「子供の神聖さ」とは別のものです。女性に母と妻と処女を求めるというのは、「妻・娼婦・子供」、「生殖と快楽・セックス」「大人と子供」が分離するからですよね。

(P.234)__「ルルドの泉」

「さらにマリアの神格化は、「聖母被昇天」の教義を確立させることになります。マリアは亡くなったとき、肉体と霊魂を伴って天に召されたというのです。これは、1950年、教皇ピオ世のエクス・カテドラ宣言で正式に教義として認められました。」(P.235)

おわりに



性(セックス)と宗教 島田裕巳著 2022/01/20 講談社現代新書性(セックス)と宗教 島田裕巳著 2022/01/20 講談社現代新書

[ ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065268476 ]

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