ソロモンの指輪 動物行動学入門 コンラート・ローレンツ著 日高敏隆訳 1976/02/15改訂第3刷 早川書房

King Solomon's Ring (1949) (Er redete mit dem Vieh, den Vögeln und den Fischen, 1949)

ドイツ語の原書のタイトルをネットで翻訳すると、「彼は牛、鳥、魚と話しました」となりました。「Vieh」は牛だけじゃなくて「家畜」の意味もあるそうです。訳者は「彼、けものと鳥ども、魚どもと語りき」(P.230)と格調高く訳しています。「彼」が「ソロモン」なんでしょう。神話『ソロモンの聖約』には、ソロモン王は大天使ミカエルから授かった指輪で動物と話が出いるようになった、という話があります。英語版のタイトルのほうがキャッチーですね。

こんな人が近くに住んで(棲んで?)いたら、迷惑だろうなーと思わせる、ローレンツおじさんです。家の中をとりが飛んでいたり、2階のベランダに鳥小屋をつくったり。そして、変な格好(鳥にローレンツだとわからないように)して、庭を歩いていたり、屋根の上で旗を振って、鳥の鳴き真似をしていたり・・・。動物のために、家の中を変えたりしています。

鳥だけではありません。イヌや蝶など、家には沢山の動物がいたようです。

動物を飼育する、というより動物と暮らす、愛情を持って動物を観察する。わたしは、『ファーブル昆虫記』や『シートン動物記』が読みたくなりました。どちらも読んだことがありません。『ドリトル先生』は、何冊か読みましたけど。

昆虫標本

私は小さい頃に、よく昆虫採集をしました。昆虫といっても蝶やトンボなど、普通に見かけるものです。珍しいものではありません。蜘蛛やカエルなんかも標本にしました(汗)。母は私の机を開けたときに、板に何匹も張り付いた乾いたカエルをみつけたことを、いまでもよく話します(笑)。

数年前までは、「標本は実物だ」、と考えていました。ミヤマアカネは、飛んでいても、標本になってもミヤマアカネだと思っていたのです。でも、いまは違うと思っています。飛んでいる(生きている)ミヤマアカネは、「ミヤマアカネ」だけれど、標本のミヤマアカネは「石ころ」と同じ「もの」にすぎないと思います。タンパク質の塊と、ケイ素(?)などの塊です。

西欧科学は「止まっているもの」を観察(研究)の対象にします。人間が対象を認識する間、対象は止まっていなければならないのです。「止まっているもの」「変わらないもの」をさがすのが西欧科学の基本です。

いろいろの現象を分析するばあいの科学の根本的な戦略は、まず不変なるものをさがすことなのである。すべての物理的法則はーーすべての数学的展開も同様であるがーー普遍的な関係を明確に述べたものである。科学のもっとも基本的な命題は、普遍的な保存という公準である。どんな例を選ぼうとも、そこで保存されている何か不変なものによって表されないかぎり、ある現象を分析することは、じっさいには不可能なのである。(『偶然と必然』J.モノー著 渡辺格、村上光彦訳、みすず書房P.116)

このオペレーショナルなイメージによると、実体そのものは、部分的に失われてしまうが、純粋に抽象的な、おそらくは単に《約束事》同一性の原理にもとづく論理を受け入れることができるということではなかろうか。ともかく人間の理性はこのような約束事なしにはやっていけないらしいのである。(同P.117)

「ともあれ、科学のなかにはプラトン哲学的な要素があり、それはのちのちまで残るであろう。これを科学からとりのぞこうとすれば、科学そのものを破滅させることになるであろう。科学は、個々の現象の示す無限の多様性のなかから、不変なるものを探し求めることしかできないのである。」(同P.118)

つまり、「ミヤマアカネの《イデア》」があって、それを見つけるのが西欧科学です。飛んでいるミヤマアカネは、まず捕まえなければなりません。そして標本台に固定して、虫眼鏡で調べます。さらには、羽をもぎ取って分解したり、細胞を採ってDNA配列を調べたりします。

そうやって、「ミヤマアカネの《イデア》」を「確定」しようとするのです。でも、DNA配列、タンパク質の並び方が「ミヤマアカネ」でしょうか。科学者は「そうだ」と言うでしょう。

私は聞いてみたい。「それじゃあ、タンパク質から、DNAを作って、羽や胴体を作って、「ミヤマアカネ」を作ってみてください」と。きっと科学者は言うでしょう「今は技術的にできないけど、いつかできるようになる」と。

フランケンシュタイン

いえ、できなくてもいいのです。西欧論理の基本にあるのは、全体は部分の集合(集めたもの)である、ということだからです。部分がわかれば、それで全体がわかったことにするのです。もちろん、西欧科学では、部分だけじゃなく「部分同士の関係」も、《イデア》の一部として解明しようとします。「構造」とか「ゲシュタルト」とか、いろいろな名前がついています。「部分の集まり+関係」というのは「器官の集合+魂(たましい)」というのと同じではないでしょうか。『フランケンシュタイン』や『メトロポリス』の世界です。

「部分」「個」を大切にするのが西欧文化です。すべて「個」「アトム(τὸ ἄτομον, ἡ ἄτομος、indivisual、分けられないもの)」から始まります。「個、indivisual」はまさしく「個人」です。それは、「主体」であり〈自我〉です。その「主体」が「客体」である「対象」を観察するのです。主語である「私(I、ego)」の「自己同一性(アイデンティティ)」の確立のために、客体の「自己同一性」が必要となるのが、西欧科学です。変化する現実に対して、その変化を越えた存在が《イデア》です。モノーが言うとおり、「これを科学からとりのぞこうとすれば、科学そのものを破滅させることになる」のですが、その破滅するのは「西欧科学」です。そして、それは「西欧的〈自我〉」の破滅なのです。

「昆虫記」か「動物記」を読んでみたい

著者の動物に対する目は、それとはちがいます。舘野鴻の絵本『つちはんみょう』(偕成社、2016/4/13)を読んだとき、『ファーブル昆虫記』を無性に読みたくなりました。ツチハンミョウの奇妙な生態は、いくらツチハンミョウを解剖してもわからないでしょう。それは、「個(体)」としてのツチハンミョウをいくら調べてもわからないのです。他の個体との関係を見ても分かりません(彼の兄弟は彼に食べられてしまいます)。種の存続か。たしかに、種は存続するのですが、その生態は、他の種が密接に関係しています。考えてみれば、人間だって、他の種(牛や魚や様々な植物)がいなければ種の存続はありません。他の個体〈他人〉だって、その存在は不可欠です。でも、私の死体をいくら解剖しても〈他人〉や魚や野菜との関係は分かりません。「生きている(生活している)」私を見なければ、〈私〉はわからないのです。

それでも私は、〈私〉に固執してしまいます。私は、たぶん、小学校に入ったときか、それ以前からか、「自分らしく生きろ」「自分を持て」「自分のやりたいようにやれ」・・・などということを言われてきました。それらのことばにつづくのが、「いまは戦前とちがって、自由なんだから」「民主主義社会になったんだから」・・・という言葉です。私の父母は、戦中、戦後の「もののない社会」「食料のない社会」でとても苦労したようです。でも、当時のことはほとんど話をしませんでした。ですから、その時の状況はむしろドラマや映画や本から得た知識です。

でも、現在でもほとんどの人が「自分がやりたいこと(仕事、遊びなど)」をみつけられないのではないでしょうか。多くの人が「自分にはなにが向いているのか」を考えたり「自分は何なのだろう」と悩んだりします。それらが「内側から湧いてくる」ということはありません。人間は「白紙」で生まれてくるからです。いろいろな職業があるということも、いろいろな遊びがあるということも、「ことば」さえも、外から示されるのです。私には、ことばを話す能力、サラリーマンになる能力等はありました。あるものは先天的に、あるものは後天的にできました。でも、「私は何なのか」ということは、教えてもらった記憶がないし、教えることが可能なものでもありません。

ただ親しい(あるいは意地悪な)友人だけは、教えてくれることがあります。いまはそういう友人が少なくなっているのか、先生などが「決める」ことも多い気がします。その決定には、大きな「責任」が伴います。

多分、それはわからないんだと思います。〈私〉のアイデンティティを固定して列挙すること(男、日本人、年金生活者・・・等)は、昆虫を標本化して分析するのと同じです。そこには《魂》も〈私〉も見つからないのです。

『ファーブル昆虫記』には、ダーウィンの進化論を否定している部分があるそうです。前述のとおり、私は読んでいないのですが、西欧の「分析・総合」「演繹・帰納」「個体と種」というような発想に疑問があったのかもしれません。ダーウィンの進化論は、「個が変われば種が変わる」という発想だからです。

動物を飼う

ノーベル賞受賞者が、ペットの選び方を教えてくれます。とっても贅沢です。

ペットに適した動物はなにか。世話のしがいのある動物はなにか。知っている人はごく少ない。(中略)なにを求めて動物を飼うのかーーこの問にたいしては、なによりもまず自分自身ではっきりしておかねばならない。動物を飼いたいという願望は、人間の心に太古からひそむ気持ちである。(P.145)

ペットショップやブリーダーの規制が、近年世界中で話題になっています。私は知らなかったのですが、今年から日本ではペットのイヌやネコの首に「ID」がわかるものを埋め込むのだそうです(「動物愛護管理法」)。人間の(あるいは国家の》管理下におくためです。

私は、人間にもバーコードやGPSを埋め込む日が近づいてきたような気がして背筋がぞーっとしました。安倍元首相が殺されるよりも重大なニュースだと私は思うのですが、その法案の審議中に取り上げたマスコミがあったでしょうか。今回の安倍元総理の事件で、人間にタグやGPS(ラベル、マイナカードもそうです)をつける動きの加速を私は危惧します。

それは文化をもつようになった人間が、自然という失われた楽園にたいして抱くあこがれなのだ。動物はすべて自然の一部である。だがかならずしもすべての動物が、自然の代表者として家の中に住むのにふさわしいわけではない。きみが買ってはならない動物は、二つの大きなグループにわけられる。一つはきみと一緒ではやってゆけない動物たち、もう一つは、その動物と一緒ではきみがやってゆけない動物たちである。(中略)われわれが愛玩動物店で買える動物の大部分は、この二つのグループのどちらかに属している。それ以外のものは、あまり神経質でもなく飼い主の神経をそれほどいらつかせもしないけれど、大部分あまり面白みもない退屈な動物なので、金を払って買って、苦労して育て上げる値打ちがない。(中略)どんな動物を買うべきかは、いくつかの異なった要素によってきまる。まず第一に、動物になにを望み、なにを期待しているか、それから、育てるのに毎日どれくらいの骨折りをしてよいと思っているか、こちらの神経がどれくらい物音に敏感であるか、毎日いつごろ、何時間ぐらい家を留守にするか、などなどである。(P.145-146)

生き物を飼うのはとても面倒です。金魚を飼うにしても、毎日エヤをやったり、たまに水槽の水を取り替えたり、水槽を洗ったり。それでも、泳いでいる金魚を観るのはとても心が癒やされます。思わず触りたくなりますが、金魚には触ることができません。会話することもできません。一時期、パソコンのディスプレーで熱帯魚を飼うソフトが流行りました。金魚の動きがプログラムされているのですが、ありきたりの動きでは面白くないので、たぶん「乱数」を使って「ランダムな動き」をするようにしています。でも、どんな動きでもするわけではありません。「空を飛ぶ」ことは、想定されていないし、制限されています。でも、私は何回か、朝起きて、「金魚鉢の外にいる金魚」を見たことがあります。

ペットに言えることは、子育てにも言えるのではないでしょうか(子育てを妻に任せていた私が言えることではないかもしれませんが)。ミルクやご飯をあげたり、おむつを取り替えたり、夜寝る時間も制限されるし、夜泣きもします。歩けるようになるのはとても嬉しいですが、今度はどこにでも行きます(ワープしたんじゃないかと思う時もあります)。はじめて「ことば」を喋ったときは、天にも登るような気分になりますが、・・・。

それはちょうどきみが金持ちの紳士かご婦人であったとして、お金を払ってやとった人、たとえば女中、看護婦、女家庭教師、住込家庭教師たちにきみの子供の養育をまかせきりにしておいたら、まずその子はほんとうにきみの子にならないのとおなじである。(P.148)

子供の世話を「苦」だと思う人は、子供を作るべきじゃないし、ペットを飼うべきじゃないと思います。著者は、動物を飼育すること(動物と暮らすこと)の様々なエピソードを並べています。というか、そのエピソードでこの本はできています。そのエピソードを読むと「大変だなあ」と思うことも、「なるほど」と思うことも、思わず笑ってしまうこともあります。でも、著者は、それを「苦」だとは思っていないようです。卵を暖めることも、餌を与えることも、鳥小屋を作り、野生動物に壊され、それの修理をすることも、部屋中が羽やホコリだらけになることも、近所に迷惑をかけたり、変人だと思われることも、きっと著者には「幸せ」なことだったんじゃないかと思います。

それを単純にいえば「生き物に対する愛」ということになるのでしょうが、ことばでは言い表せないもののように思います。

檻(オリ)

私は、高校生の時、授業で行った動物園のクマの檻の前で、泣いた記憶があります。そこには、狭くて汚いオリの中に、「森の王」の風格を失わずに持っている大きなクマが、自分を憐れむような目でこちらを見ていました。わたしたちは、「会話」をしたわけではありません。でも、私はなにかを感じました。

彼らはどんなことがあっても、自分たちがつづけてきた生き方を変えようとはしない。それだから、長い間おりで飼われていた動物を突然放してやったときは、帰り道さえみつかれば必ずもとのおりへ帰ってくる。大部分の小鳥たちはあまりバカなので、その帰り道をみつけられないだけなのだ。(中略)だからマングースやキツネやサルでも、ひとたび放さられたら最後「輝ける自由」に帰ってしまうという通説は、間違った擬人化を意味するものである。動物たちは逃げていってしまおうと思っているのではなくて、ただかごから出してもらいたがっているだけだ。(P.164)

人間(民衆)は国家や社会という「オリ」から逃げようと思っているのでしょうか。「動物はオリから出たら、どこかに逃げてしまう」と思う人は、きっと自分の願望を動物に投影しているのでしょう。

ちょうど私の手もとには、チンパンジーをもっともよく知っている人であるロバート・ヤーキーズの書いた、すばらしいチンパンジーの本がある。この本を読んでみると、全動物の中でもっとも人間に近いこれらの動物の健康維持には、精神衛生が肉体的衛生とすくなくとも同じくらい重要であることがわかる。シェーングルグの動物園でみられるように、類人猿を一匹だけ小さなオリに監禁して飼うことは、法律で禁止すべき残酷な行為だ。

フロリダのオレンジ・パークにある大きなヤーキーズ類人猿研究所では、もう何十年の間チンパンジーの集団が飼育され、どんどん殖えていっている。そこでは猿たちは私のフライング・ケージの中のコノドジロ(小喉白)ムシクイたちと同じくらい幸福に、そして読者や私などよりはずっとずっと幸福に暮らしている。(P.175)

私たちは「幸福」なのでしょうか。

モラルと武器

これまで知られている社会性動物の服従の態度や姿勢は、すべておなじ原理にもとづいている。情けを乞うほうの個体は、攻撃者にむかってつねに彼の体のもっとも弱い部分、より正確にいうならば、敵が殺そうとしておそいかかるときに必ずねらう部分をさしだすのだ。(P.222)

前にもいったように、明らかに彼は咬みたいのだが咬めないのだ。この抑制が盲目的な反射によるものかどうか、それはさしあたりどうでもよい。(P.224)

比較行動学者は動物の行動を評価するとき、きわめて慎重になる。にもかかわらず、私はここで感覚的な価値判断を下したい。オオカミが咬みつけないということを、私は感動的ですばらしいことだと思う。だが相手がそれに信頼しきっているということは、それにもましてすばらしいことではないだろうか。(中略)敵に反対の頬をさしだすのは、もっと打たせるためではない。打たせないためにこそ、そうするのだ!

ある種類の動物がその進化の歩みのうちに、一撃で仲間を殺せるほどの武器を発達させたとする。そうなったときその動物は、武器の進化と平行して、種の存続をおびやかしかねないその武器の使用を防げるような社会的抑制をも発達させねばならなかった。ごくわずかの肉食獣だけは、まったく非社会的な生活をしているので、ほぼそのような抑制なしですませている。(P.226)

動物はめったに殺し合いをしないのです。敗北者を殺すことができない仕組みが備わっているからです。それに比べて人間はどうでしょうか。

自分の体とは無関係に発達した武器をもつ動物が、たった一ついる。したがってこの動物が生まれつきもっている種特有の行動様式はこの武器の使いかたをまるで知らない。武器相応に強力な抑制は用意されていないのだ。この動物は人間である。彼の武器の威力はと止まるところなく増大してゆく。十年とたたぬうちに、その威力は何倍にもなる。だが生まれつきの衝動と抑制が生ずるには、ある器官が発達するのと同じだけの時間が要る。(中略)われわれはこの抑制も自らの手で創りださねばならないのだ。なぜならわれわれの本能にはとうてい信頼しきれないからである。(P.227)

私たちは、核兵器から逃れる手段を持っていませんし、その使用を完全に抑制することもできません(だから「抑止力」ということばが使われます)。元首相のように手製の銃で殺されることもあるのです。

それは、「生物学的本能」では抑制することができないし、その抑制ができるより武器の発達のほうが遥かに速いと著者は言うのです。

人間は、「意志を持って行動する」生き物です。「意志のとおり行動する」ことが「自由」と言われるものです。日本語の「自由」には「すきかってのわがままほうだい」というようなニュアンスがありますが、「freedom」や「liberty」とは違うようです。というか、「行為の主体としての個人(自我)」というものは、明治以降に輸入されたものなので、それまでにも日本にあった「自由」ということばに、「freedom」や「liberty」の意味が加わったのです(『翻訳語成立事情』柳父章著、岩波新書、参照)。それと同時に「理性」や「論理」も輸入されたのですが、その「理性」や「論理」で「抑制」は可能なのでしょうか。著者はそれを問うています。







[著者等]

ローレンツ,コンラート
1903年、ウィーンに生まれる。ケーニヒスベルク大学心理学教授、マックス・プランク行動生理学研究所長などを歴任。1930年代より、魚類、鳥類を主とした動物の行動の研究を行ない、動物行動学(エソロジー)という領域を開拓した。この業績により1973年、ノーベル生理学医学賞を受賞。1989年没

日高/敏隆
1930年生まれ。東京大学理学部動物学科卒。東京農工大学教授、京都大学教授、滋賀県立大学学長を経て、現在総合地球環境学研究所所長。理学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


孵卵器のなかでハイイロガンのヒナが卵から孵った。小さな綿毛のかたまりのような彼女は大きな黒い目で、見守る私を見つめ返した。私がちょっと動いてしゃべったとたん、ガンのヒナは私にあいさつした。こうして彼女の最初のあいさつを「解発」してしまったばかりに、私はこのヒナに母親として認知され、彼女を育てあげるという、途方もない義務を背負わされたのだが、それはなんと素晴らしく、愉しい義務だったことか……「刷り込み」理論を提唱し、動物行動学をうちたてた功績でノーベル賞を受賞したローレンツ博士が、溢れんばかりの歓びと共感をもって、研究・観察の対象にして愛すべき友である動物たちの生態を描く。


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