クラテュロス プラトン全集第2巻、水地宗明訳 1974/12/05 岩波書店

パイドロス(古希: Φαῖδρος、英: Phaedrus) ー美についてー プラトン著、プラトン全集第5巻 藤沢令夫訳 1974/10/04 岩波書店

名前

「名前」で思い出す歌は、ゴダイゴの『ビューティフルネーム』ですかね。「ひとつの地球にひとりずつ ひとつ」という歌詞です。「一人にひとつずつ」といえばイルカの『まあるいいのち』。「一人一人違う種を持つ」といえば、SMAPの『世界に一つだけの花』。

英語で「name」。これを「ひらがな」を「英数」に切り替え忘れてタイプすると「なめ」となります。「なめー、名前?似てるな」と思ったことがあるのは私だけじゃないでしょう。ラテン語では「nōmen(noun)」。サンスクリット語では「nāman」。古印欧語で「nómn̥.」。印欧語だけじゃなくて日本語でも似ているとすれば、「名前」を「なまえ(あるいは似た音)」と呼ぶのは人類共通だと思ったりします(笑)。もともとの日本語では「名(な)」。どうして「前」がついたのかはわからないそうです(『新明解語源辞典』)。

クラテュロス ――名前の正しさについて――

副題は「名前の正しさについて」です。

ヘルモゲネスとクラテュロスという二人の青年がソクラテスに相談に来ました。ヘルモゲネスは名家の子供だけど、正妻との子ではないらしく、貧乏だったようです。クラテュロスも田舎に土地を持っているようなある程度裕福な家の子供で、その田舎の土地を管理するためにアテネを離れようとしているところです。

どうやらヘルモゲネスは自分の名前のことでクラテュロスにいじめられているらしい。きっと「キラキラネーム」だったんでしょう。彼はクラテュロスに「いや、少なくとも君にだけは”ヘルモゲネス”が名前ではないよ。たとえ世界中の人間が君をそう呼んだとしてもね」(383,P.4)と言われました。クラテュロスの主張は、

名前の正しさというものは、それぞれの有るものに対して本性的に〔自然に〕定まっている。(383,P.4)

というものです。キラキラネームをつける親だから、子供のヘルモゲネスも自由。彼は、

なぜならば、本来それぞれのものに本性的に定まっている名前なんて、全然ありはしないのだから。むしろ名前は、それを言い慣わし、呼んでいる人々のしきたりと慣わし〔慣用〕によってできあがるものであると、このようにぼくには思えるのです。(384,P.7)

ヘルモゲネスは、名前は恣意的に付けられるものだと考え、クラテュロスは、名前はそのものの本性を表すと考えているわけです。日本のことわざで言えば「名は体を表す」ということですね。

名は体を表す?

日本語の「犬」は英語で「dog」です。名前がそのものの本質(本性)を表わしていないのは、当たり前じゃないですか。ところがソクラテスは

いや実際君のいうことにはおそらく一理あるのだろうね、おおヘルモゲネスよ。(384,P.8)

といいつつ、議論を始めます。

従って、名づける場合もーーさっき言われたことに一致するように言おうとするならばーーわれわれの欲するままに名づけるべきではなくて、事物を名づける作用と事物が名づけられる作用の本性に合うしかたで、本性にあう道具を用いて、名づけるべきではないだろうか。そしてそのようにするならば、われわれはそのことに成功し、名づけたことになるだろうが、そうでないと反対の結果になるのではないだろうか。(387,P.17)

好き勝手に名前をつけることはできるけど、本性にあったような名づけ方が正しいということです。

そして、いろいろな道具については、その道のプロが作るのがそのものの本性にあっているように、名前もその道のプロ(立法者)が付ければ正しい名前だといいます。

古典ギリシャ語大喜利

ここからソクラテスは、様々な偉人の名、神の名、太陽、月、空気、美、善、正義などの名前(固有名詞、一般名詞、形容詞など)がどのようにその本性を表しているのかを挙げていきます。それはまるで大喜利や謎かけ、古典落語を見ているようです。その見事さについては、ぜひ読んでいただきたいと思います。

ソクラテス(プラトン)の思考方法は、「ダジャレ」だった気がするほどです。ダジャレじゃなくても、思考が言葉(単語)に引っ張られることはよくあります。言葉は概念を運ぶのですが、基本は「音」なので、同じ、又は似た音価を持つ単語はお互いに意味を引っ張り合うと思います。ニュアンスというか連想というか。

絵画が絵の具で正しく描かれれば、その対象物の本質を捉えるように、

では他方、綴と文字を用いて事物の有りかた〔本質〕を写し取る人は、どうなのだろうね。やはり同じ理屈で、もしその人が事物にふさわしい〔本来帰属すべき〕ものをすべて帰属させるならば、その模写品すなわち名前はいいものとなるだろうし、もしまた少しばかりのものを落としたり、時にはまた付け加えたりするならば、模写品はできるだろうが、いいものはできないのではないだろうか。そしてその結果、名前のあるものはりっぱに、あるものは下手に作り上げられたものになるのではないかね。(431,P.145)

でも、絵や名前が対象のすべてを表わしているのではありません。

うん、とにかく、もし名前が、名前がそれの名前であるところのものに、あらゆる点でそっくりであるばあいには、後者は名前のためにこっけいな目に会わされるだろうからね。なぜって、何もかもが二つずつになってしまって、どちらが原物で、どちらが名前か、区別することができなくなるだろうからね。(432,P.148)

ベンヤミンの「複製芸術」にも繋がる話です。書かれたものと書かれる対象の関係はソシュールのシニフィアンとシニフィエの関係でもあります。それを人間は取り違えがちです。だから『何でも鑑定団』という番組もできますし、「VR(virtual reality)」などというものもできます。VRはその取り違えを楽しんでいるということでもあり、現実(実在、有)からの逃避でもあります。

他方、性質的なものと〔そのうちで今問題になっている〕あらゆる種類の模写物のばあいには、その正しさ〔正しいものであることの基準〕はそういうものではなくて、むしろ反対に、模写物を得ようとするならば、われわれは、そもそも原物であるものがもっている形質をすべてそれに帰属させる〔再現させる〕ということが、そもそも許されてすらいないのではなかろうか。(432,P.146)

名前が綴と文字による事物の表示であることを認めてはならないのだ。」(433,P.149)

完璧に原物のすべての形質(性質)を表現することは「難しい」ことなのではなく、そもそも「許されていない(できない)」とソクラテスは考えているようです。

私はこれに「存在(そのもの)」を「知る(対象とする)」ことの不可能性、ギリシア人の自然に対する畏怖の念、ギリシア自然哲学の影響を感じます。

すなわち、有ものを、名前に依ってではなくて、むしろ名前に依るよりもはるかに強く、それらをそれら自身によって学ぶべきであり、探求すべきでもあるということがね。(439,P.166)

名前、あるいは名前をつけるということは、人間が認識するということそのものに関わることです。

万物は流転するか?

では、仮にそれが不断にわずかずつこっそり逃げ去って〔流転して〕いるとするならば、いったいわれわれはそれに向かって正しい名称で話しかける〔それを正しく規定する〕ことができるだろうか。第一に、かのものであることを、それから、そのようなものであることをね。それとも、われわれが言う瞬間に、もうそれは別のものとなり、身をかわして逃げ去っていって、もはや言われたとおりのものではないことが必然だろうか。(439,P.167-168)

ヘラクレイトスのように「万物は流転している」(運動・変化している)なら、それを認識できるだろうか、という問いです。「万物流転」は平家物語冒頭の「諸行無常」で、日本人には受け入れられやすい考え方かもしれませんが、それでは認識(規定、概念化)できないだろうとソクラテスは言うのです。

いや、そればかりか、そのようなもの〔決して同一状態にないもの〕は、何者によっても認識されえないことになるだろうね。なぜなら、認識しようとする者がそれに近寄った瞬間に、それはもう別のもので別の性質のものになっているので、それがどのようなものであるのか、あるいはどのような状態にあるかは、もはや認識されえないだろうからね。そして、いかなる認識も、それが認識しようとする対象がいかなる一定の性状をももたないならば、これを認識することはないだろうからねえ。(439,P.168)

さらに、もし万物が流転するとすれば、

そればかりか、認識すら存在しないと主張するのが理屈にかなっているだろうからね。おおクラテュロスよ、もしすべての物が変化しつつあり、何ものもとどまっていないとするならばね。なぜなら、このもの自身ーーつまり認識ーーにしてからが、もしこれが認識であることから変化しないならば、認識は常にとどまっており、認識であることになるだろうからね。(440,P168-169)

そして、これの解決法をソクラテスは提示します。

しかし、もし一方において認識するもの〔認識の主体〕が常に存在しており、他方において認識されるもの〔客体〕が常に存在しており、美が存在し、善が存在し、もろもろの有るもののそれぞれが〔常に〕存在しているのであるならば、われわれ〔ぼく〕が今あげたこれらのものは流動にも運動にも全然似ても似つかぬものであることが、ぼくには明白だね。(440,P.169)

自分が認識している以上、美や善(などのイデア)は「不変」のものとして存在しています。ここでソクラテスは、「認識されるもの」も存在していると言っていますが、その目の前に存在するものは「明白に」変化しています。前者を「イデア界」、後者を「現象界」と呼ぶとすれば、これはカントの「現象界・叡智界」、仏教における「色・名」、「物質(肉体)・精神」、「客体(対象)・主体」、あるいは「この世・あの世」など(メチャクチャだ)、さまざまな(哲学的・認識的)問題となります。

最後にソクラテスは言います。

というわけで、おおクラテュロスよ、事実はもしかしたらこのとおりかもしれないし、もしかしたらそうでないかもしれない。だから君は、勇敢にそして十分に考察しなければならないのだ。安易に受け入れてはいけないのだ。(440,P.170)

クラテュロスは、

そう致しましょう、おおソクラテスよ。しかしあなたも、次はいよいよこの問題を考えてくださるよう、なお努めてください。(440,P.170)

と言って旅立っていきます。

プラトンの著作をいくつか読みましたが、ソクラテスが相手を納得させないで終わる、あるいは相手が逃げ出さないで(?)終わるのははじめてです。『クラテュロス』はプラトンの初期作品群に属するという説が有力(訳者解説、P.424)なので、まだ「イデア論」が成熟していない時期の作品と言えるかもしれません。

言語学?

私が不思議なのは、ソクラテスが「ことば」の話を「綴」つまり「文字」の話と同一次元で語るということです。音韻論とすれば「言葉」「発音」の話ですが、それを綴りで話すと文字の話になります。

ソクラテスが文字に否定的だったことは有名です。

じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は、絵画の場合と本当によく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それは、あたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。(中略)それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。(『パイドロス』プラトン全集第5巻、P.257)

古典ギリシアにおいて文字が重要視されなかったことについて、ブチャーは

もしギリシア人がエヂプト人のやうに觀念を象徴する文字の術を作り上げて行つたならば、書くことは話すことと同じく藝術の一種となり、從つて尊敬されたであらう。自然的であつて傳習的ではなかつたであらう。さうして口言葉と字言葉との關係が、いな等價さへも、明らかとなつてゐたであらう。言葉と觀念との間に必然の聯絡があるといふことは、ギリシア思想家のある一派によつて主張された。名はその現はす事物の精密な模像、音を以つてする模倣だ、ーー音と意味との一致は完全だ、と考へられた。しかし、思想の表現としての繪言葉の説はしばしば認識されたけれども、書くことそれ自身が、本來は對象物の藝術的模倣であつた繪符號から來たかもしれないといふことは、ついぞギリシア人の心には浮かばなかつた。彼らはポィニーケー人から、その意味は容易に解らず、その使用法は機械的で、その他との關係は最初殆ど純粹に商業的であつた一揃への出來あひの符牒を、型になりきつた文字を受けとつた。從つて、書かれた文字は彼らにとつて最初から功利主義の印號を捺され、藝術からはできるだけ遠ざけられた。(ブチャー著『ギリシア精神の様相』岩波文庫 1940/12/14、P.159-160)

(対象としての)存在と観念とのあいだに言葉があり、言葉と観念とのあいだに(もしくは言葉と対象とのあいだに)文字が入り込みます。

わたしたちは、文字でなにかを理解することに慣れています。感情を文字で動かすことにも慣れています。映画やニュースだけでなく、バラエティー番組で様々な装飾を凝らしたテロップが表示されることで、恐れたり、怒ったり、笑ったりする感情が増幅されます。

葬儀での「泣き女」や、バラエティー番組の「観客の笑い声」はBGM同様に制作者(主催者)側の「意図」を伝えるものです。「ここで泣け」「ここで笑え」という意図です。

最近本を読んでいて、私は頭の中で結構文字を音で読んでいるんだなあ、と感じます。みなさんはどうでしょうか。特に「読めない漢字」が出てきたとき、アルファベットが出てきたときです。「音」といっても実際の音ではありません。そう思うのは、小説や漫画で読んだ作品が映画やドラマになると違和感を感じることで明らかです。

それじゃあ、言葉は音なのかというとよくわからないのです。ろう者(中途障害者はわかりません)が手話で会話している時に、音を介して意思疎通しているとは思えません。音を介さない意思疎通(読書)は、「当たり前」のことではありません。中世まで、聖書はラテン語で「子音のみ」が書かれていたと聞いたことがあります。当時は「読む」というのは「声に出す」ということでしたから、読み手はつねに母音を挿入しながら読んでいました。「黙読」はずっとあとの習慣です。ところが文字が音であることが当たり前になると、自分が音で読んでいるかどうかがわかりづらくなるのではないでしょうか。それは、英語を聞いた時にそのまま理解することと、それを日本語に直してから理解することの違いと似ている気がします。私が思いつくのはそれくらいです。

その違い、というか思い込みは「言葉は意識そのものを表している」という「思い違い」に通じ、「文字は言葉そのものを表している」という「思い違い」になります。

SNSが原因といわれている事件で、「ネットワーク社会の弊害」と言うコメンテーター(識者)がいますが、彼は「ラブレターで思いが通じた」という経験がるのでしょうね。SNSでも手紙でもいいのですが自分の思いを客観化できる(可能性がある)という思いは、名前がそのものの本性(本質)を表すことが出る(可能性がある)というソクラテスの思いと同じではないでしょうか。

イデアは有る(存在する)のか

文字や言葉を介入しなくても、対象をそのまま意識に反映することが可能でしょうか。言葉を文字(綴り)で考えるということは、「認識の対象を固定できる(同一性)」ということです。つまり、静止させる事が可能であることと同じです。プラトンのイデア論、それを批判しつつ精緻化したアリストテレスの論理学もその前提に立っていると思います。

ソクラテスは美や善とともに「具体的な花(という対象物)」も認識可能なので、それは不変なものとして捕えられると言わなければなりませんでした。

でも、「美しい具体的な花」の他に「花の美しさ」というものを対象とすることは、神を思考の対象とすることと同じで、心象(心のなかに浮かんだもの、想像したもの、感覚したもの)を「対象そのもの」と勘違いすることだと思います。

物数を極めて、工夫をし尽くして後、花の失せずところを知るべし」美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はさう言つてゐるのだ。(小林秀雄『当麻』筑摩書房 日本文学全集42 「小林秀雄集」 1970/11/01 P.366)

私はいつも「少女の可愛らしさ」を絵にしたいと考えています。でも描けるのは「可愛らしい少女」だけです。有名な画家の絵から「女性らしさ」や「戦争の悲惨さ」が伝わってくることも知っています。でも、それは犬にとっては「絵の具の塊」でしかありません。「テレビに映っている人間」は「人間」ではありません。テレビで放送されている事件は「事件」ではありません。書物は「紙とインクのシミ」です。

そこに「人生の教訓」を見出したり、感動したり、欲情したりするのは、そういう「文化」の中にいるからにすぎません。私にとってサンスクリット語で書かれた本からは何も得られないのは、私がサンスクリット語を読めないからにほかならず、遠近法で書かれた2次元の絵に奥行きを感じるのもそういう文化で育っているからにすぎません。

松尾芭蕉の俳句は、なんとなくわかります。「古池や蛙飛びこむ水の音」という17音の俳句は私に「ある情景」を呼び起こします。日本の湿気の多い気候で、草木の中に古い池があり(多分農薬の影響はない)、そこにカエルが飛び込む音です。たぶん、人の声はありません。私は夜の静けさの中での一瞬の出来事のような気がします。季節は夏かな。でも、夜は涼しい空気が充満しています。湿気を含んで重たい気がします。草木も空気も。「静寂」ではないかもしれません。ほかのカエルがゲロゲロ泣いているかもしれません。でも、聴こえるのは一匹のカエルが飛び込んだときのチャポンという音なのです。人によって、その情景は異なるかもしれませんが。

芭蕉の俳句を英語に訳することはできるでしょうか。17音節では無理でしょうが、古い池にカエルが飛び込む音がするという説明はできると思います。でも、心に思い浮かぶ情景は違うと思います。砂漠に暮らす人には情景が思い浮かばないかもしれません。思い浮かべたとしても砂漠のオアシスですね。でも、どの国のどの文化の人も同じ情景が浮かぶことが可能だ、浮かぶはずだ、浮かぶべきだ、とするのは傲慢だと思います。でも、それがイデア論ではないでしょうか。

イデア(概念)と具体化

さまざまな「美しい花」から「花の美しさ」を導き出すのは、わたしたちが数学でその名を習った「帰納法」です(「数学的帰納法」とは別物です)。そして、その「美しさ」が個々の花を美しくしていると考えるのが(のちの)「演繹法(演繹的思考)」です。前者はイデア界に近づく上昇的思考(アリストテレスの ἐπαγωγή、ἐπί 上へ+ ἄγω 導く)で、後者は現実界に向かう下降的思考(キケロの deductio、de 〜から +duco 導く)というのが、私のイメージです。上昇的思考で得られるのは、「イデア」であり「(抽象的)概念」あるいは「類」です。下降的思考はユークリッド幾何学に象徴的なように、最初に定義・公準・公理があって、そこからさまざまな命題(定理)を導き出します。同じ図式は、法が定められ、それがさまざまな事案に適用されることにも見いだせます。科学はさまざまな観察や実験から法則を導き出しますが(帰納)、次にその法則を具体的な事例に適用します(演繹)。還元主義と言われるものもこの図式です。それは全体を部分に分解し、部分を理解すれば全体が理解できるというものです。

これら(帰納・演繹)は古典ギリシアでプラトンやアリストテレスが用いた用法と、それがローマに伝わった後、更にキリスト教の影響をうけた中世を経て、近代まで伝わる中で、様々な変化があったようです。私は勉強不足で誰がどういう意味で使ったかはわかりませんが、ともかくもそういう上昇と下降の図式が現代まで続いることは間違いありません。そして前述の「精神・物質図式」というのは、この上昇下降図式の中で生み出されたものです。

それらはイデア論で象徴することができます。例をあげます。様々な女の子から「女の子の可愛らしさ」というイデア(形相)を帰納したとします。個々の女の子は見ることも、さわることも(怒られるけど)できます。ところが「女の子の可愛らしさ」は見ることも、さわることもできません。それが具体的な「ある女の子」として表現した途端に、イデア(形相)ではなくなります。なぜなら、それ以外の女の子は「ある女の子」とは異なるのでイデア(形相)ではないからです。全体を社会とします。それを個々の人間に分解した時に、個々の人間には社会というイデア(形相)は存在しません。

ある小説の登場人物の声は誰の声でもないイデアなのです。だから、それが具体的な音としてある訳者が演技をした途端に「誰かの声」になってしまって、イデアではなくなってしまいます。

イデア(形相・概念)と具体的な事物との間の溝は決定的です。前述の対象と文字と言葉と観念との「あいだ(距離)」というのは決定的です。その「あいだ(距離)」を乗り越えるために「帰納・演繹」を使うのですが、「帰納・演繹図式」そのものがその「あいだ(距離)」を作り出しているのです。「帰納・演繹図式」は「観察・考察者と観察・考察されるもの(対象)」つまり「主体・客体図式」に収斂します。「あいだ(距離、溝、壁)」の正体は「人間と自然」「我と汝」のあいだの絶対的空間なのです。つまり、私があなたを「あなた」とし、あなたが私を「あなた」とする限り、乗り越えられない空間です。

ソクラテス・プラトンはわかりやすい

ソクラテス・プラトンは理解しようとすれば、つまり考察の対象とするならば、とてもわかりやすいのです。「むずかし」といえばむずかしいのですが、読めばわかります。解説書もたくさんあるので、それを読めばわかります。もしわからない部分があるとすれば、それは「時代(歴史)」のせいで、『源氏物語』の難しさと同等のものです。

なぜわかるのかといえば、思考方法が同じだからです。自分と対象とを作って考察するという方法が同じだからです。「哲学はむずかしい」「数学がわからない」「科学の専門は分からい」などと言われます。それには様々な理由があるでしょうが、同じ方法で考えていることに変わりありません。

そして、そのような思考方法を撮っている限り、自分を含めた自然のことは決してわかりません。私は決してあなたを理解できないし、あなたも決して私を理解することはできません。

だから、「愛」だとか「慈悲」だとか「思いやり」だとかをお互いに叫ばなければなりません。それらが何なのかは決してわからないけれども、否定してはいけない(なくしてはいけない)大切なものだと考えるようにえるように教えられてきたから。そう考えるのが「正しい」こと、「正義」だと教えられてきたからです。そういう図式が支配的な社会に生まれ育ったからです。

いまソクラテス・プラトンを読む意味は2つあります。一つは、この「主客図式」を自分の身に叩き込むため。もう一つは、その「主客図式」が引き起こした現代社会を、「主客図式」と捕えて、「別の社会」「別の思考方式」を思い描くためです。

そんな事は考えられない、とも思います。現代社会は人間が到達した頂点だとも思いたくなります。でも、それは「自分」が最高だと思うことで、西洋近代社会が最高だと思うことで、人間が最高だと思うことです。それはとても傲慢なことだし、それで困っている他者、発展途上国、未開人、破壊される自然を見ないふりをすることだ、と私は日々反省しています。

私はソクラテスがクラテュロスを論破できなかったことこそが、ヒントになるような気がしています。







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