エルピス-希望、あるいは災い- 2022日 大根仁、下田彦太、二宮孝平、北野隆演出

エルピス-希望、あるいは災い- 2022日 大根仁、下田彦太、二宮孝平、北野隆演出

ジャーナリスト、あるいはマスコミの自己批判?

第1話目を見た時から注目していたドラマです。マスコミがマスコミの堕落を暴くという話なのでどうなるのかなと期待していました。だってあのフジテレビが自分の首を絞める自虐ネタをやるとは思えなかったからです。

思いないようなのですが、シリアスドラマとしてはなんかはじめから雰囲気に違和感がありました。どこかコメディ要素を感じました。その事自体は「新しい」と感じていたのですが。

脚本の渡辺あやさんはよく知りません。Wikiで見るかぎり思い出せるのは『ストレンジャー〜上海の芥川龍之介〜』かな。73分ではもったいないほど内容が詰まってました。面白かったです。異空間、異文化のなかでの龍之介。中国国民党革命家との接触等、史実とは関係なく龍之介の精神状態が描く世界をうまく表現していました。

演出の大根仁さんは『週刊真木よう子』、『モテキ』が面白かったです。『トリック』も一部演出したようですね。『週刊真木よう子』でのちょっとカメラに収まらない真木よう子の魅力、ある意味で画面から浮いている真木よう子の雰囲気は、今作の長澤まさみの雰囲気と似ています。

プロデューサーの佐野亜裕美さんは渡辺あやさんとこの企画を作りTBS時代に局に売り込むもボツ。カンテレに所属してから蘇らせたそうです(『FRIDAY DIGITAL』)。佐野さんは『99.9-刑事専門弁護士-』を手掛けたこともあるから、刑事事件や冤罪には興味があるのでしょう(『大豆田とわ子と三人の元夫』は台詞の掛け合いが面白かったけど)。

まさみちゃんを精神的に追い詰められた女子アナの主人公に配役することは早い時点から決まっていたようです。この役は『マスカレード』シリーズに近いけど、私の中では『コンフィデンスマンJP』のイメージが強くて、今にもダー子のように笑い出すのではないかと感じてしまいました。この作品ではほとんど笑いません。エンディングの料理を作りながら踊るシーンが好きです。

眞栄田郷敦の眼力はすごいです。私は彼を見るたび小澤征悦さんが頭に浮かびます。似てると思いませんか。父親(千葉真一)に似ていると言えばそうなのですが。

鈴木亮平が珍しく悪役に徹しています。頭が良くて、かっこよくて、二枚目で、表面はとても真面目な男は私の周りにもいます。そして、本心は何を考えているのかわからない。そのミステリアスな部分がさらに女性を惹きつけるのかもしれません。そして、同僚も女性もお金も人間関係そのものも「自己実現」のための道具としか見ていません。最終話での言葉が「本心」なのでしょうか。浅川恵那はそれ以上追求するのを諦めたようですが、私はまだどこかに「隠された本心(良心)」があるのではないかと思ってしまいます。その「あるかないか分からないもの」を信じ続けることも希望なのかもしれません。

マスコミの役割

加藤周一は「大衆と情報伝達、いわゆる「マス・コミ」」の代表である「TV放送局の情報選択」の主要な点を四つ列挙しています。

第一に、「放送局は大きな組織であるから、政府または大企業(広告、銀行融資、その他)を背景とする。」「そこから「マス・コミ」を通じての「大衆操作」という問題が生じる」。第二に、「多くの放送局は、「視聴率」に敏感であり、その結果、大衆に迎合する同じような番組のくりかえしーーまさに日本の民間放送において典型的なところのーーが行われる(「一億総白痴化」)」。第三に、「放送局は無制限に大衆に迎合するのではなく、当該社会に広く行われている価値体系と著しく矛盾しない範囲内で迎合するのである」。第四に、「放送局の情報選択には、技術的な制約も伴う。」「一般に高度に組織され(組織は写真に撮れない)、複雑な象徴の体系(たとえば通貨、小切手その他)を利用して成り立つ社会では、その社会の全体に大きな影響をあたえる事件や決定の大部分は、組織を主体とし、象徴の体系を媒介として表現される。すなわち原則として、写真に撮りにくいものである」。(『現在のなかの歴史』1976/10/20 新潮社、P.225〜)

マスコミは「大衆」や「民衆」あるいは「群衆」と同じく近代に生まれたものです。いや、それは因果関係ではなく、それらは同じものを別の視点から見たものです。

資本と政治と視聴率と科学、それと民衆とのバランスの上にマスコミは成り立っています。ですからマスコミは、はじめから「両義性」を持つものです。西欧における近代革命、民主主義革命、あるいは資本主義革命において、本、あるいはそれ以上に新聞(マスコミ)が有効な武器となったことはよく知られているところです。いま、SNSが一定の力を持っていることと同じです。

マスコミは、権力と民衆を媒介するものであり、また、権力を見張る番人のような存在だとも言われます。でも、近代の権力が民衆を必要とし、その手段としてマスコミを使ったのも事実です。その権力が支配者になったとき、マスコミをどう使うかは明らかなのではないでしょうか。いや、現在のマスコミのあり方そのものが、マスコミの本質を表しています。

本とマスコミ

本は思想を伝え、マスコミは感情を伝えるという違いがあります。それは瓦版を含め、マスコミが挿絵や写真を必要としていることからも明らかです。それでもまだ新聞(あるいはテレビ)は「事実を伝える」という前提・仮定・幻想がありました。SNSは絵文字が象徴的なように、全角140文字、半角280文字という制限の中で「事実を伝える」という面はほとんど抜け落ちています(それが4000文字になっても同じです)。

なぜ「理性」ではなくて「感情」なのでしょうか。それは「大衆」を相手にしているからであることは明らかです。喜怒哀楽の感情を伝えるわけですから、マスコミはドラマやバラエティなどととても親和性があるわけです。芸人や俳優(つまり感情をコントロールするプロ)が「情報番組(元のワイドショー)」に出て行う発言が説得力を持つのも当然です。

これは、一見「理性の敗北」や「理性の限界」を現しているようにも見えます。私は、これが「理性は感情の一表現手段に過ぎない」という単純なことなのではないかと思っています。

反権力、反体制としてのマスコミ

近代革命において、封建領主、貴族階級、カトリック教会に反対する勢力としての「民衆」の自由・平等・独立・民主主義を実現する「力」としてマスコミは普及しました。マスコミは「人民の友」であり、「正義・善」でした。革命が「人民が勝利した」ように終わり、革命以降は、新たな政治的・経済的権力の「監視役」という役割を担っています。これが村井や浅川が持ち続け、岸本が目覚めたジャーナリスト(ジャーナリズム、マスコミ)の「正義」です。

この正義は、「こうあるべきだ」と「自分はこうしたい」というように表現できますが、どちらが先なのでしょうか。人それぞれかもしれません。私にもよくわかりません。前者が先にある場合、「社会はそうあるべきだ」が「自分はそうするべきだ」になります。そして「あなたもそうするべきだ」に繋がります。その強制(自分に対するものも含めて)がなければ「あるべき社会」を目指すことはできません。他人に「強制」することと、「自由・平等・民主主義」との折り合いが難しくなります。自分に「強制」することは辛いし、「挫折」や「逃げること・諦め」との駆け引きになります。村井・浅川・岸本が抱える葛藤は、まさしくこれです。 

その他のスタッフは、「そうあるべきだ」ということを「棚上げ」しています。「自分はそうしたい」がいくらかでも優先され、保身と事なかれ主義の中にいます。忙しさにかまけ、権力の大きさの前に最初から「諦め」ているのかもしれません。「こうしたい」より「そう(犠牲や惨めな立場)はなりたくない」という思いで行動します。

さらに「こうしたい」が優先されると、「こうなりたい」という思いになり斎藤(鈴木亮平)に繋がります。斎藤にも「社会はこうあるべきだ」という思いがないわけではないでしょう。これらの立場は優先度の違いはあれ、その対立は本質的でなないのではないでしょうか。

権力

マスコミが「権力と民衆をつなぐ」役割があるということは、「権力に一番近い」存在だということです。

私はフーコーの「生権力」を全く理解していませんが、村井・浅川・岸本が闘っていたのも、周りのスタッフの「事なかれ主義」を支えていたのも、そして斎藤の行動を正当化していたのも「生権力」ではないでしょうか。それは「実体」や「事実」というよりも「感情」に近いものです。

だからマスコミは「何を」を報道するかよりも、「どう(どのように)」「いつ」報道するのかのほうが大切です。堤未果は、

テレビの放送でカットされているところこそが知らなければいけないところ、わたしたち日本国民にとって本当に価値のある情報だと思ってください。(『株式会社アメリカの日本解体計画』堤未果著 2021/01/20 経営科学出版、P.146)

と言います。そして「ニュースがある事件一色になったら、その裏で何かが起きている」(同)のです。「アポロ計画」と「ベトナム戦争」の関係は有名です。「東京オリンピック」(今回のも前回のも)「万博」なども同じです。私達の生活に直結する法案のほとんどは国会で審議されているときは報道されず、成立後施行される数日前にどのチャンネルのワイドショーでも「一斉に」報道されます。まるで「放送が解禁された」如くに、です。

楽しいものだけではありません。堤さんは「沢尻エリカ事件」を例に挙げていますが、「東大紛争」「浅間山荘」「オウム真理教」「安倍殺害」などもそうですね。そこで描かれるのは「犯罪者(悪者)」とその運命です。それが「生権力」を強化します。

ドラマでも「政治家や官僚、警察組織は悪いことをするもの」、「医者は金儲けをするもの」のように描かれ続けます。「巨大な闇(権力)」に挑むことは「暗殺されるかもしれない恐怖」と闘うものです。その恐怖は「物理的暴力」だとは限りません。その必要はないのです。マスコミが伝えるのは「事実」ではなく「感情」だからです。そこに現実とドラマの区別はありません。ニュース映像がどれだけ「演出」されていることか。現場にいない私は確かめようもありませんが、演出されていない報道などありえないのではないでしょうか。どの映像を使うか、どこをアップで伝えるか、テロップ入れるか、誰のコメントを入れるか・・・、それがディレクターの腕の見せ所ですから。

存在

齋藤は「一人ひとりは国家の細胞にすぎない」と言いました。個人の集まりが社会だと思っているのです。社会(全体)は個人(部分)に分けることができる、というのは分析的思考ですが、そんなことは可能なのでしょうか。個人は、さらに「手・足・骨・心臓・肝臓」等に分けること(さらには一つ一つの細胞に分けること)が可能でしょうか。「できる」と思うことから臓器移植が可能になります。さらに手や足がなくなること、障害を持つことは「不完全である」という発想も生まれます。

手や足などを「合わせたもの」が個人なのであれば、障害者は不完全なことになります。どこか・何かがかけた個人です。医学的・生物学的には「ここからここまでが手」という「決め」があるのかもしれませんが、実際には結構アバウトに考えていて、厳密に指し示すのは難しいと思います。どこまでが「鼻」かと言われると、もっと難しい。実際、国や地方によって「鼻」や「口」の範囲は異なります。

「あなたの家族はあなたの一部ですか」という問いに対する答えは、結構ばらつきがあるのではないでしょうか。あなたの家は、あなたの会社は、あなたの国家は・・・、あなたの心と体は?

自分の周りの色々なものを削ぎ落としていったとき、多くの人にとって最後に残るのは「私自身・心・意識」、つまり「主体・自己」なのではないでしょうか。「自分の記憶や思考をデータとして取り出す、そしてネット空間で生き続ける」なんて発想は、その最たるものです。本(文章)や芸術作品を書いて(描いて、作って)「自分が生きていた証を残したい」とか(私のことです)、「私の存在を知ってもらいたい」(私のことです)などというのも同じです。逆に、お金やスマホやフィギュアや、家族、宗教団体、国家を「命より大切」と思っている人もいます。

でも本当に「逆」なのでしょうか。私はそのような場合の多くに、その中心には「自分」があり、その延長、あるいはそれを成り立たせ、補うものとしてお金や家族があるように思います。

お金というのは一つの象徴ですが、交換可能性です。ダムで水没する土地や、空港建設地の代替地は、東京の代わりの大阪、駿河の代わりの近江、あるいは臓器移植と同じ考えに基づいています。それは、土地や臓器を全体の一部と捉えること、ハイデガーの言葉に寄せれば「存在」を「存在者」、いいかえれば「対象」として捉えるということです。土地や手足を対象(存在者)と捉えれば、つまり「全体の中の一部」と捉えるとすれば、そこに「交換可能性」が発生します。

人類全体から見れば、私が死のうとあなたが死のうと、日本が滅びようとアメリカが滅びようと関係ありません(そして、私とあなたはいずれ必ず死にます)。生まれた土地も、山の向こうの土地も、「生物的に生きていく」限りにおいては同じ「物」でしょう。家族を守りたい、生まれ育った土地(先祖代々の土地)を守りたい、日本を守りたいという思いが、「自分(自我)を守りたい」という発想から生まれている可能性はあります。しかし、それは同時に「かけがいのない」「代えることのできない」「部分ではない」もの、それ自体が全体である、「存在そのもの」であるという思いもあるのではないでしょうか。

「自分以外は部分だけど、自分は部分ではない」という思いは、西欧近代の「個人主義」です。「アイデンティティ」という言葉がいくらか日本に定着したのもその近代的個人の現れです。「自己承認欲求」などというのも同じことの別名です。それが徹底した対象化の作用(反作用?)であることは間違いないのですが、そこにもどこか「全体化欲求(存在そのもの化欲求)」があるように思えます(西欧社会における個人主義においてさえも)。自分は「完璧」とは言えないとしても、なんとなく「一人前」「一人の人間」でなければならないように思えます。それが強いと「一人前じゃない人」「何かが欠けている人」「障害者」「老人」「子供」に対して尊重する気持ちよりも憐れみの気持ちを抱いてしまいます(そういう人の集まりを「ホモソーシャル」と言います)。

マスコミ、あるいは国家、大衆に対する「個人」を、部分としての「細胞(交換可能性)」として捉えるか、二面性を持ちながらも「全体あるいは存在」として捉えるか、斎藤と浅川の関係はそこにあるのです。

善悪の彼岸へ

浅川は最終話で言います。

どちらが善玉か悪玉かなんてわからない。正しいことを諦めて夢を見ようよ。

脚本家、製作者の思いでしょう。善悪や正義は存在者としての人間(あるいは現存在)が考えることです。自然界(動物や植物、あるいは山や川)に「善悪」や「正義」がないことは、日本人には馴染みやすい考え方です。すべてを「善悪」の二つ、あるいはその対立に分ける思考は「二元論」です。これは対象を二つに分けているように思われますが、実際には「善」は「自分(あるいは自分に近いほう)」のことなので、その根本は「主観と客観」です。自分と自分以外のものを分けることが基本に有って、その自分以外のものを「自分にいいもの」と「自分に悪いもの」に分けることができます。

二つに分けなければ、何かについて語ることは難しい。「自分」は「自分以外のもの」があるから自分です。そう思ってしまうこと自体が「主観性にとらわれている」のです。白黒写真は白と黒のまだらです。全部白、あるいは全部黒なら何も見えません。白地に黒いインクで書くから文字が読めます。音はなっているときとならない時があるから音として感じられる・・・。他のものから区別してそのものと決めること、それが自己同一性です。

当たり前ですが、これが難しいのです。十年前のIDカードの写真を見て驚いたこと(笑ったこと)はありませんか。すべてが「変わる」のです(諸行無常、万物流転 Πάντα ῥεῖ)。自己同一性(AはAである。AはBではない・・)は、ある時点で対象を止め、あるいはある断面でしか言えないのです。ちょうど電子顕微鏡の写真のように。「飛んでいる矢は飛ばない」(エレアのゼノン)を認めず自己同一性を認めることはできないのです。

データ、情報、あるいは「文字」を見るとすぐに分かります。それは記録された途端にすぐに「過去のもの」になります。現在の存在を「書き留める」事はできないのです。

善悪や自己同一性は、人間の側のある種の思考形式に過ぎません。それでは「夢」とは何なのでしょうか。浅川の中では、それは「希望」ということなのだろうと思います。

エスピスあるいは「パンドラの箱」

パンドラ(最初の人間の女性)が神にもらった箱(πίθος、壺・甕)を開けてしまい、様々な災厄が飛び出したけれども甕の縁に引っかかって残ったのが「エスピス ἐλπίς」です(ヘーシオドス『仕事と日』岩波文庫、P.16~)。エスピスは通常「希望」と訳されます。その他「予知、予想、期待」などとも訳されますが、諸説あります。

箱を開けると災いがあるというのは、私は浦島太郎を連想します。ヘーシオドスの女性の捉え方は笑ってしまうと同時に身につまされる思いもするのですが(汗)、アダムとイヴの話にも通ずるものです。そういえば浦島太郎も乙姫様にうつつを抜かすんでしたね。

「信じられる人がいることが希望だ」と浅川は言います。そしてそれは「夢」なのです。

マスコミを使って人民(大衆)が封建勢力に勝利した、というのは現実でありながら幻想・夢です。そのマスコミが現代の権力に対して、監視する人民(大衆)の立場にあるというのも幻想・夢です。ジーン・シャープの言葉を借りるまでもなく、人民(大衆)は権力と無関係な存在ではありませんから。

マスコミ(浅川など)が人民の側にいる、民衆の立場にあるというのは「思い込み」ではないのでしょうか。浅川たちは誰に「勝った」のでしょうか。自由や民主主義は誰の「希望」なのでしょうか。

私たちの生得的感情はつねに社会主義者であって、資本主義者ではない。たとえば食物を近くの貧しい人に分け与えないで、商品として外国へ売るのには反感がある。

これは、新自由主義の経済学的理論家でノーベル賞受賞者、F.A.ハイエクの言葉です(F.A.ハイエク、今西錦司著『自然・人類・文明』NHKブックス、P.22)。貧しい人に食べ物を分けるのが社会主義的だとは思わないけど、「恵む」のか「分ける」のかは主観性の問題だと思います。困っている人を「憐れむ」のか「助ける」のかも同様です。

実は死のみが本当の優しさを現出させうるのであります。と言うのも、それのみが主観性を破壊しうるからです。主観性の枠内で語られる「優しさ」や「愛」が真にわたしたちを納得させることはありません。近代の諸思想や政治的スローガンにおいて語られる「愛」や「人権」、「平等」や「命の尊さ」、「共生」などといったタームはたいていそのようなものであって、それらはむしろわたしたちに苛立ちと反撥の気持ちを起こさずにはいないものがあります。あれら押しつけがましい諸タームをめぐって社会に蔓延している苛立ちとシラケに気づかぬ人がありましょうか。(日下部吉信著『講演集 ハイデガーと西洋形而上学』晃洋書房、P.77-78)

私は今でもどこかで人の「優しさ」や「愛」の「存在」を信じています。それが私の唯一の「希望」です。「善悪」や「正しさ」も捨てることはできません。でも、主観性にとらわれている私は、死ぬまで、それらに「わざとらしさ」を感じ続けると思います。






[スタッフ・キャスト等]

演出:大根仁、下田彦太、二宮孝平、北野隆
脚本:渡辺あや
監修:江口茂(報道)、吉田京子(刑事弁護)、古谷謙一(警察)
出演者:長澤まさみ、眞栄田郷敦、三浦透子、三浦貴大、近藤公園、池津祥子、梶原善、片岡正二郎、山路和弘、岡部たかし、六角精児、筒井真理子、鈴木亮平
ナレーター:長澤まさみ、眞栄田郷敦
音楽:大友良英
エンディング:Mirage Collective「Mirage」
時代設定

テレビ局を舞台に、エースの座から転落した女子アナウンサーが、彼女に共鳴した仲間たちと冤罪事件の真相究明をする中で、一度は失った「自分の価値」を取り戻していく姿が描かれる社会派エンターテインメント。

大洋テレビの女子アナウンサー・浅川恵那は、週刊誌に路上キス写真を撮られたことがきっかけで、深夜の情報バラエティ番組『フライデーボンボン』のコーナーMCを担当することになる。そんな中、新米ディレクター・岸本拓朗から、12年前(2006年)に発生した10代の女性を狙った連続殺人事件の犯人とされる死刑囚・松本良夫が、実は冤罪かもしれないと相談される・・・



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