ハイデガーへの対応 原佑著 『世界の名著 62』所収、1971/10/15 中央公論社

ハイデガーへの対応 原佑著 『世界の名著 62』所収、1971/10/15 中央公論社

『存在と時間』『有と時』

何度かトライしたけど、目次以降に進めない本です。多分一生かかっても読めない気がする。

はじめ、辻村公一訳『河出書房新社 世界の大思想 24 ハイデッガー』を読もうとしました(何故か2冊あります。どちらも古本屋で買ったものです)。挫折。その後、「NHK 100分で名著」が放送されて、あらためて読もうとしましたが、そのときも挫折。

辻村さんの訳は『有と時』。昔、これを買ったときにはこれが『存在と時間』だとは思っていなかったのです。『存在と時間』を探していたのですが、『中央公論社 世界の名著 62 ハイデガー』にあることを発見(汗)。何年も前からもっていたのです。ところが、字が小さい。2段組。700ページ近くの大書です。

きっと読めないと思ったので、訳者の原佑さんが書いた、まえがき(?)だけ読みました。50ページですが、『存在と時間』だけではなく、ハイデガーの思想全体の要約です。ただ、この訳書が出たのが1971年。まだ、ハイデガーが存命中です。ハイデガーは現在形でした。

『有と時』

辻村さんの訳書は1967年。その解題で

然るに「真で有る」という意味での「有る」は、例えば「空は青く有る」とか「私は喜ばしく有る」(本訳書一九頁)というように、判断の所謂「繋辞」すなわち「で有る」に言い現せられる。そのような「真で有る」は如何にしても「存在」ではない。かかる「真で有る」を拠点にして「有の意味一般」ーー少し後には「有の真性」と言い更められるーーを明らかにすることがハイデッガーの根本の問である。それ故、問の出発点から言っても目標から見ても、彼の謂う Sein は如何にしても「存在」とは訳されえない。(P.502)

第二の理由は、彼の謂う Sein は、本書を少し注意して読まれた方にはすぐ解るように、随所に動詞の形を取って言い現されて来る。(同)

Zeit を「時間」とせずして「時」と訳さざるを得ない理由も、上記から既に明らかであると思われるが、本書の最終節を読めば一層明らかになるであろう。根源的な Zeit すなわち「時性」(Zeitlichkeit)とその地平たる「とき性」(Temporalität)とは「時間」などという間延びのしたことではない。」(同)

と書いています。それまでは、戦前(昭和一四年)からずっと『存在と時間』と訳されていたようです。それを『時と時』と訳した理由がこれです。

"Sein und Zeit","Being and Time"

原書はドイツ語で "Sein und Zeit" です。"Sein" は英語の 「be動詞」にあたります。本書の英語版は "Being and Time" です。「be動詞」に該当する日本語の単語はないと思いますが、強いていてば「ある」です。これは大きく「〜である」と「〜がある」に分けられます。「真実である」と「真実がある」とでは全然意味が違います。

荒井注で有名な、"This is a pen."は、英語で最初に習う文章です。ふつう「これはペンです」と訳されます。「ここにある物体は、〈ペン〉と呼ばれているものです」という前者の意味です。"He is a student." は「彼」という人間の存在を「学生」という属性で示していることになります。それに対して"Here is a pen." といえば、「ここにペンという物体が存在するよ」という後者の意味になります。

「存在論 ontology」は古典ギリシア語の "τὸ ὄν" から来ていますが("ὄν" は "εἰμί(be, exist)" という動詞の現在分詞)、日下部吉信さんは

生成・消滅し、運動するものを非存在(τὸ μὴ ὄν)とし、存在と言われる限り、それは永遠に不変でなければならないと考えるギリシア人の考え方はわたしたちに多少奇異の念を抱かせますが、彼らが存在(τὸ ὄν)というとき、大抵は本質的存在(esse essentiae)の意味で語っており、現実的存在(esse existentiae)の意味で語られているのはむしろ稀であるということに留意するとき、この奇異の念は解消します。ギリシア語の存在(ある)を表現するεἰπίはラテン語のsumや近代語のbe、sein、êtreと同様、本質的存在(esse essentiae)(・・・である)の意味でも現実的存在(esse existentiae)(・・・がある)の意味でも語られます。εἰπίはただ「ある」と言うだけで、その「ある」が「・・・である」という意味の「ある」なのか、「・・・がある」という意味の「ある」なのかは、それ自身によっては明瞭に区別されません。したがってその分詞の中性形であるὄνも同様に本質的存在を意味する存在(「・・・である」という意味での存在)としても、現実的存在を意味する存在(「・・・がある」という意味での存在)としても語られるのであります。ところで、わたしたちが邦語で存在というとき、わたしたちはそれを現実的存在の意味における存在として語っているのが普通です。机の存在というとき、わたしたちは通常「机がある」という意味における存在として語っています。ところが、これに反して、ギリシア人が存在(ὄν)というときは、むしろ大抵は本質的存在の意味において語られているのであります。「机の存在」と彼らが言うとき、「机がある」という意味において語られているのはむしろ稀で、たいていは「机である」という意味での机の存在が語られているのであります。」(『プラトニズム講義・4講』2012/06/10 晃洋書房、P.63-64)

つまり、「これ」や「彼」は、「ペン」「学生」というイデアの具現化したものだということです。ギリシア由来の「ontology」は多分、辻村さんのいう通り「がある」ではなくて「である、本質的存在(esse essentiae)」の意味合いが強いのでしょう。

これ以上は、本文を読んで言えない私にはなんとも言えません。ただ、いかなる属性も備えていないものは存在するとしても感知できないので、その属性(イデア)と、その現象形態である現実に感知できるもののどちらを「有る」といったとしても、その事自体が問題の核心ではない気がします。

存在(有)

存在について考えようとするとき(「存在」を対象として思考するとき)、その存在に対になることばとして「非存在」と「(考える)主体」が現れます。

まず、「非存在」つまり「無」は「有る」のでしょうか。

「なにも存在しない」と言ったとき(考えたとき)、「存在しない」という日本語は存在しています。日本語をつくっている日本文化が存在します。

特定の性質を持ったものの非存在(不在)はどうでしょうか。「太郎くんがいない」と言ったときには、太郎くんの存在という前提があります。その「太郎くん」はイデアであっても、実在(現実的存在)であっても構いません。そしてそこには「次郎くん」の存在も前提されています。とにかく、不在は単独では存在しないとおもいます。

それに対して、存在は存在として存在します(笑)。「太郎くんがいる」と言ったときには、「次郎くん」がいるかいないかは関係ありません(「太郎くんは次郎くんではない」という意味では関係します)。そのときに、「次郎くん」の存在は忘れられています。多くの存在、つまり全体としての存在から、切り分けられ(引き離され)ることによって、存在は仮想されるのです。その仮想性を支えるのが「自己同一性」という仮想です。「太郎くんなるもの」が(次郎くんなしに)実在するという仮想は説明できませんから。

無とにているものに「0(ゼロ)」があります。「猫が0匹いる」というのは、「猫がいない」というのと同じではないでしょうか。「いない猫(猫の不在・非存在)がいる(存在する)」というのを説明するのはむずかしいのです。

現存在=人間=自我

何度も書きますが、『存在と時間』本文は読んでいないので、私の頭の中にあるのは日下部吉信さんのハイデガー解釈です。

「なにも存在しない」と言ったときに忘れられがちなのは、その発話には発話する主体が存在するということです。ハイデガーは、私たちがふつう「存在する(有る)」と思っているものは「存在そのもの(das Sein)」ではないとしました。そして、それ(ら)を「存在者(das Seiende)」と呼びました。その存在者のなかで、存在者を存在者と(あるいは存在と誤認して)考察できるもの、つまり人間を「現存在(Da-sein)」と呼びました。人間の体も、それを対象として考察するときには「存在者」となります。「現存在」と「存在者」の関係は、「人間と自然(ピュシス)」「心と体」「精神と肉体」「我と汝」などとして現れます。

そうだとすれば、現存在が存在してこそ、道具の手段性、用途性、および適所性と適具性もはじめて意義あるものとなると、言うべきである。(P.35)

いずれにしても現存在は、世界内存在なのである。(同)

気分づけられた現存在の被投性は、現存在が世界の内で存在している世界内存在であることを、示している。(P.36)

現存在の存在は、「〔世界内部的に出会われる存在者〕のもとでの存在として、おのれに先んじて〔世界〕の内ですでに存在している」と、存在論的に構造づけられた。(P.40)

ハイデガーが「現存在」と規定したのは、じつは「人間一般」ではありません。それは「存在者」が「存在一般」ではないのと同じです。訳者は誤解しているように思います。

現行の『存在と時間』は時間性にまでゆきついたが、この時間性は、それ自身としては現存在の存在の意味であって、必ずしもただちに、すべての存在者の存在一般の意味ではありえない。(P.47)

現存在としての人間は、「精神」「意識」あるいは「主体」「自我(自己)」「個人としての人間」そのものです。存在者は、その意識の中での「自然」であり、「世界」とは「自我の世界」です。その世界においては、自己は必ずそのなかに居ます。物心がついたとき、私はその世界の中にいることに気がつくのです。ですから、世界は「(つねに/)すでに存在している」のです。

そして、世界を意識したとき、つまり、世界は「自己とは別なもの」だと気づいたとき、自我は世界から切り離されます。「自我の自覚」、つまり「自己の誕生」です。他人(他者)も、自然も「客観的存在」「考える対象」つまり「存在者」になります。子ども(物心がつく前)は、「全能感の中にいる」と表現することがあります。私もそういう表現をしたことがありますが、それはまちがいです。「まちがい」というのは、物心がついた後(自己を持った後)の自分から見た表現にすぎないということです。

むしろ不安の対象は、現存在が世界の内で存在しているということそのことであり、さらにまた不安の理由も、同じく世界内存在という現存在の在り方そのものである。(P.38)

母親(「母胎」でもいいけど)から切り離され、自然も社会も、自分の肉体ですら「思うままにならない」ことに気づいた後は、自我はとても不安です。他者は自我に対する脅威として、「制御するもの」「支配するもの」「所有するもの」となります。自我はとても寂しいのです。だから、その寂しさや不安をなんとか収めるために、「一つでも多く」あるいは「他人よりも多く」支配・制御しようとし続けます。

現存在の存在は、「〔世界内部的に出会われる存在者〕のもとでの存在として、おのれに先んじて〔世界〕の内ですでに存在している」と、存在論的に構造づけられた。(P.40)

私は私でしか考えることができないから、私は「自己」という世界内に存在(定在)するのはあたりまえです。

その自我が支配・制御できないもの、しえないもの、それは「死」です。

しかし、生誕から始まる生は、終わりとしての死によってはじめて全体的となる。(P.40)

しかし、現存在が生きつつ現存在として存在しているかぎり、現存在はまだ終わりとしての死に達してはいないし、死はまだ済まされていない。そのかぎり死は、現存在にとって未了であり未済である。(P.40-41)

このように現存在はそれへとかかわるべき終りとしての死をもっているということ、現存在が有限的だと言われるゆえんも、ここにあったのである。

さきにも指摘したとおり、死は、来ることは確実ではあるが、いつ来るかは無規定的な、追い越しえない現存在の可能性であった。それのみか死は、他者に代わって死んでもらうことはできず、したがって死においては他者との交渉が断たれる。おのれにもっとも固有な、無交渉的な可能性でもある。(P.41)

全体から切り離されて「個(部分)」となった自我(つまり個人)が抱える不安や寂しさ、支配欲や所有欲は全体性を取り戻そうとする心の動きです。でも、それが可能になるのは「死」のみです。その死は「自我の死」ですから、肉体的、生物的な死だけではありません。痴呆や人格崩壊なども「死」です(「脳死」という概念はここから発生します)。

「存在そのもの」というのは「全体性」です。自我はそれを分解(分類)します。自分が分解されたように。しかし、その部分をいくら集めても、全体にはなりません。骨や皮膚や臓器を集めても人間にならないように。

自我にとって、意識の中の世界は「絶対的」です。それは「一つの全体」でなければなりません。その全体性を「自己同一性・アイデンティティ」といいます。

人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。(芥川龍之介『侏儒の言葉』、全集第7巻 1978/02/22、P.399)

いくら落丁が多くても、それが全体でなくなることを「アイデンティティ・クライシス」と呼びます。また、「多重人格」は、全体性と部分性の矛盾による不安の一表現です。だからこそ、自我は死を自分の物にして制御・支配しなければならないのです。それが不可能だと悟ったとしても、それを「説明」して「論理化」「自我化」しなければならないのです。

世人

このように主体性を失って誰でもない中性者としての在り方をしているときの現存在を、ハイデガーは述語的に世人と名づけた。(P.37)

しかし、ひるがえって現存在が世人としての非本来的自己からまぬがれえないとすれば、現存在がおのれの本来的自己を了解し、本来的自己として存在しうるときには、現存在は、世人でありながらも、いや、世人であればこそ、その世人から離れつつ、本来的自己へと向かっておのれを投げているのでなければならない。本来的自己に関するこのような投げのことを、現存在の在り方として、ハイデガーは企投と述語化した。了解という現存在の在り方は、それ自身のうちに企投というあり方を含んでいるのである。しかも、このように了解しつつ本来的自己へと企投するときには、非本来的自己としての世人という在り方から言えば、現存在はおのれに先んじて存在していると言うべきであろう。ここから、「おのれに先んじて」という現存在の存在性格がえられてくる。(P.39)

自我(自己)であることを強制されている社会(文化)、それは人間が「自由の刑に処せられている」社会(文化)です。そこでのアイデンティティの確認は、「告解」と「告発」という形を取ります。他者を「監視」し続ける社会です。人間相互の関係は、「自由な個人の契約関係」として互いに制御・支配することによって成立します。

自我にとっての主体(主語)は、同時に他者にとっての「客体(述語)」です。現存在は常に世人であることを運命づけられています。「現存在の本来的自己」なるものは成立しません。「自己なるものは幻想だ」、というと宗教的になります。喜ぶのも、悲しむのも〈わたし〉です。それは、意識する〈自我〉と区別するのはむずかしいのですが、どこか違っていると感じています。そこには「文化(言語)」の影響が色濃くあるのですが。

嬉しいときにどんな表情をして、どんな身振りをするのか、痛いときにどんな表情をするのか、どんな行動をするのかでさえ「文化」の影響を強く受けています。

精神の外化としての文字文化

私は今、イメージビデオを見ています。可愛くて素敵な女の子が映っています。でも、私は彼女に触ることができません。彼女が実在するとしても、その姿は現在の彼女の姿ではありません。1年前の姿のこともあれば、10年前の姿であることもあります。彼女は多分実在します。今生きている彼女には触れることができるかもしれません(ありえませんが)。でもビデオに映っている彼女には触れることができのです。イメージビデオがVRだとしても同じです。写真はどうでしょう。グラビアに写った彼女はやはり今はいません。写真に触ることができます。でも、彼女に触ることはできません。

それではちょっと技術をさかのぼって「文学(小説)」はどうでしょうか。やはりそこに登場する人物(女の子)には触ることができません。本をいくら触っても女の子の姿はありません。女の子の肌も、声もありません。その女の子は自分が想像するしかありません(挿絵がある場合もありますが)。

想像ということでは、夢や妄想のほうがその女の子に触れられるかもしれません。そう考えると、文学は、「外にある」というより、「内なる精神が外化」したものです。単なる「インクのシミ」に見いだす女の子は実在するのではなく、そこに自己の内的意識を見いだしているのです。同じように、写真も色のむらに、ビデオも光のチラツキに自己の意識、精神を見いだしているにすぎません。

昨日クイズ番組で、「東北地方で毎日味噌汁を飲む人の割合が多いのは、味噌の生産量が多いからだ」と言っていました。ふつうに因果関係を考えれば、「消費量が多いから生産が盛んだ」ですよね。その逆転が今の社会を象徴している気がします。一時期、AVが性犯罪を増加させる、という議論がありました。オナニーをするときに、AVソフトを観ることがありますが、それを「AVが性欲を高める」というのはたぶん誤りでしょう。「自分の性欲とAVを介して戯れている」という方が近い気がします。人間が創り出した(考え出した)「神(自然・科学法則)」に人間が支配されると同様という意味では、西欧社会では古くからある考え方です。

客観的存在

私は唯物論者です。自分(意識)の「外」に物質が存在すると考えています。それらは客観的な存在です。なぜそれらが客観的な存在かというと、私の自我がそれらを「対象」と見なすからです。ところが、私が「主体」として「対象(客体)」を「必要」とし、生み出しているにもかかわらず、逆にそれらが「あらかじめ存在」し「私」を創っているように思えてしまいます。

主体が考察や観察、感覚の対象とするものを存在と呼んでも、「有」と呼んでも、存在者と呼んでもいいのです。あるいは、意識や観念、現存在、他者、人間と呼んでも構いません。それらは「客観的存在」です。それらは自我が見て感じる、そして考えるものです。他の自我にもそれらは存在するかもしれないけど、それはその自我にとっての客観的存在なのです。他者の目は、常に自我を客観的存在にしようとします。あるいは自我そのものが自我を客観的存在として「コントロール」し「反省」し「投企」することを試みます。ですから現存在は「常に不安(不満、不満足)」なのです。

ハイデガーの言葉で言えば、現存在は現存在であるかぎり、存在(有)は存在者としてしか現れない(認識できない)のです。

一つ例を挙げましょう。現存在としての男性は、自分のちんちんも、そして「性欲」ですら存在者です。対象として見られ、触られ、支配・制御(コントロール)されるもの/すべきものとして現れます。ですから女性も、見られ、触られる存在者として現れざるをえません。ルカーチ風に言えば、人と人の関係が「物と物の関係」として現れます。つまり「存在者と存在者」の関係にならざるをえません。それが今の社会における「現存在と現存在」の関係なのです。その社会における「男女平等」とはどういうものなのでしょうか。「商品の交換可能性」「生まれながらの平等主義者である貨幣」のような「幻想」を感じてしまいます。

性欲は支配・制御されるもの/すべきものなのでしょうか。そもそも性欲というものは「存在する(有る)」ものなのでしょうか。むしろ支配・制御されるものとして対象化することが性欲を「生み(創り)出している」のではないでしょうか。

見えないものの存在(悪霊と疫病・ウィルス、そして死)

14世紀に描かれたといわれる『融通念仏縁起絵巻』には、疫病の姿としてたくさんの鬼が描かれています。「疫病神(やくびょうがみ)」ですね。

つまり、古代日本語の「オニ」にも、実態を持たないもの、目に見えないものという意味が含まれていた。このような疫鬼に実態を与えるのが、絵巻や掛幅に表された説話画である。(山本聡美『疫病と美術ーー 日本中世絵画に描かれた疫鬼ーー

目に見えないものを目に見える形にする事は、いつの時代にもありそうです。天然痘やチフス、今で言えば新型コロナウィルスもそうですね。鬼の形で描くか電子顕微鏡写真で提示するかの違いです。

死神も同様です。死も見えませんから。

病いや死、あるいは痛みにどう対応するかは社会によって違っています。文化や歴史によって違ってくるのです(イリイチ『脱病院化社会―医療の限界』)。それらをどう描くか、あるいはそれらをどう解釈するかは文化によります。だから気をつけなくてはいけないのは、古い絵や文献をどう解釈するかも文化によるということです。私たちがそう文献や絵を解釈するのは今の文化によるということです。前記の巻物や日本神話を解釈するのも、今の私たちの思考方法によるということです。

「昔は科学が発達していなかったので、病や死をそうを描いたに過ぎない」と思いがちです。でもだれも疫病の姿を見たことがありません。ウィルスの姿を見たことも無いのです。電子顕微鏡をとった科学者は見たと言うかもしれませんが、それは数式に基づくデジタルデータを画像の形にしたものに過ぎません。科学者も医者も自分の目で見てはいないのです。ある人は疫病神や死神を見たと言い、ある人はウィルスを見たといいます。そしてそれに対応するのが祈祷だったり薬だったりワクチンだったりします。

病気や死を決めるのは事実ではなくて社会です。どういう状態を病気とみなすか、あるいはなに持ってを死とみなすかとみなすかは社会が決めます。

きっと「〇〇(物質でも概念でも)が存在する」と決めるのは、私ではなく「社会」なのではないでしょうか。

概念、あるいは言葉、単語

読んでもいない本の感想文が長くなってしまいました(笑)。いくつか存在についての考えを書いてきましたが、この『存在と時間』を読むことがあるかもしれないので、その時の為に今思っていることを最後に書いておきたいと思います。
「存在」はもちろんのこと、「概念」「意識」「実体」「文化」、それに「人間」など、この文章に出てきた単語の多くは、いやほとんどは(印欧語では日常語ですが)もともと日本語にはなかったものです。でも、それがいつどこをから伝わってきたのか、あるいは作られたかという事はなかなかわかりません。

日本の学問・思想の基本用語が、私たちの日常語と切り離されているというのは、不幸なことであった。しかし、それには漢字受容以来の、根の深い歴史の背景がある。他面から見れば、翻訳語が日常語と切り離されているおかげで、近代以後、西欧文化の学問・思想などを、とにもかくにも急速に受け入れることができたのである。ところが同時に、そこには、本書の至る所で述べているように、いろいろとかくれた歪みが伴っていた。(『翻訳語成立事情』柳父章著 1982/04/20 岩波新書、P.ii)

例えば「存在」は、たぶん仏教用語です。ですからかなり古くからありそうです。でもその時の存在というのは、いまわたしたちがつかっている「存在」とはだいぶ違います。「有る(在る)」ということばは古くからあったでしょう。日常語です。でも「存在」は "Sein (being)" の翻訳語として現在の意味をもっています。なので、日常ではあまり使われません。「存在」はなにか抽象的な、空に浮いたような、地についていない感じがします。

柳父章さんは「社会」ということばについて同書でこう言っています。

かつてsocietyということばは、たいへん翻訳の難しいことばであった。それは、第一に、societyに相当することばが日本語になかったからなのである。相当することばがなかったということは、その背景に、societyに対応するような現実が日本にはなかった、ということである。(同書、P.3)

そうであれば、"Sein" の翻訳語として「存在」が当てられたとするならば、日本には「("Sein" という意味での)存在」というものがなかったということです。

ハイデッガーは、もともとドイツに「ワイン(Wein)」や「バームクーヘン(Baumkuchen)」と同じように(身の回りに)あった「Sein」を考えたのです。ワインが味噌汁のように当たり前に食卓にのっているのです。「存在と時間」は西欧人にとっては「味噌汁と沢庵」なのです。

だから、むしろ、主体性ないしは主観性を放棄するのではなく、逆に、主体性ないしは主観性を堅持して、しかもなお存在の「声なき声」に聴従しようと務めることのうちでこそ、言いかえれば、いわば主体と存在、実存と歴史的運命との不断の対決のうちでこそ、私たちのたどるべき歴史的運命の進路も、確たるものとして開かれてくるのではなかろうか。(P.53)

という著者のことばは、「味噌汁は如何にしてワインとなり得るのか」という問いを忘れてしまっているように響きます。


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