書物の歴史 エリク・ド・グロリエ Eric de Grolier著、大塚幸男訳 1955/08/05 文庫クセジュ


お風呂本

この本の入手経路がわかりません。図書館リサイクルの印もないし、友人にもらったものでもありません。「売上カード」(書店用)もあるし、「読者はがき」もあります。奥付は「一九八八年五月三〇日 第一〇刷発行」となっています。買ったのでしょうか、書店から盗んできたのでしょうか(汗)。盗むなら、ちがう本を盗むし、買うとも思えません。たしかに、「今の私には」魅力的なタイトルです。

書物を愛す

しかしわたわたくしは書物の養護者ジョルジュ・デュアメルとともに、映画、ラジオ等のいわゆるマス・コミュニケーションは単なるインフォーメーションを与えるものにすぎず、真の学問や知識は《書物》によってでなければ身につくものではないことを、かたく信じるものである。デュアメルのいうように、《精神文化は一つの努力の表現であると同時にその結果である》とすれば、努力を減殺することにのみ汲々たるアメリカ的機械万能主義は、必然的に真の文化を弱め、人間を痴呆化せしめて、やがては人間をーー機械の主人たるべき人間を、機械の奴隷となすものではないか。(P.3、訳者「序にかえて」)

私も本が大好きです。「読むこと」というより、「集めること・所有すること」が大好きです。とはいっても、お金がないので「(価格が)高い」本は買えません。「安い」本をたくさん持っています。結果として、「読んでいない本」がたくさんたまります。

ただ、「電子書籍」は持っていません(一冊だけ、葉月つばさちゃんの写真集をポイント失効間際に買いました)。

いまは、ネットで何でも調べられます。『青空文庫』は今年で25年でしょうか。これからも頑張って欲しいとおもっています(TPPの影響で公開中止になった作家の作品は残念です)。Wikipediaは私もよく利用します。

私の友人は先日、「今は辞典(字典)なんかなくても、何でも調べられるからね。重い辞典を持って歩くことも、調べる手間もいらないね」と言いました。

私は昔から、本を読む時に「(赤)線を引きながら」読みます。学生時代、図書館から借りた本は「書抜」を作りました。本が買えなかったからです(特に専門書は)。当時はコピー機の出始めでしたが、本をコピーするなどありえませんでした(単純に高くついたからです。著作権を気にする以前の問題です。いまは、コピーしたほうが安くつくこともあります)。「書き抜く」より「線を引く」ほうが、圧倒的に「速く」「効率的」です。でも、そのためには本を「所有」しなければなりません。よく知りませんが、電子書籍も「線が引ける」のかもしれません。今の若い人とは「持っている(所有している)」ことの感覚が違うのかもしれません。(写真集を含めた)本も映画のDVDもゲームソフトも「(インター)ネット」の中にあって、「いつでも」見たり遊んだりできるのなら、「かたくて」「重さがあって」「触ることができる」物理的な「物」として所有しなくてもいいという感覚が強いでしょう。たくさん本を持っていると引っ越しが大変です。

ノートパソコンやタブレット、あるいはケータイ(スマートフォン)一つあれば、いいのです。停電が不安ですが。

文字と印刷

この本は、文字の歴史から始まります。「文字」がなければ「本」はありませんから。

私の知る限り、文字の始まりの「言い伝え」は2つあります。一つは、シュメール(メソポタミア)です。王が命令を伝えるために手紙を書いたというものです(「文字は手紙を書く必要から生まれたとシュメル人は考えていたことになる。」『シュメル ー人類最古の文明』小林登志子著、中公新書、P.33)。もう一つは、漢字の始まりです。「中国における文字の発祥は、黄帝の代に倉頡が砂浜を歩いた鳥の足跡を見て、足跡から鳥の種類が分かるように概念も同じようにして表現できることに気づいて作った文字とされる。」(Wikipedia

どちらも伝承ですが、大きな違いがあります。シュメールでは「意志を伝える」ために文字が発明された。ということは、そこに「主観性」あるいは「主体性」が(傾向として)あったということです。それに対して中国では、抽象化された「(意志ではない)意識・認識の表出」として文字が発明されたということです。もちろん、中国でもその後は文字は支配階級が支配を強めたり、継続するために文字を利用・独占していきました。ただ、シュメールにそのような伝承が残っているということは、その後のヘブライズムに影響を与えたとともに、ギリシアやヨーロッパの主観性哲学の萌芽があるようにも思えます。

どちらにしても、「意志」や「意識」の「表出」「外在化」として文字があるということが、文字の本質だと思います。ですから、そこから文字(書物)にどのように対するのか、の違いが出てきます。

単なる「表出」や「外在化」ではなく、それを「伝える」(「表出」することがすでに「伝える」ことをその要因として持っていますが)ことが目的であれば、その伝える相手がいます。それが「一人」ときもあれば、「第三者」あるいは「多数者」のこともあります。「恋文(ラブレター)」や「伝令書」は特定の相手に対する意思表示ですが、第三者が読むことができます。「愛の告白」や「耳打ち」も「盗み聞き」される可能性を秘めていますから、「表出」そのものがその可能性を持っているということです。それに対して、「家紋」「(シュメールの)印鑑」や「公示文」は始めから第三者を想定されたものです。恋文を印刷することは考えにくいですが、多くの人に伝えようとすると「印刷」あるいは「複写(コピー)」ということが必要になります。

木や紙やパピルス、あるいは皮紙に書いた文字は水(湿度)や火に弱く、早く摩耗・消滅してしまいます。粘土板や骨、亀甲に書いたものも、いずれは消失します。恋文やスパイ大作戦の指令は「自動的に消滅」したほうがいいのかもしれませんが(古い!)、それ以外の「伝える」ものは消失しないために、「書き写す」必要があります。いま残っている「古典」と言われるものの殆どは「原本(オリジナル)」がありません。「写本(あるは「写本の写本の写本・・・」)が残っているだけです。

「原本(オリジナル)とは何か」を考えることより、「オリジナル(原型本、P.21)」や「コピー」という「考え方」がなぜ生まれるのかということのほうが重要です。

読むことと書くこと

印刷物はその初期においては、手写本の安価な代用品ーー《エルザッツ》ーーであった。(P.71)

写本(東洋では「写経」か)が仕事になり、印刷とともにそれが産業になっていきます。

「読むこと」と「書くこと」が分離していきます。これは「見ること」「聞くこと」と「話すこと」「触れること」の分離とも対応していますし、主観と客観の分離、精神と肉体の分離にも対応していると私は思います。

客観的な実在となった意識は、印刷物とともにどんどん蓄積されていきます。分離とともにその根拠を失った精神は、満たされることがありません。「これで満足」といったことがないのです。

主観性は己に自足できない原理であります。主観性はそのままで己に自足できるような原理ではないのであって、わたしたちはここに主観性原理の失楽園性格、その祝福のなさを見ると言わねばなりません。(『講演集 ハイデガーと西洋形而上学』日下部吉信著、晃洋書房、P.25)

「失楽園」が伝承ではなく、「現実」となります。

書物はこのようにして永続する忠実なものとされた人類の客観化された記憶の一種であって、個々の人間の主観的・一時的な忠実でない記憶を補うものであるともいえよう。(P.10)

普通、食欲は食べることによって満たされます。でも、肉体から分離した精神は満足することがありません。食べることによって食欲が満たされない人は、肉体が精神に侵されてしまっている、と言えるのかもしれません。逆の拒食症(食欲不振)や不眠症も精神が影響しているのでしょう。

でも、精神と肉体(自己と自然)が別々に存在するなどというのは、精神の「思い上がり」「傲慢」です。楽園に恋憧れる「主観性」は分離された肉体・自然に憧れます。さしあたっては、客観的な実在となった意識、つまり「文字」「書物」、あるいは「知(知識)」に憧れを持ちます。そして、その対象である「知(知識)」はどんどん蓄積されていきます。

対象的追求は個別化、細分化、精密化を結果せずにいないからであります。理念化、先鋭化、個別化、精密化、細分化が対象化的学知(科学)の本性に根ざす傾向性なのであります。(『講演集 ハイデガーと西洋形而上学』同上、P.8)

求めれば求めるほど、距離が生まれます。主観性(自己)は相対的に小さくなっていきます。でも、主観性は思うのです。「知りたい」「知るべきだ」。そして客観的な知識が増えていくことを「進歩(進化)」と呼ぶのです。対象に近づくことが「正しい」「やるべきこと・あるべきこと」ことなのです。その「進歩史観」にとっては、知(知識)が増えていくことが「正しいこと」「やるべきこと・あるべきこと」なのです。だから、昨日より今日のほうが「いい」と思わざるをえません。

進歩史観にとって歴史は克服された「過去」でしかないのであります。(『講演集 ハイデガーと西洋形而上学』同上、P.20)

それが「歴史」であり、まさしく「書物の歴史」です。

著者は、

この集団的記憶とも言うべき書物が、一人の個人ーー著者ーーの精神の中で仕上げられ、他のひとつの精神ーー読者の精神ーーに或る種の力、或る種の影響を及ぼすその過程を、述べかつ理解することができるであろうか?(P.11)

と、この本を書いた意図を説明しています。



印刷の歴史

本書の後半は「印刷の歴史」です。「文字の歴史」「書物の歴史」が印刷の歴史となります。でもそこには「文字の発明」のような断絶はありません。活字、印刷機械の「進歩」が綴られています。「だれがいつどんな活字を作ったか」「だれがいつどんな機械の仕組みを作ったか」・・・。とても覚える気になりません。実際のフォント見本や、機械の仕組みの解説図があったら素晴らしい本になったと思います。でも、それをするなら、本の値段は一桁増えるでしょうね。

木版や金属版が活字となり、それがデジタル化していきます。金属の活字はどんどんなくなっていき、デジタルデータのフォントになっています。「能書家」「書記」は「書写生」「写字生」になり、「文選工」「植字工」になっていきます。今は「文字入力業務」「データ入力業務」「オペレーター」などです。

そしてそれは、産業としての印刷所と印刷会社、出版社を生み出します。産業は労働者を生み出します。会社組織はギルドを生み、労働者は共済会や組合を作ります。法的な権利、著作権や翻訳権も確立されていきます。図書館ができ、労働者にも書物が身近なものになりました。

この本の原書が出版されたのは1954年です。当時はインターネットもパソコンもケータイもありません。でも、それらは「書物」の延長であるにすぎません。

データの喪失性

書物の歴史は無数の書物が失われた歴史でもあるのですが、残されていないものは「歴史」の中には存在しません。書き継がれ、コピーされ続けたものだけが、歴史を作ります。

私の家には大量のフロッピーディスクがあります。フロッピーディスクは磁気ディスクです。再度書き込みをしないと、その磁気は失われていきます。もう読めるディスクは殆どないかもしれません。CDやDVDもありますが、どんどん劣化します。これらは別のディスクにコピーしなければデータが失われます。私が今使っているのはハードディスクです。容量はフロッピーやCDの100万倍以上です。これらも、突然アクセスができなくなります。10億以上の文字があっという間に消えてなくなるのです。ですから、二つ(以上)のディスクに同じデータを書き込んで、片方がアクセス不能になったときは、それを交換することによって、データの保護を図っています。

インターネット上のディスクにもデータを保存しています。サーバはとても安く借りられていますが、いつサービスが中止になっても、会社がなくなってもいいように、別の会社のサーバにバックアップしています。

サービスの停止や終了はよくあります。GoogleやAppleやMicrosoftが倒産することは考えにくいですが(それは資本主義の「倒産」でしょう)、各種サービスの規約変更やサービスの中止は常に(知らないところで)行われています。ネットで購入した電子書籍や映像作品だって、いつサービスが終了されるかわかりません。

停電で見ることができない(使用できない、使用権)だけじゃなく、持っているということ(所有していること、所有)が無くなる可能性があるのです。

写本、書き抜き、検索(調べるということ)

私は、本を読むときに線を引く、と冒頭に書きました。最近、時間的・精神的に余裕ができたので、書き抜きをしています。筆記ではなく、パソコンに入力しています。後で検索するのが楽なので。その時、読んだときには気が付かなかったことをたくさん発見します。著者の意図にちょっと近づけた気がします。本には書き込みもします。それも抜書の時に一緒に入力します。そして感じています。写本を作る(写経をする)というのは、その本を理解する最高の方法なんじゃないかと。コピー機がなかった、とか、修行のため、ということではないのではないかと。

抜き書きを作る手間と時間は、無駄なように思いますが、決してそうではあります。検索も、ググるのではなく、手に辞書を持って調べると、その調べている時間が大切なような気がします。そして、目的の言葉を見つけたとき、その前後の言葉が見えます。それも一つの発見です。言葉の説明の中には、また別の言葉があります。それも発見です。これはネット検索ではないことです。ちょうど、Amazonではなく、実際の本屋さんに行ったときと同じ感覚です。「調べる」のは単に「検索」ではなく「発見」なのではないでしょうか。

抜き書きを詳しく原本と見比べることはないのですが、結構写し間違いがあります。それは、単純なタイプミスのように見えて、自分の考えに引きつけているのではないかと思うことがあります。昔、本を書き写した人も、きっと自分のその時の考えかたに近づけるような「書き間違え」をしたのではないでしょうか。さらに、そこに自分の考えの「書き込み(メモ)」を含めなかったでしょうか。伝わる写本が色々異なっているのは、そういう事があるのかもしれません。

残る書物・歴史

「一度ネットにアップしたものは、消えずに拡散される」ことをテーマに、多くのドラマが作られています。たしかに、ネットのディスクは増量されつづけ、交換され続けています。それは「無限」に増え続けるのでしょうか。いつか「もうアップするものがない」ということになるのでしょうか。

それは、その元になっている「文字」の性格にかかっています。それは意識や意図を外在化(実在化)したものでした。対象化したものです。主観性(主体)が、対象(客体)としての存在(ハイデガーの言葉では「存在者」)をいくら表現しようとしても、存在そのもの(自然、あるいは〈私〉そのもの)には近づけません。そういう意味では、投稿は無限に続きます。

それを止めるには、表現できないことを自覚するか、主観・客観構造を排除すること以外にはありえません。

実際には、本は失われ続けているし、データは消失(破棄)され続けています。どうしてプラトンやアリストテレスの著作は残り、パルメニデスの著作は失われたのでしょうか。別の言い方をすれば、今日のニュース(ワイドショー)に取り上げられた記事は、だれが選択したのでしょうか。今Googleで検察してトップに表示されるのは、私が求めている情報でしょうか、みんなが求めている情報でしょうか、そのアルゴリズムはだれがどのような意図でつくったものでしょうか。

そう。その「意図」が主観性に基づくものである限り、その内容に関係なく、その主観性に沿ったものが大きく取り上げられ、残っていくのではないか。そして、それが「歴史」をつくっているのではないか。そう私は思っています。

私の書いたこの文章は残らないでしょう。残念ながらそう思います。(笑)







活版印刷発明以来、書物は人類の精神文化の象徴の地位を保っている。本書は書物の起源から最新のマイクロフィルムやマイクロカードにいたるまで、古今東西の書物の全歴史をたどり、印刷、装幀、挿絵、出版、販売、普及など、書物に関するあらゆる問題を細大もらさずに解説する。特に中世、近代に詳しい。



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