レディ・プレイヤー1 2018米 スティーヴン・スピルバーグ監督

レディ・プレイヤー1 2018米 スティーヴン・スピルバーグ監督

大迫力のエンターテインメント

キングコング、メカゴジラ、ガンダム、サタデーナイトフィーバー、シャイニング・・・・。5回、10回と観直せば、まだまだたくさん見つかるだろうね。スピルバーグの遊び心満載です。著作権交渉が大変だっただろうな、と思います。何しろ「ものすごいスピード感」なので、1回2回ではわからないでしょうね。

ほとんどがCG。それが現実と交錯しています。登場人物がゲームに入り込み、ゲームのキャラクターになって走り回っているところが『トロン』に似ているな、というのが私の第一印象です。

CGの登場人物の表情がリアルです。ただ、今のCG技術で言えば、動きはもっとリアルになったはずです。アニメーションでの人物の動きはディズニーの『白雪姫』を超えるものはありません(ディズニーにもありません)。そして、この作品ができた2018年なら、それと同等のCGは可能であったはずなのですが、あえてCGらしくしたのかもしれません。スピルバーグならやりそうです。

老婆は醜いか

主人公は若い少年。多分ゲーム三昧のゲームオタク。ヒロインはきれいな少女。ただし、顔に大きなアザがあります。でも、少年は「綺麗だ」といいます。女の子は若いというだけで美しい?

『シャイニング』の場面では、入浴中の若い女性が老婆に変身して襲いかかります。『シャイニング』にそういうシーンがあったような気がしますが、『グリム童話』などに描かれている老婆のイメージそのままです。

それに対して、男性の老人は「物分りのよい、やさしいおじいさん」です。その上に、自分の間違いを認め、若い人(新しい人)の優越性を証明します。若い人が「若い(新しい)」というだけで正しかったり、「進んで」いるわけではないので、年寄の私は不満です。

アメリカでは今でも、老婆はおそろしい存在で、じじいは「遅れた」存在なのでしょうか。

『インディー・ジョーンズ』

宝物(3つの鍵、イースターエッグ)を探すのは、『グーニーズ』や『インディー・ジョーンズ』に似ています(主人公が乗る車は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンに似ています)。そして、それを阻む人がかならず登場します。『インディー・ジョーンズ』でいえば「ベロック」ですね(決してヒトラーではありません)。

主人公は苦難を乗り越えて宝物をゲットするのですが、『グーニーズ』『インディー・ジョーンズ』同様、大切なのは「宝物自体」ではなくて、そこに至る「経験」です。『青い鳥』を始め、そういう話は多いですよね。そういうストーリーに、なんか名前がついていたっけ?

いやな現実、あるいは現実に満足せず、家(現実)を飛び出し、冒険の旅にでる。様々な人に会い、様々な経験をし、最後に夢(目標)を実現する、そんな話です。王様(王妃)になったり、大金持ちになったりするんだけど、結局元の場所に戻ってきます。でも、戻ってくるのはたいてい男の子です。女の子はお姫様になってハッピーエンド、というパターンが多いのかもしれません。

ですから、それを男の子の「通過儀礼」とみなす人もいるでしょう。男の子は一度死ぬ(冒険する)ことによって成長し、成人する(社会の一員となる)という発想です。自我に目覚める「思春期の危機」とも言われます(インディーは大人ですが、彼のような男は大人とみなされません。ずっと青年です)。この映画の主人公ウェイド(パーシヴァル)がどう大人になったのかは映画を観てください。

女の子にも「思春期」はあるはずなのですが、それは主に「恋愛」と結び付けられます。恋をすることが青春で、それは結婚(その結果・目的である出産、たまに育児)で幕を閉じます。それを「初潮」から「閉経」までに結びつけます。100年前までは、女性に人格はありませんでした。つまり、男と同じような「大人」にはなり得なかったわけです。「おんなこども」とひとまとめに語られていました。人格がありませんから当然選挙権もありません。日本で女性に選挙権が認められたのは戦後(1946年)ですが、その後も「おんなこども」の扱いは続きました。

参政権(選挙権)、つまりいわゆる「自由・平等・民主主義」と「思春期」は密接な関係があるということです。参政権とともに、女性が「大人」になることになったのですから、女性の「思春期」、つまり「通過儀礼」も必要となるのでしょうか。

欧米で民族学が進み、一部の部族の「成人儀礼」(「バンジージャンプ」など)が紹介されるとともに、「通過儀礼」は人類(大抵は男性のこと)普遍のものだとされました。でも、それは近代西洋人から見た解釈です。だいたい西洋に決まった年齢での成人儀礼があったでしょうか。日本にありましたか。もし、成人儀礼が「人類普遍」のものでないとすれば、思春期も人類普遍のものではありません。近代西洋人が定義した「思春期」とな何なのでしょう。

ルール

この映画ではVRの世界の中で、自由を求めて民衆(プレイヤー)が立ち上がります。「自由」と「正義」のために戦うのです。

VRの世界(VRゲームの世界か、現実の世界かは微妙です)は自由なのでしょうか。ゲームには「ルール」があります。この映画についても、現実の社会についても、悪役がそのルールを犯そうとしているのかどうかは微妙です。なぜなら、そのルールを作っているのはその人達だからです。

資本家も、政治家もルール(法)に基づいて行動しています。そのルールを破って罰せられる人の大部分は、民衆(の一部)であって、資本家や政治家はルールを作り、それを守ることを「強制する」側なのです。

ゲームのルールもゲームの制作側が作ります。ゲーマー(player)は、そのルールの中で「自由」に遊べるだけです。ゲーマーがゲームを改造し、別のルールを作ることもできるかもしれません。でも、それはもう元のゲームとは別のものです。

ゲームはある意味では、現実の模倣です。現実の生活の模倣、闘争の模倣であったりします。現実を抽象化したもの、空想、イデアを具現(具体)化したものです。そういう意味ではVRは具現化の最先端です。

「正義」や「法」「ルール」もイデアであり、そこに具体的なもの、現実はありえません。たとえば、法において具体的に定めるとすると、「誰が、いつ、どこで、どういう状況で・・・」というようなことを無数に列挙しなければなりません。ですから「具体化(具現化)」、たとえば小説、絵画表現、テレビドラマ・・・等の具現化は、イデアが失われていくのです。一つの机を選べば、「机のイデア」は存在理由を失います。イデアを失われずに具現化を追求すると、抽象絵画のように単純化していかざるを得ないのです。リアルに描かないことで、イデア性が保たれるのです。

具体的なもの(自然、存在そのもの)はイデア化されません。だからプラトンはイデア界と現実界を明確に区別せざるを得ませんでした。その後、イデア界を現実界と融合させたり、分離したりする動きが2500年にわたって繰り返されてきたのです。

おもちゃ

先日バラエティー番組で、戦後のおもちゃの変遷を扱っていました。たとえば、リカちゃん人形は着せ替えの服が販売されるだけでなく、恋人や親・姉妹などが発売されます。リカちゃんの誕生日などの「プロフィール」も設定されます。「リカちゃんハウス」ができて、様々な家具(調理用具もふくめて)も販売されます。どんどん具体化されていくわけです。

それまでお人形には誕生日がなかったし、必要なら遊ぶ子供が決めることができました。お母さんや子供は、別のリカちゃん人形が務めることもできたし、クマのぬいぐるみや機関車、場合によっては木の棒が務めることもできました。リカちゃんハウスを買ってもらえない子供は、ダンボールでリカちゃんハウスを作ることもできました。しかし、子どもたちの創造性はお金に替えられてしまったのです。そして、親の愛情もお金(リカちゃんハウスを買ってあげるか、わたるくんを買ってあげるか)に替えられてしまうことになります。買ってもらえない子供は「不幸な子供」になりました。創造性を発揮することは「惨めな思い出」となりました。

これが具現化(具体化)がもたらす現象の一つです。それで失われたのは個々の子供が持つ「個性」でもあります。リカちゃんが大量生産されて個性を失ったように、各地方で培われてきた人形のイメージも、子供がもつ個性の発現も制限されました。個性の発現は、「他の子どもたち」が持っているものを持つことを土台として、「持っていないもの」を持つこととなります。でも、それは親の経済力次第です。お金持ちの子供だけが、個性を発揮できるのです。

人形に個性が失われたことは、その人形に個性を与えていた人間自身の個性が失われていったということではないでしょうか。

リアルなリアリティ「Reality is Real」(ネタバレ注意)

ヴァーチャル(virtual)

「ヴァーチャル」という言葉は日本語になりつつありますが、私が若い頃には日常にはありませんでした。学校で習った記憶もありません。辞書をひくと、

virtual

(表面または名目上はそうでないが)事実上の、実質上の、実際(上)の、虚像の

weblio英和辞典

とあります。

私には「現実の」と対になる「虚像の」という訳が一番あっている気がします。「想像上の」とか「観念上の」といったニュアンスです。でも、「(名目ではなく)事実上の」とか「実際の」という意味が最初なんですね。

例文が載っています。

He is the virtual president of the firm.(彼が会社の事実上の社長だ)

私以外の人は、このように訳せるのでしょうか。私なら、「彼は見かけ上の(仮の)社長だ」あるいは「彼は空想上の社長だ」と訳してしまいそうです。(笑)

別の辞書には

1 実際の事実としては存在しないが、本質的にあるいは事質的には存在するさま(existing in essence or effect though not in actual fact)

2 実際に、ほとんどあらゆる点でそのようであるさま(being actually such in almost every respect)

(日本語WordNet(英和)での「virtual」の意味、同weblioより)

「being」については後で触れます。「actual」は、

actual
現実の、実際上の、事実上の、現在の、現行の
weblio英和辞典

う〜ん、なんか virtual とかぶっているような、そうじゃないような。私には欧米人の感覚がわからないんでしょうね。もう少し英語を勉強しておけばよかった。一応 virtual と同じく「日本語WordNet(英和)」の actual の項目を載せておきます。

1 事実が存在し、単に潜在性または可能性だけではない(presently existing in fact and not merely potential or possible)

2 現時点であり、存在する(being or existing at the present moment)

3 現実に行われるさま(taking place in reality)

4 行為または事実で存在する(existing in act or fact)

5 何かの本質または本当の特性の、またはそれを示す(being or reflecting the essential or genuine character of something)

「仮想」のニュアンスが分かりましたか?

今度は日本語の辞書を見てみましょう。

精選版 日本国語大辞典

〘名〙 仮にこうこうだと考えること。仮の想定。想像。

※真善美日本人(1891)〈三宅雪嶺〉日本人の任務「茲に強大なる国家と弱小なる国家とありと仮想せよ」


デジタル大辞泉

[名](スル)実際にはない事物を、仮にあるものとして考えてみること。仮に想定すること。「火災を仮想した避難訓練を行う」

明治時代からある言葉のようです。「実際にはない事物」というのは、私の思っている「仮想」に近い気がします。

現実(reality)

次は real です。まず weblio、

real

(名目上・表面的でない)真の、本当の、(まがいでない)本物の、天然の、(うわべだけでなく)心からの、(想像・空想でなく)現実の、実際の、実在する、真に迫った、まったくの

weblio英和辞典

virtual との違い、わかりますか。

語源は、

From Middle English real, from Old French reel, from Late Latin reālis (“actual”), from Latin rēs (“matter, thing”), from Proto-Indo-European *reh₁ís (“wealth, goods”). Doublet of realis.

(Wiktionary英語版、同weblioより)

つまり、ラテン語の「 res 」から来ています。

reality(「実在))の祖形は 羅 realitas, 中世スコラ哲学者ドゥンス・スコトゥスが res (「もの」)から作った新造語。res は生活上の必要に迫られて相互に区別・知解されるもの一般を指す。動詞形は reor (解する)、別の名詞形に ratio(理性)がある。民法総則の「人(persona)」と「物(res)」はローマ法以来の対概念。ろーまほうでは res は訴訟対象となりえる具体的な事物。人間の知解能力の彼岸にある res, 人間知性から独立存在する res は形容矛盾になる。(『西洋哲学の基本概念と和語の世界』古田裕清著、2020/10/01 中央経済社、P.30)

つまり、人ではない(対立する)もので、人が理性でわかる(知解する)ことができるものが reality(real なもの)です。「実在」に似た言葉に「存在(being)」があります。

他方、後発のキリスト教は ens という語彙を重視する。これはラテン語の be動詞 sum の現在分詞(英 being)。キリスト教では「神が創造し、存在を与えたもの」のこと。あらゆる事物は res として知解可能な内実を異にするが、ens(被造物)としては同じ。res はアウグスティヌス以降、神に内在するイデア(forma Dei)に従って創造された ens, と捕え直される。神による創造は人間の知解能力と無関係であり、被造物は人間の知解能力とは独立に存在する。(同)

神が作ったすべてのものが「存在(ens)」ですが、そのうち人間が理性で理解(知解 intellectio)できるものが「res(reality, 実在)」ということでしょう。

「現実」を日本語の辞書を見てみましょう。

精選版 日本国語大辞典

〘名〙(actuality, reality の訳語)

① (空想、理想などに対して) 事実として目の前にあらわれているものごとや状態。また、現在、実際に存在していること。〔布令字弁(1868‐72)〕※波の音(1907)〈国木田独歩〉一「自分は空想の浜から現実(ゲンジツ)の浜に出た」

② (━する) 実現すること。※野分(1907)〈夏目漱石〉五「光明より流れ出づる趣味を現実(ゲンジツ)せん事を要す」


デジタル大辞泉

いま目の前に事実として現れている事柄や状態。「夢と現実」「現実を直視する」「現実に起きてしまった事故」⇔理想

明治時代につくられた和製漢語です。漱石は「実現」の意味で使っています。いまでは普通に使われる日本語ですが、当時はとてもハイカラな最先端の言葉だったということです。「夢と現実」というのは「夢か現(うつつ)か」の「うつつ」をかっこよく表現したものでしょう。

VR(virtual reality、仮想現実)(ネタバレ注意)

「virtual」と「reality」のニュアンスがわかりましたか?わたしはよくわかりません。

「仮想現実(virtual reality)」となると、さらにわかりにくいです。日本語では「実際にはない(存在しない)ものが目に見える」くらいの意味でしょうが、英語ではもっとニュアンスが違いそうです。virtual, virtue, reality, real, actual, act などは、すべて日常語です。仮想、実在、存在、理想などはたしかに日本語です。でも、使う場所・場合はかぎられています。現実も作られて100年以上経ちますが、actuality, reality のように文化や宗教に根ざした言葉ではないので、どうも地についた(風土に根ざした)もの、日本人の身体的感覚ではない気がします。「頭で考えただけのもの」なのではないでしょうか。ここに翻訳文化の日本語の特徴がよくあらわれています。

翻訳語は、先進文明を背景にもつ上等舶来のことばであり、同じような意味の日常語と対比して、より上等、より高級という漠然とした語感に支えられている。(柳父章著『翻訳語成立事情』岩波新書、P.20)

このころつくられた翻訳語には、こういうおもに漢字二字でできた新造語が多い。とりわけ、学問・思想の基本的な用語に多いのである。外来の新しい意味のことばに対して、こちらの側の伝来のことばをあてず、意味のずれを避けようとする意識があったのであろう。だが、このことから必然的に、意味の乏しいことばをつくり出してしまったのである。

そして、ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずであるかのごとく扱われる。使っている人がよく分からなくても、ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。分からないから、かえって乱用される。文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な脈絡が欠けていても、抽象的な脈絡のままで使用されるのである。(同、P.22)

よくわからないけど、なんか使っているうちに意味があるものだと思ってしまうのです。「VRって何?」「Virtual Reality、仮想現実のことだよ」「カソウゲンジツ?」「そう。かそうげんじつ」「そうかあ。カソウゲンジツかあ」というわけです。それは「理性での知解」を超えているのだけれども、その理性が「カソウ」なのか「ゲンジツ」なのかも「ゆめうつつ」です。(笑)

夢現のまま映画の話しに戻ります。映画の最後の方に、仮想空間 OASIS を作った Halliday は言います。「reality is real.」。日本語にするとどうなるのでしょうか。「現実が現実的だ」?「現実的なのが現実だ」?これがスピルバーグが一番言いたかったことだと思うのですが、よくわかりません。前後の台詞を考えてみましょう。日本語訳には自信ありませんが。

I created the OASIS because I never felt at home in the real world. I just didn't know how to connect with the people there. I was afraid for all of my life. Right up until the day I knew my life was ending.

日常がリアル( real )な世界だと感じられなかったから OASIS を作ったんだよ。どうやって人とつながりを持たばいいのかが分からなかったんだ。生きていることのすべてが恐ろしかった。自分が死ぬんだと知る日までずっとね。

引きこもり老人の私には、自分のことのようによくわかります。(笑)

Now, that... That was when I realized that, as terrifying and painful as reality can be, it's also the only place that you can get a decent meal. Because reality is real.

そして気づいた( realized )のさ。現実(reality、実在 )は恐ろしくて辛いことばかりだけど、そこだけがちゃんとした食事ができる場所だとね。だってね、reality is real なんだから。

「現実がリアルなんだから。」

英語圏の人は、これでわかって感動するんでしょうね。日本の若い人たちにもこれで通用するのでしょう。つまり、「現実」と「リアル」の違いがわかっているということです。私にはわからないので、「リアルが現実なんだから」という訳でも構わない。(笑)

西洋人にとっては(たとえキリスト教徒ではなくても)、存在するものすべてが神(あるいは「ビッグバン」)が作ったものです。そして、人間は神のすべてを知ることはできない、存在のすべてを理解することはできないけれども、人間には(神に似た)理性があり、わたしたちが理解したもの・理解することができる(だろう)ものすべてが「実在(reality)」(になるの)です。「(理性的な)想像」だって、「仮想現実(virtual reality)」だって「実在(reality)」なのです。ただ、「理性(ratio、reason)、想像」を食べてもお腹が膨れない。

それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(『旧約聖書申命記』第8章3)

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 (『新約聖書 マタイによる福音書』第4章4)

人間は神を真似て、「存在」を「知解」によって「実在」にします。人間が「理性、ことば」によって作り出した存在も当然「実在」です。VRは実在 reality なのです。Halliday は自分の殻に閉じこもって、理性が作り出したもののなかに引きこもっていたのですが、そこは人とのつながりが持てない孤独な場所です。「OASIS」という「仮想空間、実在」を作り出したのは心の叫びからでした。そしてその中で生き延びようとしたのです。多分永遠に。でも、自分が死ぬことがわかって気づいたのです。現実(実在)とリアルの違いを。OASISという実在の中で生きていること(生きている自分)はリアルではないと。つまり、「死ぬ自分」「食事ができる場所」がリアルだと。

主人公は訊きます。「Is Halliday really dead? (ハリデーは本当に死んだの?)」「 Yes.(そうだ)」「Then what are you?(それじゃ、あなたは何?)」これにハリデーは答えずに去っていきます。

OASIS のすべての権限を手にした主人公は OASIS を週に2日止めることにします。彼は言います。

I know, it sounds like a weird move, but people need to spend more time in the real world. 'Cause, like Halliday said, reality is only thing that's real.

キモいって思われるかもしれないけど、人はもっとリアルな世界で過ごす必要があるからね。だって、ハリデーが言ったように、現実だけがリアルなものなんだから。

主人公はハリデーのいうことを理解したのでしょうか。私にはわかりません。主人公はお金と愛する人と友人(仲間)を手に入れて、幸せに暮らしています。孤独に逃げ込む必要はありません。彼にとっての OASIS の意味は全く変わっているでしょう。そして、彼は OASIS を閉鎖するつもりはないのです。ハリデーが自分を消したのは、それなりの気付きと覚悟があったはずです。私は、主人公にはハリデーの言葉の本意は今後もずっとわからないだろうと思います。(汗)






[スタッフ・キャスト等]

監督:スティーヴン・スピルバーグ[wiki(JP)]
製作:ドナルド・デ・ライン[wiki(JP)] スティーヴン・スピルバーグ クリスティ・マコスコ・クリーガー[wiki(JP)] ダン・ファラー[wiki(JP)]
製作総指揮:アダム・ソムナー[wiki(JP)] ダニエル・ルピ[wiki(JP)] クリス・デファリア[wiki(JP)] ブルース・バーマン[wiki(JP)]
原作:アーネスト・クライン[wiki(JP)] 『ゲームウォーズ』(SBクリエイティブ刊)[wiki(JP)]
脚本:ザック・ペン[wiki(JP)] アーネスト・クライン
撮影:ヤヌス・カミンスキー[wiki(JP)]
プロダクションデザイン:アダム・ストックハウゼン[wiki(JP)]
衣装デザイン:カシャ・ワリッカ・マイモーネ[wiki(JP)]
編集:マイケル・カーン[wiki(JP)] セーラ・ブロシャー[wiki(JP)]
音楽:アラン・シルヴェストリ[wiki(JP)]
<出演>
タイ・シェリダン[wiki(JP)]:ウェイド/パーシヴァル
オリヴィア・クック[wiki(JP)]:サマンサ/アルテミス
ベン・メンデルソーン[wiki(JP)]:ノーラン・ソレント
T・J・ミラー[wiki(JP)]:アイロック
サイモン・ペッグ[wiki(JP)]:オグデン・モロー
ハナ・ジョン=カーメン[wiki(JP)]:フナーレ
森崎ウィン[wiki(JP)]:トシロウ
マーク・ライランス[wiki(JP)]:ジェームズ・ハリデー
リナ・ウェイス[wiki(JP)]:ヘレン・ハリス
フィリップ・チャオ[wiki(JP)]:ゾウ

「AKIRA」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、「ストリートファイターII」をはじめ80年代の日米ポップ・カルチャーがふんだんに盛り込まれていることでも話題を集めたアーネスト・クラインのベストセラー『ゲームウォーズ』を、巨匠スティーヴン・スピルバーグ監督が映画化したSFアドベンチャー大作。現実世界の荒廃が進む近未来を舞台に、あらゆる願望が実現する新世代VR(バーチャル・リアリティ)ワールド“オアシス”で繰り広げられる壮大なお宝争奪戦の行方を、驚きの有名キャラクターの数々と最新の映像技術を駆使した圧倒的臨場感で描き出す。主演は「MUD マッド」のタイ・シェリダン、共演にオリヴィア・クック、ベン・メンデルソーン、マーク・ライランス。また日本からも森崎ウィンが参加。
 2045年の地球。街が荒廃する一方で、若者たちはVRワールド“オアシス”に夢中になっていた。そこでは誰もが好きなアバターに姿を変え、自分の思い描く通りの人生を生きることができた。そんなある日、オアシスの創設者ハリデーが亡くなり、彼の遺言が発表される。それは“アノラック・ゲーム”と呼ばれ、彼が仕掛けた3つの謎を解き、オアシスに隠されたイースターエッグを最初に見つけた者には莫大な遺産に加え、オアシスの後継者としてその全権を与えるというものだった。この驚くべきニュースに世界中の人々が色めき立つ。現実世界に居場所がなくオアシスだけが心の拠り所の17歳の青年ウェイドもこの争奪ゲームに参加し、オアシスで出会った謎めいた美少女サマンサら大切な仲間たちと力を合わせて3つの謎に挑んでいく。そんな彼らの前に、恐るべき野望を秘め、邪悪な陰謀を張り巡らせる巨大企業IOIが立ちはだかるのだったが…。



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