視覚化する味覚: 食を彩る資本主義 久野愛著 2021/11/19 岩波新書 新赤版 1902

色と美味しさ

ドラマ『ネメシス』(2021年、日本テレビ系列、広瀬すず主演)で出前持リンリンが持ってくる「青いラーメン」をどう思いますか。実在のラーメンですが、どうもおいしいとは思えません。青い大きなマカロンも出てきますが、それ以上に違和感があります。ラーメンの麺は黄色(あるいはクリーム色)、うどんは白、そばは茶色(あるいは灰色)というイメージがあるからです。それは、ラーメンやうどんやそばを食べてきた経験に基づく感覚です。それは、美味しい麺を食べるための判断基準とある色、「あるべき」色です。

青いリンゴや、青いみかんを見た時には、「着色してある」とか「色を塗っている」と直感的に思います。

わたしたちは、リンゴは赤いもの(もしくは、黄色や緑)だと思うけど、ほとんどの人は「実際に林檎畑に実っているリンゴ」を見たことがないのではないでしょうか。スーパーマーケットでリンゴを買う時、何を基準に買いますか。

オーガニックオイル

今日、テレビで「オーガニックオイル」の話をしていました。「オーガニック」ということばが日本で一般に使われたのは、そんなに古いことではありません。私が子供の頃にはなかったと思います。

公害問題から、食品添加物に対する世間の反感が出てきて、化学肥料(化学農薬)に対する反発が起きました。それが、有機野菜ブームにもなったのですが、あまり普及しているとは思えません。有機農業には、「人糞」を使った従来の農法というイメージがあったのかもしれません。人糞はぎょう虫などの媒介物として、また臭いのイメージがあります。だれもが毎日のようにタレているんだけどね。

そこで、「有機」を「オーガニック」と言い換えたわけです。オーガニックは楽器の「オルガン」と同じ語源です。これが私にはよくわかりません。科学的には「有機化合物」つまり炭素を含んだ化合物のことです。高校の化学で、有機が出てきた時、それまでのH2Oなどの無機物とちがって、とたんに複雑になって化学が嫌いになりました。その苦い思い出がアレルギーにすらなっています。その複雑さがオルガンの正体だと思います。複雑に、でも一定の規則をもちながら絡み合って何かの目的を成し遂げるものとして全体を構成しているもの、そんな感じでしょうか。だから、臓器とか音楽(楽器)とか生物とか、様々な意味に用いられます(「炭素」という元素が定められたのは18世紀末です)。

日本語にはなりにくいのではないでしょうか。たぶん、日本にはそういう概念がなかったのだと思います。何かが何かのためにある、何かが何かを目的にしている、という発想は「因果律」とは別のものです。例えば、馬は人間を乗せるためにある、リンゴは人間に食べられるためにある、というような発想は人間中心主義であって、きわめて近代的な発想だと思うのです。

有機農法は昔、「自然農法」と言われていました。「自然(な、の)」ということばは、日本では昔から使われていたようですが、それが「人工(的)」の対として用いられたのは明治以降です。「nature」「art」(などの印欧語)の訳です。

食べ物の「自然な」色

食品の着色は、古代エジプトの時代から人類の歴史を通して長く行われてきたものである。(P.ⅶ)

食物を調理(加工)して食べる文化では、昔から食品の着色が行われていたのかもしれません。食物は調理や加工をすると色が変わります。それは、調理や加工(煮る、焼く、発酵させるなど)がちゃんと終わったかどうかの目安として役に立ちますが、特定の場所(例えば王宮)や特定の時期(例えばお祭りや儀式)には、着色が行われたのではないでしょうか。

昨今の健康ブームや自然食ブーム、化学物質汚染、「サステナブルな社会」など、「自然な色」の「自然な食品」志向が何度も波のように訪れています。

ここで「自然な」色という時、それは、人々がイメージする食品の「あるべき」色という意味で、本書では「当たり前の」色とほぼ同義に用いている。よって、自然に(人工的な操作なく)出現した色という意味ではない。ここで注意してほしいのは、この自然な色やあるべき色という概念は、ある時代や場所において、人々が自然・あるべきだと考えるようになった色である。(P.ⅵ)

五感を通して感じる周辺環境ーー例えば音や臭いなどーーは変化しており、その環境をどのように認識・理解するかは、時代とともに変化してきた。(P.ⅸ)

つまり、「自然・あるべき」というのは、時代(歴史)や文化で変わるということです。「美人」の基準が、平安時代と江戸時代とで異なるとはよく言われます。明治と昭和と平成(令和)でも違うはずです。だから「昭和顔」とか言われるのです。日本とイタリアでも美人の基準は違うでしょう。

でも、西欧では「外在的なもの」、美とか、色とか、臭いとかは「客観的」に存在するものだと言われてきました。それに対して「主観」が存在するというのも西欧的思考の前提です。西欧の哲学は、その「主観と客観」の「存在」を巡ってきたと思います。客観的存在を認識するのは主観です。その時、存在するのは「認識する主体だけ」あるいは「認識以外の存在はない」という考え方と、「主体がどう認識するかに関わらず客体は存在する」という考え方に大別することができます。前者を唯心論、後者を唯物論といってもいいでしょう。

近代視覚文化

近代以降は唯物論的な文化です。でも、唯物論というのはそれほど強いものではありません。単純にいえば、周りの客観的実在というのは「目をつぶれば」見えなくなるからです。「見えなくても存在する」というのは、「神様や幽霊も見えないけど存在する」というのとどれほど違うのでしょうか。認識する(感じる)のは、あくまでも主観です。「客観的存在なんで、あなたの思い込みじゃないのか」「あると信じているだけなんじゃないのか」と問われても、「問いかけている人」自体が存在するかどうかがわからないのです。私とあなたが同じものを見て、同じように感じているとどうしていえるのでしょうか。

分光光度計をはじめとする色の新しい測定法や測定機器は、人の身体ではなく、機械のほうがより客観的で信頼性が高いものだとする近代(モダニティ)的考えを具現化した典型ともいえる。(P.21)

「あなたがどう感じる(考える、思う)かじゃないんだよ。機械がこう言ってるんだよ。これが証拠だ。これが正しい。」自分がどう考えるかでも、他人がどう考えるかでもなくて、「人間ではない機械が正しい」のです。

でも、これは矛盾です。機械に正しいとか間違っているとかはありません。「正しい」「間違っている」というのは人間の側の問題です。近いうちにコンピュータが人間の能力を超える、と言われます。「コンピュータは間違わない」という人もいます。プログラムをすることはできます。「10を超えたら正しいと表示をし、10未満なら間違いと表示する」というプログラムをすれば、そういう答えを出します。でも、それはコンピュータが考えているわけではないし、コンピュータが正しい判断をしたわけでもありません。「正しい、間違い」の代わりに「幸せ、不幸」と表示することも「犬、ねこ」と表示することもできます。本来は、この「能力とはなにか」が問われなければならないのですが。

基準

これを受けて着色料改正法でも、添加物の有害・無害の線引は、動物実験で健康被害が見られるかどうかにかよらず、人が通常摂取する量で人体に害があるかどうかによって定められることとなったのである。(P.51)

これは、食品や使用される添加物の安全基準が国によって異なっているためで、食の「安全性」が社会的・政治的に構築されたものであるともいえる。(P.54)

原発の汚染水(「処理水」という)が海洋投棄(「放出」という)されようとしています。「放出前に海水で薄め、トリチウム濃度を国の排出基準の40分の1以下にする」そうです。おかしいと思いませんか。「海の水で薄めて海に流す」というのは薄めたことになりません。それなら、薄めないで流しても同じでしょう。「海」を「お風呂」にすればわかりやすいでしょうか。

それより問題なのはその「基準」です。放射能に関する基準は、どんどん変わっています。特に3.11以降はどんどん変更(緩和)されました。そんなに「安全」なら、原発は皇居に作ればいい。汚染水は、「安全だ」と思う人が飲めばいい。「薄めて」。

視覚優位の文化

特に注目すべきは、人々が食品の匂いや味ではなく、見た目によって選ぶようになったという点である。一九二〇年代末のアメリカでは、セルフサービスのスーパーマーケットが次第に広まりつつあった。食品の小売方法の変化とともに、あらかじめ缶やボトルに入った加工食品を食べることが日常的になったことで、人々が何を食べるかだけではなく、何をどのように選ぶかも大きく変化したのである。(P.133-134)

日本には、「虫の声を聞く」文化や、「香を聞く」文化が残っています。視覚や聴覚は五感の一つですから、聴覚や視覚がない文化はないでしょう。でも、どの感覚に重点を置くのかは文化によって(時代によって)違うように思います。近代文化は視覚が優位です。もっとも、西欧では昔から比較的視覚に重点が置かれているように思います。

「見る」と「聞く」の大きな違いは、主体の置き方です。見るというのは聞くより能動的行為です。見るというのは、自分中心です。目をつぶれば見えませんが、音は「聞こえてくる」ものです。

これは、印欧語の「主語述語構造」に関係があるのではないでしょうか。行為の主体としての「主語」をかならずつける言語だからです。「雨が降る(It's raining)」の主語は「雨」でしょうか。あるいは「It」でしょうか。わたしは、「雨」ではないと思います。日本語には主語がない、とか、主題提示語だ、とかいろいろ言われているようですが、なぜ印欧語の文法に日本語を当てはめる必要があるのでしょうか。言語のもとになる「主客構造的思考」が日本の文化には薄い気がします。「雨が降る」という現象に「行為の主体」はありません。何なら「述語」も必要ありません。「春はあけぼの」「蛙飛び込む水の音」でいいのです。それをどう解釈するのかは「文化」です。それに「いとおかし」を付けなければ理解できないとすれば、今の日本はそういう文化だということです。

西欧での「存在」というのは「主語になるもの」です(アリストテレスの第一実体)。それに対して、性質(形相、第二実体、例えば美しい)は「主語の性質」を表すものですが、主格(名詞化)することによって主語にもなってしまいます(「美」とか「善」とか)。主語になった途端に、それは行為の主体となってしまうのです。これは言語の性質上、当然の流れでしょう。

アリストテレスが第一実体としたのは「ソクラテス」ではなくて「私」であったことに、彼は気が付きませんでした。ハイデガーが「実存(Da Zein)」と名付けたものです。

視覚優位の文化は、声(音)も視覚化(見える化)します。つまり「文字」です。文字にすることによって、様々な事物が「実在」に転化します。「我思う故に我あり」ということは、「言う」ことではなくて、「文字にすること」によって〈我〉が実在化したということに印欧語を話す人は気づきにくいのです。

視覚優位の崩壊?

本書でみてきたように、食べ物の「あるべき」色・「自然な」色は、長い歴史の中で作り出されてきた。そうした色を人々が内面化し、ある程度共通認識をもっているからこそ、ネットスーパーの写真は成り立つのだ。つまり、多くの食品において、その色、また味や形が標準化されてきたこと、そして標準化された色を「自然な」または「普通の」ものだと多くの人が考えるようになったことによって、ネットスーパーが機能しうるのである。(P.186)

感覚や感情という人の根本的な身体体験や認知の多面的な探求のなかに、過去に置き去りにされた五感が何だったのか、それを失った意味とは何なのかを考えるヒントが眠っているように思う。(P.204)

この本を読んだあとに、スーパーの階段からレジや店内を眺めた時、その景色の意味が変わって見えました。著者にはこれからもこの気づきを深めていってほしいと思います。そして、また刺激的な本で私に色々教えて下さい。

考えるうえで、切り分けをはっきりとしていただきたいと思います。インターネットもテレビも視覚文化です。そして、私はそれをウォルター・J.・オングに習って「文字文化」と呼びます。文字として外在化した感覚や経験は蓄積されます。「記憶」されるのではなく「記録」されるのです。「声」はすぐ消えてしまいますが、「文字」は「使っても消費されない」のです。それが「歴史」をつくります。

未来は過去の積み重ねによって生まれるものだから。(P.204)

文字は蓄積されます。でも、それで得た知識は「体験」ではありません。「五感」を伴わないからです。

それは、これまで主観的・身体的で、操作できないものと思われていた五感に対する考えが根本的に変わったことも意味していた。(P.198)

今後、「匂い」や「皮膚感覚」を伴うテレビができるかもしれません。それは物理的な「匂い」「触覚」である必要はありません。ホルモン注射や脳への電気刺激で「体験らしいもの」ができるようになるでしょう。科学は事物(出来事)を要素(部分)に分解します。匂いを感じる脳の部分、痛さを感じる脳の部分等に分解し、そこを刺激すればそれぞれの感覚が得られると想定します。でも、そうでしょうか。私は「全体は部分を集めたもの」だとは思わないのです。そこに「部分の関係性」つまり「構造」(あるいは「ゲシュタルト」)を加えたとしても、全体にはならないと思います。

逆に言うと、「部分に分けることは不可能」だということです。上記の例でいえば、「主体と客体の分離」です。主体のない客体や客体のない主体はありえません。西欧哲学の根本的問題はそこにあると思っています。

自然と人工

最後に、「自然」「人工」について、今考えていることを書きます。

「自然」ということばは、昔からありました。「じねん」というのは仏教用語です。それが「nature」の訳語となったときにいろいろと問題が起きました。「nature」と対になるのが「art、人工」です。「nature」に「人の手」「人の意図」が加わると、「art」になります。これには「人間(自分)」と「対象物(客体)」という「主客関係」が絡んでいます。

日本では、まだ美容整形に対する偏見(?)が多いです。「あの鼻(胸)は作り物だ」と言ったりします。この「作り物」が「人工(art)」です。日本ではそれは「自然」に対立する(相容れない)ものですが、西欧では対立するのではなく、補い合うものです。詩や建築は「art」です。ですから「技術」と訳されることもあります。果実や野菜、肉と同様「住む家」もなくてはならないものです。だから、「nature」と「art」は補い合うものなのです。

それは、西欧に限らず日本でも(世界じゅうどこでも)同じです。ところが、そこに「主体」が入ってくると事態は違ってきます。「リンゴは、わたし(人間)が食べるためにある」と目的論的に考えることが可能になるのです。それは「他人は自分のために存在する」となるし、「自分の体は自分のためにある」とも考えることが可能になります。そうであれば、美容整形も、タトゥーもリンゴや建物同様の「自然(nature)」になります。

自分自身の体を含めてすべてが「Nature」になったとすると、それに対する「art」の存在は「Geist(精神)」となります。

「他人を手段ではなく、目的として扱え」というカントの言葉は、わかるようでよくわかりません。たぶんこれは、西欧の伝統に基づいて、主体と客体、精神と自然を考えたことから出てくる言葉です。〈他者〉もリンゴも自分が生きるために存在していると考えると、「生きる」が目的で「存在」が手段となります。それは〈自己(自我)〉中心主義です(けっして動物や植物が生きることではありません)。カントはそこからの脱却を考えていたのだと思いますが、「手段」「目的」という概念を使う限り、そこから逃れることはできません。

食品添加物や着色料、そして「遺伝子操作」も「科学」「技術」です。「art」です。それは、「反自然」なことでも「超自然」なことでもありません。「自然を補うもの」、もっといえば「自然の一部」なのです。

私は、美容整形は「不自然」だと感じます。「自然な食べ物」を食べたいと思います。青いラーメンや、青いマカロンを「不自然」だと感じます。それは、「日本古来の文化」から来ているのか、戦後の民主教育、反公害運動、反資本主義闘争から来ているのか、「健康至上主義」から来ているのかわかりません。

私が若い頃には、青いラーメンはありませんでした。でも、お赤飯は真っ赤に着色されていました。いまは、そんな赤飯は気持ちが悪いでしょうね。「小豆から出た自然な赤」なんてものがどんな色なのか、私は自分で赤飯を作ったことがないのでわかりません。青いラーメンがどこでも食べられるようになって、「みそ」「しょうゆ」「しお」「あお」とメニューがあるようになれば、青いラーメンは「ラーメンの自然な、おいしそうな色」になるんでしょうね。

そして、それが「新自由主義」や「新しい資本主義」につながっていること、「視覚優位」とか「自分本位」につながっていること、私の「生きづらさ」につながっていること・・・。

そんな事を考えさせられる「いい本」でした。







[著者等]

久野愛

略歴

2016年、米国・デラウエア大学にてPhD(歴史学)取得。ハーバードビジネススクールにてニューコメンポストドクトラルフェロー(2016-17年)、京都大学大学院経済学研究科講師(2017-2021年)を経て、現在東京大学大学院情報学環准教授および東京大学卓越研究員。
主要業績

『Visualizing Taste: How Business Changed the Look of What You Eat』(ハーバード大学出版局、2019)
• ハグリープライズ受賞(Business History Conference, 2020)
• 清水博賞受賞(日本アメリカ学会, 2020)


現代の色彩豊かな視覚環境の下ではほとんど意識されないが、私たちが認識する「自然な(あるべき)」色の多くは、経済・政治・社会の複雑な絡み合いの中で歴史的に構築されたものである。食べ物の色に焦点を当て、資本主義の発展とともに色の持つ意味や価値がどのように変化してきたのかを、感覚史研究の実践によりひもとく。

まえがき

「だからこそ、農業生産者や食品加工業者らは、その食べ物の「自然な」色を再現し、時には「自然よりも自然らしく」見せるための技術やマーケティングに多大な資金と労力をかけてきた。」(P.ⅴ)

「単なる物理的な食べ物の見た目であるだけでなく、自然と技術とが交錯し、味覚と視覚が絡み合い、そして生産者や消費者、さらには政府がせめぎ合う諸相でもあるのだ。」(P.ⅴ)

「一つは着色料や農産物の生産過程の調整など、実際の食べ物の色を作り出す技術や方法といった物理的な側面、もう一つは、人がある食べ物の色をどのようにして「当たり前」だと思うようになったのかという、認識的側面である。」(P.ⅴ)

「ここで「自然な」色という時、それは、人々がイメージする食品の「あるべき」色という意味で、本書では「当たり前の」色とほぼ同義に用いている。よって、自然に(人工的な操作なく)出現した色という意味ではない。ここで注意してほしいのは、この自然な色やあるべき色という概念は、ある時代や場所において、人々が自然・あるべきだと考えるようになった色である。」(P.ⅵ)

「食品の着色は、古代エジプトの時代から人類の歴史を通して長く行われてきたものである。」(P.ⅶ)

「例えば、レモン味のキャンディーやイチゴ味のジュースは、自然に存在する実際のレモンやイチゴの色とは似て非なるものである(味や香りも実際のレモンやイチゴとは異なる)。だが、そうした人工的に作られた色(や味・香り)を日常的に目にし、口にすることで、レモンやイチゴの色や味だと認識するようになる。つまり、果実のレモンは人々が正しいと考える色になるように作られ、キャンディーはその作られた色をさらに模倣しているのだ。これにより、本当のレモンとそれを模したレモンの色や味の境界が曖昧になる。人工的に作り出された世界が自然の一部となり、技術者や科学者、マーケター、農業生産者、政府関係者、消費者ら様々な人々が拮抗し合うなかで、新たな自然観が生み出されてきたのである。」(P.ⅷ)

「しかし、五感を通して感じる周辺環境ーー例えば音や臭いなどーーは変化しており、その環境をどのように認識・理解するかは、時代とともに変化してきた。」(P.ⅸ)

「五感の構築が資本主義システムの一部である以上、労働者の搾取や自然環境への影響など工業化や技術開発が孕むさまざまな問題と切り離すことはできない。」(P.ⅸ)

第一部 近代視覚文化の誕生

第一章 感覚の帝国

「このように、五感を通した身体的体験は、人が周辺環境や他人といかに接し、どのようにそれらを理解するのか、つまり人と社会との関わりと密接に関係している。文化人類学者のデイヴィッド・ハウズは、編著『感覚の帝国』(二〇〇五年)のなかで、文化・社会を理解するためには感覚の歴史性・文化性に着目することが必要だと論じている。感覚は、身体と認識(つまり存在論および認識論)と密接に結びついたものであり、社会、そしてその歴史の中で中心的役割を果たしてきたという。これまでは文化や社会のあり方を反映するものとして主に言語や文字情報が重視されてきたのに対し、ハウズは、言語に代わる分析枠組みとして感覚を提唱したのである。」(P.7)

「標準化することで機械による大量生産が可能になるという点では共通していたが、食品の場合、農業生産物も加工食品も、「標準化」とは、季節や生産地によらず、味や色、形を同じ品質で生産することを意味していた。」(P.9)

「また、技術革新や産業の発展で、企業は色や匂いを数値化するなど、それまで主観的なものと考えられてきた感覚を、客観的かつ科学的に解明し操作できるものとして扱うようになった。」(P.10)

「例えば、印刷広告(またはテレビの宣伝など)で、言葉を使わず匂いや味を伝えることは難しい。一方、色は他の感覚と比べて再現や操作がしやすく、また色を通して人の味覚や臭覚、触覚など他の五感を刺激する(想像させる)ことも可能である。」(P.11)

第二章 色と科学とモダニティ

(いわゆるアニュアル・モデルチェンジ)(P.15)__標準化とモデルチェンジという相反する道

(P.16)__カラー写真やカラーテレビで、白黒写真・モノクロテレビから色を見る能力(想像する能力)が失われた。

「分光光度計をはじめとする色の新しい測定法や測定機器は、人の身体ではなく、機械のほうがより客観的で信頼性が高いものだとする近代(モダニティ)的考えを具現化した典型ともいえる。」(P.21)

(ウーヴェ・シュピーカーマン)「栄養パラダイム」(P.22)

「色も食品を構成する一要素として考えられるようになったことで、色は食品とは不可分な内在的要素というよりも、色素(FF)を抽出したり、また逆に追加することによって、自由自在に操作できるものとして扱われるようになったのである。」(P.22-23)

「だが、食卓風景にせよ、商品の写真にせよ、理想的なイメージを投影することを目的とした広告においては、(FF)「自然に見える」ことが重要なのであり、この作られた自然、そして理想の姿こそが、大量消費社会における視覚性の特徴だといえよう。」(P.35-36)

第三章 産業と政府が作り出す色ーー食品着色ビジネスの誕生

「これは、社会学者ドナ・ウッドが論じた公共政策の戦略的利用の一例ともいえ、アメリカにおける食品着色料産業が、政府と企業との連携の中で拡大していったことを示唆してもいる。」(P.47)

「純正食品薬品法、およびそれに続く連邦食品・医薬品・化粧品法は、有害物質の使用規制という目的と並び、またはそれ以上に、連邦政府が認可着色料の安全性を保証し、人工的な食品の着色が不可欠かつ正当な食品生産過程であることを認めたことを意味するものでもあった。「(P.49)

「これを受けて着色料改正法でも、添加物の有害・無害の線引は、動物実験で健康被害が見られるかどうかにかよらず、人が通常摂取する量で人体に害があるかどうかによって定められることとなったのである。」(P.51)

「これは、食品や使用される添加物の安全基準が国によって異なっているためで、食の「安全性」が社会的・政治的に構築されたものであるともいえる。」(P.54)

「黄色いマーガリンや赤いケチャップ、緑色のグリーンピースの缶詰など、多くの人が「当たり前」だと思うような色を大量かつ安価に再現する手段となったのだ。そしてそれは、わたしたちの視覚環境、そして味覚と結びつけられた視覚(色)が次第に標準化されてきた過程でもあった。」(P.56)

第二部 食品の色が作られる「場」

第四章 農業の工業化

「フロリダでオレンジの着色が広まってからも、着色料使用に関する議論は政府や業界関係者の間で続けられた。これらの論争は、農業の機械化・工業化によって峻別が難しくなってきた「自然」と「人工」の境界を問い直すものであった。」(P.84)

「その一方で、広告や雑誌を彩るカラフルなイラストは、「自然」を理想化した神話的イメージを描き出すとともに、「(作られた)自然」がどのように見えるべきかを写し出していた。」(P.87)

第五章 フェイク・フード

「フランスでは遅くとも一四世紀までにバターの人工的な着色が行われており、その後、アメリカでもバターやチーズの着色は比較的一般的に行われた。」(P.90)

「バターの色の市場価値が広く認められるようになった要因の一つが、各地で行われた品評会における評価基準である。」(P.93)

「そのような色が法規制の対象となりうるのかや、マーガリンの色がいかに規制されるべきなのかを、政府そして裁判所が判断したことは、食べ物(この場合はマーガリン)のあるべき色が生産者や市場によって決められるだけでなく、政治的にも規定されてきたことを示唆している。」(P.103)

「このような家庭でのマーガリンの着色は、課税法が撤廃される第二次世界対戦後まで続き、家事労働の一つとして次第に定着していった。」(P.105)

「マーガリン業者らが真似できない用、バターをより明るい黄色にしようとしたことはその一例である。つまりバターの「自然な」色がそもそも何色なのかということではなく、マーガリンに対抗する形でバターの色が作られるようになり、それを「自然な」色として生産者らが主張するようになっていったのだ。」(P.108)

第六章 近代消費主義が彩る食卓

「小分けのパッケージに入った家庭向け食品着色料が販売されるようになると、それまで自分たちで着色料を作っていた主婦たちは、より簡単に料理の色づけやケーキ・菓子類のデコレーションができるようになったのである。これは、単に家事が簡単・便利になっただけではなく、食べ物の色がジェンダーや階級を象徴する文化的産物として作り出されたことを意味してもいた。」(P.110)

「料理や家事は女性の仕事であるという性別役割分業を示唆するのみならず、視覚性がジェンダー化され、「女らしさ」を測る要素でもあった。」(P.121)__ファッション。食べ物を与えること、強いということ。

「ディヒターの市場調査とそれから導かれた結論には、第二次世界大戦後、様々なインスタント食材や加工食品が発売されるなかで、戸惑いや懸念が入り混じりつつ便利さを享受する、当時の人々の心理が表れているようにも思われる。」(P.125)

(ケーキミックスの登場により)「ケーキ作りにおいて、ケーキ(スポンジ)を焼くことは、スキルや知識を必要としないプロセスとなったのだ。代わって、「焼く」ことよりも、「飾る」ことに重要性が移っていったのである。」(P.125)

「ケーキのデコローションのように、これまでとは異なるスキルや作業が女性らしさの象徴とされ、女性に対する新たな仕事や期待が誕生したのである。」(P.126)

(ベティ・クロッカー)「このような企業を人格化したマーケティングは、一九二〇年代から三〇年代にかけて他の食品会社や電機メーカーなど様々な企業で行われており、」(P.127)

「さらに、ラジオ料理教室や料理本は、女性たちに料理の作り方やレシピのアイデアを提供することで、おいしい料理を家庭のために作る女性が「良き妻・母」であるという「理想」の女性像を提示してもいた。つまり、料理本や料理教室をふくめ、ベティ・クロッカーのアドバイスやその存在は、ただ単に料理の仕方や新しいレシピを伝えるためのものではなく、商業的かつイデオロギー的意味をもつものでもあったのだ。」(P.128)__そういう面もあるかもしれない。わたしは結構料理番組が好きです。料理を作ることはないけど。アメリカと日本では違うのかもしれないけど、核家族化で料理を教えてくれる人がいなくなったということが大きい気がする。

「「理想的な女性・主婦」であるベティ・クロッカー、そして食品企業や女性誌などのメディアは、ミックスのような簡易・即席商品こそが、女性たちの創造性や自分らしさを発揮させてくれるものだと訴えたのだ。」(P.129)

「それは、一九世紀の女性たちが自らの経験と知識に頼って料理やデコレーションをしていたのに対し、そうしたスキルや知識がなくとも、大量生産された商品を通して簡単に実現できる創造性であった。」(P.129)

「この意味で和菓子は、自然のミニチュア化だといえる。」(P.131)

第七章 視覚装置としてのスーパーマーケット

「特に注目すべきは、人々が食品の匂いや味ではなく、見た目によって選ぶようになったという点である。一九二〇年代末のアメリカでは、セルフサービスのスーパーマーケットが次第に広(FF)まりつつあった。食品の小売方法の変化とともに、あらかじめ缶やボトルに入った加工食品を食べることが日常的になったことで、人々が何を食べるかだけではなく、何をどのように選ぶかも大きく変化したのである。」(P.133-134)

「セルフサービスは、顧客と店員とのコミュニケーションを最小限に抑えるシステムであり、客が自分で品定めをする必要がある。」(P.137)

「透明フィルムはパッケージの中身を見ることを可能にしたが、客は商品を直接触ったり匂いを嗅いだりすることができないため、視覚以外の情報を得ることが難しくなったのだ。また、パッケージ越しに見えるようになった商品は、食品のありのままの(あるいは「自然な」)姿のようでありながら、実はそれは念入りに作り出された姿であった。セロファンは、透明なフィルムを通して中身を見せているだけでなく、パッケージ内の湿度や空気をコントロールすることで、野菜や肉など生鮮食品の見た目や新鮮さを長持ちさせるよう開発されたものだからである。よって、見せる包装は、見えないコントロールによって成り立っていたのだ。」(P.150)

「店員は文字どおり隅に追いやられ、店内は、冷蔵ケースのなかで明るいライトを浴びる、透明フィルムに包まれた食品が彩るようになったのだ。」(P.152)

「冷蔵・包装技術の発達で食品の劣化を防いだり遅らせたりすることができるようになったことで、新鮮さは、野菜や果物が収穫されてから、または家畜が屠殺されてからの時間ではなく、色などの見た目によって視覚的に作られたものにもなったといえる。食べ物の色は、味や香りを消費者が想像するためのものだけではなく、新しい食品販売形態の登場とともに、新たな意味・役割を担うようになったのである。」(P.153)

第三部 視覚優位の崩壊?

第八章 大量消費社会と揺らぐ自然観

「多くの食品メーカー、また一部の科学者は、加工食品は便利さと美味しさを兼ね備えた食品で、季節や地域によらずいつでも同じものが食べられるとし、人工的・画一的であることこそ現代生活を豊かにするものだと語った。かつてヘンリー・フォードが画一化と大量生産がアメリカ人の生活に多様性をもたらしたと述べたように、多種多様な加工食品は、日々の食卓をより豊かに彩るものとして広まっていった。」(P.160)

「大量生産システムと大量消費社会を存続させる中で生まれたのが、例えばベータカロテンのような化学合成によって作り出された「天然」着色料であり、人工的操作によって開発された「自然」な食品である。」(P.169)

「「自然」という概念は、「健康」「エシカル(倫理的)」「サステナブル(持続可能)」であるというイメージと結びつくとともに、儲かるビジネスとなったのである。」(P.172)

「色が掠れていたり、形が凹んだり曲がったりした、通常は政府や農協などが定める品質規定から外れるような農産物を主に販売するもので、「自然の恵み」を無駄にしないビジネスモデルを標榜する近年の動きは、同時に、色・見た目以外の価値が生産者および消費者の間で認識されるようになったことを示すものかもしれない。これは、「おいしそうに見える」のではなく、見た目に関係なく「おいしい」食べ物を提供しようとする動きともいえるだろう。」(P.173)

「視覚効果と最大限引き出すように映された食べ物と、それを貪る出演者の身体が、視聴者の欲望(食欲)を作り出すという構図は、ポルノグラフィーにも似ている。実際、広告などで料理を魅力的に写した画像のことを指す「フードポルノ」という言葉があるように、食べ物は見るためのモノとなり、その色や全体の見た目は、味や新鮮さを伝えるだけでなく(むしろそれ以上に)、食欲をかき立て、視聴者を楽しませることを最終目的として作り出されるようになったのである。」(P.179)__Nota bene!!たぶん食欲ではなく、購買欲。ポルノと似ているというのは秀悦。

第九章 ヴァーチャルな視覚

「本書でみてきたように、食べ物の「あるべき」色・「自然な」色は、長い歴史の中で作り出されてきた。そうした色を人々が内面化し、ある程度共通認識をもっているからこそ、ネットスーパーの写真は成り立つのだ。つまり、多くの食品において、その色、また味や形が標準化されてきたこと、そして標準化された色を「自然な」または「普通の」ものだと多くの人が考えるようになったことによって、ネットスーパーが機能しうるのである。」(P.186)

「「プロシューマー」という概念をご存知だろうか。一九八〇年、アルヴィン・トフラーが著書『第三の波』の中で用いた概念である。プロデューサー(生産者)とコンシューマー(消費者)をかけ合わせた造語で、生産活動に関わる消費者を指す。SNSを通した写真の共有は、消費者が、単に商品を消費するだけではなく、ある意味で生産的役割を担うようになったことを意味している。」(P.192)

「佐藤卓己が論じるように、こうした写真は、見栄えを優先させる一方、被写体・素材の真実性は軽視されがちである。つまり、「データ素材としてどうのような加工もできるデジタル写真は、記録のメディアというより表現のメディア」となったのである。」(P.193)__「表現」しているんだろうか。「表現」と「創造」は違うということだろうか。レディーメイドは表現?創造?

「認識させるため」(cognitive)、「情動を引き出すため」(affective)(P.195)

「情動を引き出すことが主目的になったことで、SNSでは写真に写った食べ物の色を「自然な」色に寄せる必要がなくなった。」(P.196)

「トマトは赤い野菜だという認識がなければ、白いトマトを見て「面白い」「映える」写真だと感じることはないだろう。多くの人が、この食べ物の色は幸あるべきだという認識をある程度共有しているからこそ、こうした逸脱が生まれ、見る人の目を引き、食欲を刺激する(または減退させる)のだ。つまり、ネットスーパーもSNSの画像も、本書で読み解いてきた一九世紀末以降の食べ物の色の構築の上に成り立つものであり、色の標準化や人工的に作られた自然な色という概念をある意味でより強固にするものだともいえる。前者は歴史の中で作られてきた自然な色を記号的に利用し、後者はそこからの逸脱を含めた表現という形で。」(P.196)

「それは、これまで主観的・身体的で、操作できないものと思われていた五感に対する考えが根本的に変わったことも意味していた。」(P.198)

「一方で、小川の近くに行かずとも聞こえてくるせせらぎや、季節や場所によって異なるはずの鳥の鳴き方や鳴き声は、スピーカーから流れる「音」となり、一年中どこで聞いても同じである。こうした時間的・空間的コンテクストから切り離された人工的自然は、かつて人々が感じ取っていた感覚ー例えば第一章で触れた谷崎潤一郎が描いたような世界ーとは異なるものである。」(P.199)

アラン・コルバン『匂いの歴史』

「視覚中心主義」(ocularcentrism)(P.202)

「感覚や感情という人の根本的な身体体験や認知の多面的な探求のなかに、過去に置き去りにされた五感が何だったのか、それを失った意味とは何なのかを考えるヒントが眠っているように思う。」(P.204)

「未来は過去の積み重ねによって生まれるものだから。」(P.204)__多分違うと思う。「個体発生は系統発生を繰り返す」的な近代思想だと思う。親よりわたし、わたしより子供のほうが「文化的」なのだろうか。



視覚化する味覚: 食を彩る資本主義 久野愛著 2021/11/19 岩波新書 新赤版 1902


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