俺の日本史 小谷野敦著 2015/04/20 新潮新書

「禁煙ファシズム」

私が著者を知ったのは『禁煙ファシズムと戦う』(2005年 ベスト新書)です。斎藤貴男さんたちとの共著ですが、当時は健康ブーム真っ盛りで、喫煙者の私は禁煙に対する反対の根拠を探していました。『健康増進法』が制定されたのが2002年です。その法律の第二条では「国民は・・・健康の増進に努めなければならない」とされています。日本の医師の会が「予防医療」で儲けようと盛んに自由に民主な党に対して献金をしていた頃です。

でも、健康というのを望むのは個人の自由(権利)であって、それを強制される(義務)というのは「違う」と思うのです。「自由であることを強制される」というのは論理矛盾です(「人間は自由という刑に処せられている」(サルトル『存在と無』)とは次元が違います)。

この法律には、個々の国民に対しての罰則規定がありませんが(「国民」なので、外国人には適用されない?)、もしあったとすれが、ダイエットで食事を抜いている人や、うつ状態でご飯を食べられない人は罰則を与えられるわけです。健康でない人は「非国民」だ、と言わんばかりの条文です。これを、束縛としないために、何をやるのも本人の自由、病気になるのも自由、ただし、自己責任で。つまり、個人が病気になっても社会は面倒は見ないよ、とすればいいわけです。新しい自由な主義です。具体的には、タバコを吸っている人ががんになっても健康保険は使えません、とかね。逆もあります。タバコを吸っていない人の健康保険料を安くするとか。

お酒も同じです。レジャーも同じです。趣味でバイクに乗っている人はバイクで怪我をしても健康保険が使えないとか、ね。「セーフティネット」をどんどん小さくすることが出来るので、その分のお金を公共投資(や軍事費)などに回すことができます。ここで大切なことは、その浮いたお金で「物」を作ってはいけないということです。正確には「商品」を作ってはいけないのです。「道路や橋も大砲も物だろう、少なくとも大砲は商品だ」。自分の庭でできた柿が商品でないように、誰かが買わなければ商品ではありません。大砲も、海外に売るなら商品ですが、自ずからを衛もるぐん隊が使う分には商品ではないのです。極端に言えば、弾が出なくてもいいのです(そういう装備がたくさんあるのではないでしょうか。もっと言えば「作る」という約束をするだけで、出来上がらなくても、作らなくてもいいのです。いずれにしても、期限がすぎれば廃棄されるのですから)。これらは、商品の本質、お金の本質に関わることなので、省略します。

東大

Wikipediaによると、著者は一年浪人して東京大学に入ったそうです。東大に入るのだから、頭が良かったんでしょう。「頭がいい」というのは「勉強ができる」という意味です。もう少し広い意味で言えば、「頭の回転が速い」とか「記憶力がいい」とか、そんな意味です。

最近、東大出身者には幻滅させられることが多いのですが、なんか「頭がいい」ことをひけらかしているようで、この本にもいい感じはしませんでした。私の劣等感が刺激されたのです。

歴史

「歴史」というのは、過去の事件、というよりもむしろ、過去のことが書いてある文献・史料の解釈です。だから、その時々によって、その立場によって、いろいろな解釈が可能なのです。

それを知らずに、過去の事件は「ひとつの真実だ」「歴史学がやることはその真実に近づくことだ」と思っているとおかしなことになります。それによって「新しい解釈をした」と、自己満足にひたることはできますが。

私が、「今日の朝飯でお腹を壊した」という日記を残したとします。これはなにかの「真実」を表しているでしょうか。私の日記に興味を示す人などいないでしょうが、何年後化にこの日記を見た人は「ああ、その日はお腹を壊していたんだなあ」と思うでしょうね。でも、それは「真実」でしょうか。考えようによっては、何種類の解釈も可能なことがわかるでしょうか。歴史家や小説家はその道のプロですから、頼めば、(うんちくも含めて)いろいろな面白い話をしてくれると思います。

「〇〇は××の子供」というのは、「実子」か「養子」か「嫡出子」なのかどうかは、あまり関係なかったと思います。大切なのは「正当な後継ぎ」かどうかなのです。半世紀前までは、日本でも「養子」というのは当たり前の制度でした。民法が改正されて、「非嫡出子」と「嫡出子」の差は縮まりましたが、「養子」はずっと「嫡出子」と同じ扱いです。「血」よりも「関係」あるいは「制度」が優先されてきた証拠です。

実際、子供の父親なんかわからないじゃないですか。

わからない、というのは「何もかもがわからない(不可知論)」という意味にとってもらっても構わないのですが、もっと単純に「私は経験していないから」「その場にいなかったから」という意味です。知識(新聞報道など)が経験(恋愛でも、殴られたでもなんでもいいけど)より重視されるというのは、「本末転倒」「主客逆転」だと思います。

文献

著者は、沢山本を読んでいるんでしょうね。そして、「頭がいい」から、そこから「人(他人?)以上の」情報を得ているのだと思います。「一を聞いて十を知る」というのは、「頭がいい」から出来ることです。でも、その内の「九」はその人の「想像」ですよね。つまりその人の「創造」なわけです。それが「いい」とか「悪い」とかいうつもりはありません。著者が好意的に挙げている小説は全てそうだと思うので。

「史実ではない」ということはあります。たとえば、私の妻が日記に「美味しそうに朝食を食べていた」とあれば、どうでしょう。

私が言いたいのは、「歴史は常に再生産される」ということです。「再生産される」というのは、「作る」と「残る」(と「壊れる」)が同時に起こるということです。一つの運動だとうことです。「Aであって同時にAじゃない」ということです。日本ではおなじみのことです。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」(鴨長明『方丈記』)「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」(『平家物語』)「色即是空 空即是色」(『般若心経』)・・・

ところが、西欧では『ゼノンのパラドックス』(「アキレスと亀」など)がいまだに一般的な解答を得られないままです。それは、認識が自己同一性を前提にしている文化では運動は認識できないからです(認識主体である〈自己〉と認識対象である〈客体〉という「主客構造」では「自己言及」は想定外だから。西欧に私小説はあるのでしょうか)。まあ、著者は「頭がいい」ので、ぜひ「自己同一性」を論理的に説明してほしいものだと思います。

文献(史料)は、そのまま残っているわけではないのです。プラトンの著作も、老子や孔子の著作も残っていません。『古事記』も『源氏物語』も原本は残っていません(原本があった、って誰が証明できますか)。それが伝わってきたのは、常に「再生産(写本)」されてきたからです。

もっと単純なことをいうと、私やあなたの記憶も(西欧的な意味で)「存在」しているのではありません。それは「思い出される」のです。常に「再生産」されます。記憶は薄れ、思い出すたびに「強化」されます。この「強化」が「再生産」なのです。そのたびにいわば「ノイズ」が加えられます。ノイズというのは、「記憶と別なもの」ではありません。「思い出す(思い起こす)」ことそのものが「記憶に力を加える」のです。「記憶は薄れていくもの」というのは日本人ならわかりやすいと思います。西欧人でも、着物が色あせたり、錆びたりすることはわかります。だとすれば、記憶を鮮明にする(もとに戻す)ためにはどうしたらいいですか。新しい何か(絵の具・染料とか)を付け加えなければならないじゃないですか。「川のながれ」が続くためには、新しい(別の)水が必要なのです。文献(史料)というのはそういうものなのです。

現代史

この本も、明治維新で終わっています。そういう本が多いのです。この本の中で、どの時代にも著者の立場が表れています。「新説(新しい解釈)」を出すときはもちろんのこと、そうではなくても歴史を「解釈」するということは、そこに自分の立場が表れます。でも、この本で表れている著者の立場(考え)というものがよくわかりません。その場その場で、「たまたま知っていること」のうんちくをたれたいだけ、という感じがするのです。かれは歴史家じゃないし、歴史家だって全ての歴史に詳しいわけではありません。だから誰でもそうなのですが。

「知っていた」という箇所と「調べた」という箇所がはっきりしているのは、著者の素直さの現れでしょう。

現代史を書くというのは、自分の「今の・現実の立場」を明確にすることです。「過去のせい」「過ぎ去ったこと」にできないからです。でも、そのことこそ「歴史とは何なのか」ということのヒントがあります。

本を読む

要するに、本を買って読む人というのは、徳川時代に全人口の〇.一パーセントだったのが、昭和時代には一パーセントになったという、その程度でしかないのである。これは西洋諸国でも同じで、それはもう、テレビの視聴率二〇パーセントといったら二千万人ぐらいが観ているので、全然違うのである。そんな中で、大学進学率が五〇パーセントなのだから、大学が大学でなくなっているのは当然なのである。(P.220)

「勉強をするために大学に行く」ということが「死語」のようになって久しいです。若い頃の大切な二年・四年・あるいはそれ以上を「就職のため」「遊ぶため」に費やすのはもったいないと思います。中学・高校の延長だと思っている人も多いでしょうが、「学校化社会」に義務教育以上に染まるのは残念です。

この本では、大河ドラマに言及している箇所が多いのですが、どうも「本(歴史的文献でも小説でも)で歴史を知ること」と「大河ドラマで歴史を知るということ」が「違うことだ」というように著者は考えているようです。これに「漫画やアニメで歴史を知ること」を加えてもいいのですが、これらは同じことなのです。これらはすべて「文字の文化」なのです。

文字は、個人の意識を形作るだけではなく、社会の意識を形作ります。文字はその始まり(5000年前)から「学校」で教えられてきました。そして同時に、「国家の歴史」になり、「法律」になりました(ヘロドトス『歴史』、司馬遷『史記』、『ハンムラビ法典』などが有名です)。法律というのは、まさしく文字の本質を表しているのです。今日でも、「歴史」と同様に、法律は「解釈」されるものです。「法治国家」という「近代国家」にいる私達は、文字に囚われて生きているのです。本を読んでいるときだけではなく、テレビを見ているとき、切符を買って電車に乗るとき、インターネットでライブのチケットを予約するとき・・・、わたしたちの行為を呼び覚まし、行為を誘導・規制するのはまさしく文字文化なのです。

なぜ、本を読むのか、なぜ、本を書くのか。昔の人はなぜ、本を、歴史を書いたのか。そのことを念頭に置いて、歴史を知る必要があると、私は思います。

 

[著者等(プロフィール)]

小谷野/敦
1962(昭和37)年生まれ。東京大学文学部英文科卒業、同大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了。学術博士



歴史は、偶然と必然のからみ合い。無理やり“法則”を見出すのではなく、とにかく“事実”を追究するべし―。そんな著者の歴史観のもと、古代から幕末までを一気呵成に論じる。「古代のことを“なぜ”と問うな」「聖徳太子のどこが凄い?」「烏帽子はいつから消えたのか」「信長が将軍にならなかった理由」「徳川時代は“大いなる停滞”」「攘夷思想=現代の排外主義」…。何度学んでも楽しい、日本史再入門にはうってつけの一冊!

《書抜》

(P.102)__多分当時は、嫡子であることにこだわらなかった。親子の情も怪しい。「安寿と厨子王」は姉弟。「山椒大夫」

「鎌倉仏教は、平安末期の法然(ほうねん)の浄土宗から始まるが、浄土信仰は平安中期からあった。これは、西域でネストリウス派キリスト教(景教)の影響を受けて生まれたとされるが、仏教にもともと来世という概念はない。地獄・極楽という考え方は、しかし、仏教やキリスト教以前からあったものと考えていいだろう。空也(くうや)が念仏という考え方(FF)を広め、源信は地獄のさまを描いた『往生要集』を書いた。法然はそれを、南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生できると説いたのである。その前提として阿弥陀信仰があるわけだが、仏教は元来無神論である。だがおのずとそこから、阿弥陀や弥勒(みろく)や観音への信仰が出てくるのは、人情の自然であろう。」(P.105-106)

「元寇のあと、幕府は、新たに領土を得たわけではないので、諸国の武士に恩賞として土地を与えることができず、不満が噴出し、幕府が弱体化した。」(P.110)__狂人(キチガイ)が罪を免れるのは近代以降ではないか。「人間」という概念ができてからのことである。だいたい「うつけ」は家長になれない。嫡出子は、「家」と「家制度」を守るためのもので、「うつけ」が家長になることもないし、「うつけ」になれば、家長の地位から引きずり落とされる。「養子」はいつの時代も「嫡出子」と同等である。むしろ、「家制度」の崩壊につながる「非嫡出子」は排除された。そこには女性(母・妻)の力も働いていただろう。

「室町時代に、守護大名というものがだいたい確立する。守護が大名になったものだが、ヨーロッパでもシナでも、貴族というのは大土地所有者であり、農奴に耕作させて、貴族自身はそれを経営するものだが、日本の武士は、徴税、警察、裁判などを行う統治者であっても、大地主ではなかった。戦国時代までは、公家・寺社の荘園制が生きており、そこに地頭などの支配権力が重なって土地所有は複雑になっていたが、応仁の乱で荘園(FF)制が崩壊し、太閤検地で止めをさされ、何のことはない、多くの土地は大農民の所有になったのである。」(P.129-130)__所有概念という近代の思考で過去を見ている。

「しかしこういう伝説も、知っておいたほうがいい。嘘だと分かっても知っているのが文化である。」(P.176)__う〜ん、真意がわからない。

《Memo》

歴史とアイデンティティ

《End》

俺の日本史 小谷野敦著 2015/04/20 新潮新書
俺の日本史 小谷野敦著 2015/04/20 新潮新書

 
[ ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106106156 ]

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