道樂と職業 他 夏目漱石著 漱石全集 第二十一卷 1957/03/12 岩波書店

『道樂と職業』(1912年、明治四十四年)、『現代日本の開化』(1912年、明治四十四年)、『中味と形式』(1912年、明治四十四年)、『文藝と道徳』(1912年、明治四十四年)、『私の個人主義』(1913年、大正3年)

もらった漱石全集第二十一卷の前半

図書館リサイクルでもらいました。漱石全集は色々出ているし、今調べたら『青空文庫』などでも読めるようです。この岩波書店のものは旧漢字・旧仮名遣いなので、読みやすいとは言えませんが、タダなので仕方ありません。

『私の個人主義』を最初に読んだのは高校生の頃かな。『吾輩は猫である』(1905年、明治38年)『坊っちゃん』(1906年、明治39年)なんかもその頃に読んだ気がします。それから小説を発表順に読んで、どこまでよんだのかな。『明暗』(1916年、大正6年、未完)もなんとなく読んだ気がするから、小説はだいたい読んでいると思います。

明治の末から太正にかけての日本を代表する小説家であることは間違いありません。今でも読まれているのは、彼が明治の世にあって、いわゆる「文明開化」によって西洋の思想が日本に流入する中、それに悩み抜いたその状況が今も続いているからに外なりません。「坊っちゃん」から『明暗』の津田に至る主人公が悩み抜いたこと、社会のことはもとより恋愛などの個人的な悩みはいまの人も同様に悩んでいるのです。

でも、その悩みは「人類共通の・永遠の悩み」ではありません。『ロミオとジュリエット』や『源氏物語』の「色恋沙汰」が今でも取りあげられているし、映画やドラマの主題の多くは(ほとんどと言ってもいい)恋愛、あるいは恋愛と家族や社会の相克です。でも、日本には明治まで「社会」も「個人」も「恋愛」もなかったのです(『翻訳語成立事情』柳父章著、1982,岩波新書)。信じられますか。それは「色恋沙汰」がなかったということではありません。「個人」も「社会」もなかったのですから、西洋的な「恋愛」もあり得なかったのです。

開国とともに外国から流入してきた西洋の思想や文化は日本に衝撃をあたえました。幕府は倒れ、明治政府が目指した「開化」は、日本の社会だけでなく個々人を成立させようという大仕事だったのです。

いくつかの講演は明治44年に大阪朝日新聞社の依頼で行われたもので、『私の個人主義』は大正3年に学習院で生徒向けになされたものです。

開化

「開化」はだれの訳なんでしょうか。それとも仏教用語の転用なのでしょうか。私の持っている『デイリーコンサイス和英辞典』には「文明開化 civilized;enlightened」とあります。それらに対応する言葉であることは間違いないと思います。

漱石は開化について

要するに只今申し上げた二つの入り亂れたる經路、卽ち出來るだけ勞力を節約したいと云ふ願望から出て來る種々の發明とか器械力とか云ふ方面と、出來るだけ氣儘に勢力を費やしたいと云ふ娯樂の方面是れが經となり緯となり千變萬化錯綜して現今の様に混亂した開化と云ふ不可思議な現象が出來るのであります。(P.41)

されば自動車のない昔はいざしらず、苟も發明される以上人力車は自動車に負けなければならない。負ければ追付かなければならない。と云ふ譯で、少しでも勞力を節減し得て優勢なるものが地平線上に現はれて茲に一つの波紋を誘ふと、ちょうど一種の低氣壓と同じ現象が開化の中に起こつて、各部の比例がとれ平均が回復される迄は動揺して已められないのが人間の本來であります。(P.43)

「労力の節約」と「気ままな勢力の消費」が開化だということです。そして、開化は無限な競争を生んだのです。

日本の「開化」は西洋の開化とどう違うのか。

それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化と何處が違ふかと云ふのが問題です。若し一言にして此問題を決しやうとするならば私はかう斷じたい、西洋の開化(即ち一般の開化)は内發的であつて、日本の現代の開化は外發的である。こゝに内發的と云ふのは内から自然に出て發展すると云ふ意味で丁度花が開くようにおのづから蕾が破れて花瓣が外に向ふのを云ひ、又外發的とは外からおつかぶさって他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指した積りなのです。(P.44-45)

西洋(イギリス)に留学していた漱石は、西洋における近代化を肌身で感じていました。そして西洋では数百年をかけてなし遂げられた近代化を日本では短期間に行わなければならなかっただけではなく、それが外国の圧力でなさなければならなくなったということです。内発的ではないというのは、自発的ではないという意味でもあると思います。そしてそれを主導したのは国民ではなく、政府でした。それは「自然(おのづから)」という言葉とは縁遠いものであったでしょう。そこに数々の歪みが生じるのは当然のことです。

開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る餘裕を有たないから、出來る丈大きな針でぼつゞゝ縫って過ぎるのである。(P.46)

しかも自然天然に發展して來た風俗を急に變える譯にいかぬから、たゞ器械的に西洋の禮式抔を覺えるより外に仕方がない。(P.50)

個人主義

私は此自己本位といふ言葉を自分の手に握つてから大變強くなりました。彼等何者ぞやと氣概が出ました。今迄茫然と自失してゐた私に、此所に立つて、この道から斯う行かなければならないと指圖をして呉たものは實に此自我本位の四字なのであります。

自白すれば私は其四字から新たに出立したのであります。さうして今の様にたゞ人の尻馬にばかり乗つて空騒ぎをしてゐるやうでは甚だ心元ない事だから、さう西洋人振らないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼等の前に投げ出してみたら、自分も嘸愉快だらう、人も嘸喜ぶだらうと思つて、著書其他の手段によつて、それを成就するのを私の生涯の事業としやうと考えたのです。」(P.141)

漱石は「個人」という輸入概念の意味を肌で感じていたでしょう。それは、ロンドンで彼の胃と精神を悩ませたものです。

当然「自然(「おのづから」ではなくnatureの訳として)」の意味もわかっていたはずです。前記「こゝに内發的と云ふのは内から自然に出て發展すると云ふ意味で丁度花が開くようにおのづから蕾が破れて花瓣が外に向ふ」というのはまさしく「civilization」「enlightenment」の意味であり、それは「進化(evolation)」が持っている意味です。ですから、「自己本位(たぶんegoism)」というのも「自分勝手」という意味ではありません。「自由」と「わがままし放題」の混同は今でもありますが、その混同の原因は輸入された「個人」と「自然」との関係からきています。西洋における自然は「客体」であり、「主体」と対立するものです。

それに対して、

このことから、また、natureは客体の側に属し、人為のような主体の側と対立するが、伝来の意味の「自然」とは、主体・客体という対立を消し去ったような、言わば主客未分、主客合一の世界である、といえる。(前記『翻訳語成立事情』P.133)

つまり、「主体」や「個人」がなかった日本には西洋的な「自然」や「自由」もなかったのです。

云ひ換えれば研究の對象を何處迄も自分から離して目の前に置かうとする。徹頭徹尾観察者である。観察者である以上は相手と同化する事は殆ど望めない。相手を研究し相手を知るとふうのは離れて知るの意で其物になりすまして之を體得するのとは全く趣が違ふ。幾ら科學者が綿密に自然を研究したつて、必竟ずるに自然は元の自然で自分も元の自分で、決して自分が自然に變化する時期が來ない如く、哲學者の研究も亦永久局外者としての研究で當の相手たる人間の性情に共通の脈を打たしてゐない場合が多い。(P.64)

自然を客体・対象としてみる見方が西洋の科学の本質であり、それに対する「自分」というものが漱石の言う「自己」「個人」なのです。それは決して「自然に變化」ことのない寂しい存在です。その寂しさこそが漱石に小説を書かせたし、それが今の日本人の心をも捉えているのではないでしょうか。

「則天去私」と「個人主義」

「則天去私」というのが漱石本人の言葉かどうかはわかりません。個人主義と全く逆なようにおもえます。でも、晩年の漱石にはそういう気持ちがあったのではないかと思います。

『私の個人主義』は、これから社会に出ていく学生に向けての言葉です。その学生は「政財界の御曹司」です。たまたまそういう内容なので、高校などで扱われて有名になっているのだと思います。漱石は講演の論旨をまとめています。

今迄の論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の發展を仕遂げやうと思ふならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないといふ事。第二に自己の所有してゐる權力使用しやうと思ふならば、それに附随してゐる義務といふものを心得なければならないといふ事。第三に自己の金力を示さうと願ふなら、それに伴ふ責任を重んじなければならないといふ事。つまり此三ヶ條に歸着するのであります。(P.149)

と、すごぶる道徳的なことです。それよりも漱石が言いたかったのは、

私のこゝに他人本位といふのは、自分の酒を人に飲んで貰つて、後から其品評を聽いて、それを理が非でもさうだとして仕舞ふ所謂人眞似を指すのです。(P.139)

つまり鵜呑みと云つてもよし、又機械的の知識と云つてもよし、到底わが所有とも血とも肉とも云はれない、餘所々々しいものを我物顔に喋舌つて歩くのです。然るに時代が時代だから、又みんながそれを賞めるのです。けれどもいくら人に賞められたつて、元々人の借着をして威張つているのだから、内心は不安です。(P.139-140)

こちらの方ではないでしょうか。これはまさに漱石がイギリスに行って痛感したことだったような気がします。

そしてこれは、『現代日本の開化』の、

夫れを恰も此開化が内發的でゞもあるかの如き顔をして得意でゐる人のあるのは宜しくない。それは餘程ハイカラです、宜しくない。虚僞でもある。輕薄でもある。(P.50)

の言い換えだと思うのです。学生は、これから開化後の社会に出てそれを導いていかなくてはなりません。漱石には言っておきたいことがあった。それは、彼自身が悩んだ「個人」と「旧来の日本」との対立です。その「個人」や「社会」あるいは「自然」が翻訳語を離れてしまって、自然な文化となり、自分の「悩みの正体」が見えなくなることに対する警告だったのではないでしょうか。

先日渋谷で15歳の少女が見知らぬ(?)母娘を刺殺しようとした事件がありました。刺された母娘、とくに娘さんが精神的な傷害を負わないことを祈ります。今の社会は、被害者が受けた被害をも「個人的なもの」として、同情するだけですから。そして、それよりも加害者の少女が事件にいたった原因です。きっと週刊誌は色々書くでしょう。日本人にとっては被害者も加害者も「客体」「対象」「他人」なのです。「自分や自分の子どもじゃなくてよかった」というのが第一の感想なのではないでしょうか。「自分や自分の子どもが被害を受けないために気をつけよう」。さらには「そのためには、監視の強化と、刃物の法的規制の強化、学校における規律の強化、家庭教育への介入・・・」等々の対応が、あるものは永続的に、あるものは世間が忘れるまで、とられるでしょう。

でも、それらの対策で犯罪はなくなる、あるいは減るのでしょうか。

私は、夏目漱石の胃潰瘍(と芥川龍之介の自殺)、そして渋谷の事件をを引き起こしたものこそが、開化によって日本に流れ込んだ「個人」にほかならないという気がしてならないのです。







[著者等]

夏目 漱石

(1867-1916)1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。

帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表し大評判となる。

翌年には『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。


[]

シェアする

フォローする