一人称単数 村上春樹著 2020/07/30 文藝春秋

一人称単数 村上春樹著 2020/07/30 文藝春秋

『街とその不確かな壁』の前に

村上春樹が6年ぶりの長編描き下ろし小説を出して話題になりました。『街とその不確かな壁』です。

村上は私が唯一古本ではなく新刊を新品で買う小説家です。でも、6年前と違い、今は僅かな年金で生活している身。新品は諦めました。彼の本は売れるので大量に古本屋に出回ります。ちょっと待てば100円(税込み110円)コーナーにも並びます。なにせ、時間だけはたっぷりある身の上です。(笑)

でも、100円(税込み110円)になるまで結局待ちきれませんでした(今でもAmazon中古で2,458円(送料350円)です)。たまたまイリイチの『H2Oと水』を読んだところだったのですが、そこにこんな記載があります。

都市となる土地の周囲に轍をつけることによって、創建者は内部空間を知覚可能なものとし、境界を設けることで外部空間を排除し、後に壁が築かれる場所で2つの空間の結婚を司る。(伊藤るり訳、新評社、P.40)

近代都市の住人に「物質としての空間」という感覚を思い起こさせるのは至難の業である。かれらは空間を「素材」として感じとることができない。(同書、P.42)

アリストテレスになると、空間はもはやそのような「素材」として理解されなくなる。プラトンの「容器」(hypdechomene)は、アリストテレスによって、存在の論理的な四つの「原因」の一つと化し、「質料(hyle)」と同一視されてしまう。アリストテレスは、西洋の空間知覚の最終的な土台、すなわち容器としてではなく、広がりとしての空間認識を築いた。アリストテレスとともに、「イデアとしての都市」は法的虚構となるのである。(同書、P.46)

つまり、都市というのは一つの「容器(物質としての空間)」で、そこには外界とを区切る「壁」が存在していたのです。それを「広がり」としてのみ捉えると、その壁は「見えなくなる」、あるいは「乗り越え可能」なものになってしまうのです。

「壁」という小説で私が思い出すのは、安部公房の作品です。その作品では主人公が「名前」を失うのですが、この村上の短編集の中の「品川猿の告白」と共通点があります。その辺は別稿で。

名前は「自我」を形づくる核とも言えるものですが、都市の壁は自我の壁でもあります。ヴァナキュラーなもの、あるいは共同体(コモン)と外界を隔てるものが都市の壁、自我(パティキュラーなもの)と他者(自然、対象物)を隔てるのが人格の壁(仮面、ペルソナ)です。仮面はこの短編集の「謝肉祭(Carnaval)」に出てきます。

「僕」という「主人公の視点」から語られる村上作品において、常に問題となるのがこの「自我の壁」です。

「一人称単数」という人称代名詞

日本語の特質として、「主語がない(「I」は存在しない)」ということは多くの日本語学者が(賛否を含めて)語っていることです(金谷武洋著『日本語は敬語があって主語がない』光文社新書、鈴木孝夫著『日本語教のすすめ』新潮新書、など参照)。

「一人称単数」とは、まさしく「僕」、つまり「I(ego、自我)」のことです。『街とその不確かな壁』を買おうかどうか迷っていて、Wikipediaを見てこの短編集を発見しました。買わずにいられるでしょうか(笑。ちなみに、この本はAmazonマーケットプレイスで103円+送料290円で買いました)。

印欧語(のうちの現代英語などの言語)は「I」という「唯一無二」の「分割されえない個人(Individual)」を絶対的な中心として世界を見ていました。その中心から同心円的に「家族」「地域社会」「国家」「世界(地球)」・・・を観ていました。そんな中で「地動説」は「天地がひっくりがえるような」視点の変化だったのです。それにもかかわらず、その後も自国民中心主義や白人中心主義などが幅を利かせました。いまでも、「先進国」が「世界」だ、という考えは続いています(今でも「国境」という「壁」を作って戦争をしています)。

「私が唯一(一つ)だ」という考えに変化を与えた20世紀の思想の一つがフロイトの「無意識(あるいは超自我)」という考え方です。「私(「我思う故に我あり」の我)」という「理性的(である、であるべき)」私の存在が私じゃないものに支配されているということは、西欧の人々にとっては社会(文化)のあり方の根本原理に反するものです。

日本人にとっては、汎神論と仏教の輪廻の思想が混ざりあったものがあり、元々「自我(一人称単数)」などというものがなかったので、「無意識」という考え方は受け入れられたような気がします。それよりも「アイデンティティ」という考え方のほうが違和感があったのではないでしょうか。

この本の帯に、

短編小説は、ひとつの世界のたくさんの切り口だ

とあります。『一人称単数』というタイトルと一緒に見ると、「それぞれの短編は登場人物や設定やストーリーに違いはあるが、それぞれが「私(あなた)」なんだ」、あるいは「村上春樹なんだ」と読むことができます。

短編小説集

帯に「6年ぶり」とあります。村上の短編集として「6年ぶり」ということです。私にとっては『騎士団長殺し』以来5年ぶりの村上春樹です。最初の文章は、

ここで語ろうとしているのは、一人の女性のことだ。とはいえ、彼女についての知識を、僕はまったくと言っていいくらい持ち合わせていない。名前だって顔だって思い出せない。(P.7)

これだけで、「村上春樹臭」がプンプンです。すぐさま彼の世界にのめり込みました。

小説にはまったくと言っていいほど興味がない私がどうして村上春樹にハマったのか。村上春樹風に書いてみます。

彼女のことはよく思えていない。きっと彼女も僕のことは憶えていないだろう。どうして彼女と出会ったのかも非常に曖昧だ。当時、僕は若くてまだ結婚もしていなかった。S*市に泊りがけで出張に行った時、彼女のアパートに泊まった。酔っていたんだと思う。普段、女の子と話もできない僕が、その時はかなり強引に彼女に迫った。それは彼女が可愛かったせいではない。むしろ逆だ。そうでなかったし、酒の勢いもあって関係を迫ったんだと思う。彼女の中に何かを感じていたのかもしれない。(もちろん若かったせいもある。)

彼女は少し嫌がっていたが、結局はセックスをした。初めて会った男とセックスをするような女の子には見えなかったし、多分そういう子ではないと今でも思っている(嫌がっていたのは女の子特有の「ふり」かもしれない)。

セックスのあとベッド枕元の小さな棚に文庫本が並んでいるのをみつけた(それまで気付かなかった。僕にそんな余裕があったわけがない)。

「本が好きなの?」僕には彼女が本が好きな女の子には見えなかった。

「この作家だけ。面白いのよ。」「ふーん。」

小説にはまったくと言っていいほど興味がない僕には「村上春樹」という名前すら聞いたことがなかった。

「この本あげる。」と言って渡されたのが『風の歌を聴け』だった。

家に帰ってからその本を読んだのだが、これが面白い。当時出版されていた文庫本をすべて買い、さらに単行本にも手を伸ばした。新刊が出るのを心待ちにするようになった。作品集以外はほぼ読んでいると思う(『アンダーグラウンド』だけは棚に飾っているだけだが)。

村上春樹の世界が大好きだ。僕の世界と同化しているとさえ言えるかもしれない。僕の経験(あるいは妄想)が村上春樹の作品とどこかリンクしていることは、この彼女との出会いからでも分かると思う。

そのあと、彼女と会うことは一度もなかった。本のお礼をしただろうか。それも憶えていない。僕と同じくらいの歳だったから、もう孫がいてもおかしくない年齢だ。今思えば、彼女は「村上春樹の世界」にいたのかもしれない。僕と寝たのも「村上春樹の世界」を生きようとしていたからかもしれない。

彼女は今でも「村上春樹の世界」にいるんだろうと思う。買ったばかりの『街とその不確かな壁』を抱えて。そして『風の歌を聴け』がなくなった本棚を見つめているような気がする。

「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPを抱えていた美しい少女のように。

誰もが経験するような、経験していなくてもそう思い込むような村上春樹の世界は、私の世界とシンクロしている、と私には思えます。その世界では自殺する人が多いのですが、主人公が自殺する作品は思い出せません。私自身は精神を病んだことがあるし、何度か自殺未遂をしたことがあります。村上春樹がどうなのかはわかりません。ジャズを聞き、美味しい酒を飲みながらも、「健康的な生活」をしていると聞いたことがあります。そうしなければ小説を書く体力ができないと。

だから、私は「僕」ではなく、村上春樹の小説の脇役なのかもしれません。そういう私から見る「村上春樹の世界」は一般的な評論とは違っているようです。

他者を理解するということ

でも「ときどきは男の人に抱かれたくなる」というのが、女性にとって具体的にどのような気持ちの状態であるのか、その頃の僕にはうまく思い浮かべられなかった(考えてみれば、今だってあまり理解できていないような気がするけれど)。(P.13)

女の子(女性)のことはわかりません。わかろうとどんなに思ってもわからないのです。「僕」は理解しようとし続けます。でも、どこか「理解できないんじゃないか」と諦めているところがあります。それは「理解できない」という自分が許せないからです。

女の子だけじゃなく、「他者」や「社会(世界)」が理解を超えていると認めています。だから、「理不尽」で「不可解」な出来事を受け入れます。どこか「諦めている」のです(これを「覚めている(冷めている)」と言うのは間違いでしょう)。「僕」はそうやって「自分を許していく」ことができなければ生きていけないのです。許すことができなかったのが村上作品の中の「自殺した人たち」なのではないでしょうか。自殺というのは「先鋭化した自我」にほかなりませんから。

これはとても日本的な発想だと思います。明治に日本に流入してきた「個人(自我)」と日本人は闘い続けてきました。夏目漱石の登場人物も同じです。「坊っちゃん」は「江戸っ子気質」なのではありません。彼が体現しているのは「個人」そのものです(我を通す、正義感、自由気まま、わがまま)。だから、他の登場人物と衝突します。その衝突は主人公に内在化して激しくなっていきます。それが明確に現れるのは「妻(女性)」との関係です。漱石は「則天去私」という一種の「諦念」の境地に向かいますが、その弟子の芥川龍之介は自殺する道を選びます。漱石と「僕」は似ているのかもしれません(龍之介は脇役?)。

希望か絶望か

「個人」として現れた「近代西洋的自我」も「他者(女性)」を理解しようと闘いました。でも、他者を認識や考察の対象とするとき(自我を対象とするときも同じだけど)に、そこに「壁」が生じます。対象は決して主体(自我)ではないからです。自我と対象をアリストテレスのように「広がりとしての空間」として捉えると、その「壁」は「論理的に」乗り越えることが可能なものとなります。「乗り越えられる」という確信のもとに、「絶対に諦めない」か「絶対に負けるけど希望を持つ(絶望)」かの選択が迫られます。その「絶対的な希望」(大きくても小さくてもいいけど)がなければ「個人という自我」は成り立たないのです。

「後ろめたさ」

その希望も絶望も「認める」わけでもなく「拒否」するでもなく「僕」は生きています。村上作品には「結末」がありません。その希望も絶望もない世界が多くの日本人の共感を呼ぶのだと思います。作者は「事実(こと)」を提示し読者の感情を励起させる。そしてその解釈は読者に委ねる、そういう「余白」が村上作品の魅力です。「僕(あるいは村上春樹)」は、そうやって生きていること(そういう小説を書くこと)に対する「後ろめたさ」を常に抱えています。

僕も小説を書いていて、彼と同じような気持ちを味わうことがしばしばある。そして世界中の人々に向かって、片端から謝りたくなってしまう。「すいません。あの、これ黒ビールなんですが」と。(中略)さあ、チームが勝つことを祈ろうではないか。そしてそれと同時に(密かに)、敗れることに備えようではないか。(P.149)

後ろめたさ?どのように表現すればいいのだろう・・・それは自分の経歴を粉飾して生きている人が感じるであろう罪悪感に似ているかもしれない。(P.222)

「嬉しさ」と「誇らしさ」と「寂しさ」

村上作品には音楽、酒、服装が細かく出てきます。それは情景描写であり人物描写です。ロックなどのポピュラーミュージック、ジャズ、クラシック・・・。それらは感情表現でもあります。私はジャズもクラシックも、(ビール以外の)お酒もわからないのがとても残念です。

「謝肉祭(Carnaval)」のシューマンのピアノ曲は、物語の重要なアイテムですが聴いたことがありませんでした。いま Kempff のCDを聴いています。とても面白い曲です。この本を読んだあとに聞くと、細切れのフィルムのごとくに様々な仮面の人物が目の前に飛び出してくるように感じます。カーニヴァルの雑踏が感じられます(実際のカーニヴァルは見たことがないけど)。

私たちは誰しも、多かれ少なかれ仮面をかぶって生きている。まったく仮面をかぶらずにこの熾烈な世界を生きていることはとてもできないから。悪霊の仮面の下には天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔がある。どちらか一方だけということはあり得ない。それが私たちなのよ。それがカルナヴァル。そしてシューマンは、人々のそのような複数の顔を同時に目にすることができたーー仮面と素顔の両方を。なぜなら彼自身が魂を深く分裂させた人間だったから。仮面と素顔との息詰まる間に生きた人だったから。(P.171)

仮面はラテン語の「persōna」。役者がつけるお面や、役柄のことです。「人格(personality)」と言うのは元々「一つ」ではなかったのではないでしょうか。それがいつしか(たぶんキリスト教とともに)「唯一絶対」のものになった。そしてフロイトはその仮面には「下(基、もと)」がある、と言ったわけです。日本には「建前と本音」(土居健郎著『表と裏』参照)という言葉があるので、人間には色々な顔があることは初めから自明ですが、西洋人には理解できないようです。

村上春樹が用意するそのような様々な小物は、「自分はこんな事も知っているぞ」という私のような小者の自慢ではなく、それを提示することによって「共感される」(「する」ではない)ことを願う、「寂しい自我」の思いがあります。もちろん、それは自分が生きてきた証であり、それを提示することができた(生きてきた)自分というものに対する「誇らしさ」はあるでしょうが。

自分が共感されないことに対する「寂しさ」は、共感する人が現れた「嬉しさ」を「言葉やロジックで解き明かすのはまず不可能」(P.159)な直感的な(身体的な)ものにします。

「若さ」と「老い」

僕は黙って彼女の髪を撫でた。でも嫉妬深いというのが何を意味するのか、それがどのようなところからやって来て、どのような結果を生み出すのか、当時の僕にはまだうまく想像がつかなかった。そんなことより、自分の気持ちのことでとにかく頭がいっぱいだったのだ。(P.87)

私にも若い頃がありました。何歳か年上の人はとても大人に見えたし、「若い」ことを理由にして色々周りに迷惑をかけていました(汗)。過去の自分を振り返ることもほとんどありませんでした。そしてなによりも「未来がある」ことを信じていました。年寄を見ると「役に立たないな」、いや、「汚いなあ」とすら思っていました。そして「自分はああはなりたくない」と思っていました(歳を取る前に死のうと思っていた)。それが自分の未来の姿だとは、いささかも思っていなかったのです。いざ自分が老人と呼ばれる年齢になった時、若いときの自分がなんて傲慢だったんだろうと初めて思ったのです。

昔の出来事を思い出すことも少し増えてきました(日々忘れてきたことも多いのですが)。今でも顔が赤くなるようなことがあります。思い出すのも嫌だと思うようなことは、なかなか忘れられません(笑)。昔知っていた女の子を思い出すこともあります。片思いの女の子ばかりです(学生時代は彼女が一人もできなかった)。その女の子は(私の中では)みんな学生の頃のままです。

歳をとって奇妙に感じるのは、自分が歳をとったということではない。かつては少年であった自分が、いつの間にか老齢といわれる年代になってしまったことではない。驚かされるのはむしろ、自分と同年代であった人々が、もうすっかり老人になってしまっている・・・とりわけ、僕の周りにいた美しく潑剌とした女の子たちが、今ではおそらく孫の二、三人もいるであろう年齢になっている事実だ。(P.73)

村上春樹も髪が白く(ひげも白く)なっています。鏡に映る私も、彼と同じくらい頭もひげも白くなっています。

私の今は、過去の自分と対決する日々です。作り上げたものを壊していくのは、結構つらいことです。最近作ったものより、過去に作ったものを壊すのがとても大変です。自分の「核」に近づくにつれて、その核が思考を押し戻してくるのです。ちょっと気を抜くと、最近の苦労が白紙になってしまいます。

なぜそんなに壊すのか(闘うのか)、それは「夢」があるからです。過去の自分は壊しても、昔からの夢だけは壊したくないのです。

夢が死ぬということは、ある意味では実際の生命が死を迎えるよりも、もっと悲しいことなのかもしれない。ときとしてそれは、ずいぶん公正でないことのようにさえ感じられる。(P.74)

夢をなくしてしまえば、あとはただ生きたぬいぐるみのように生きるだけのような気がします。それが家族のためにはいいのかもしれませんが。

父のことをよく思い出します。自分の一挙一動がだんだん似てきた気がしています。生きている時は何も思わなかったのに、自分の行動や発言が父と同じに思えてきて、「あの時、こんな気持だったんじゃないかなあ」と「分かってしまう」のです。若い頃思っていた「お茶を啜りながら日がな一日庭を見ている老人」なんて幻想なんじゃないかと思います。少なくとも私の父は違っていました。そして、私は父より若く死ぬ(ボケる)と思っています。無限の未来はありません。ただ「いつ来るかわからない自分の限り(終わり)」に怯えて、焦っているのです。

無神論者だった父は、晩年『法華経』を読んでいました。私もそろそろ読んでみようかな、と思っています。

選択

私にこれまでの人生にはーーたいていの人の人生がおそらくはそうであるようにーーいくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした(一方を選ぶ明白な理由が存在したときもあるが、そんなものは見当たらなかったことの方はむしろ多かったかもしれない。向こうが私を選択することだって何度かあった)。そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているはいったい誰なのだろう?(P.225-226)

(「一人称単数」は「僕」ではなく「私」となっています。)

私はこれ同じような詩を読んだことがあります。著作権や作者の個人情報のこともあるので引用はしません。「いままでいくつのドアを開けただろう。その時どきで迷って、選んできた」というような内容の詩です。

その作者は、私の学生時代のあこがれの人です。卒業してから一度も会ったことはありません。噂で彼女が結婚したこと、子供ができたこと・・・などは知っていました。その詩はある地方の同人雑誌に載っていたのをたまたまネットで発見したのです。彼女は私の人生の中で唯一「鈴を鳴らした人」(「ウィズ・ザ・ビートルズ」)です。

私は「この道を進めば、きっとあの子に会える」と思い続けて生きてきました。その詩を発見した時、心が踊りました。そして「絶望」とも言うべき気分になりました。その詩はこう終わっていたのです。

「いまが一番好き」

不確かさ

まるで投げたことを忘れていたブーメランが、予想もしないときに手元に舞い戻るみたいに。(P.59)

もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。(P.183)

私は「論理的」で「合理的」な思考と行動を心がけてきました。論理的であることが近代西洋的自我の核で、その周りに「個性」がまとわりつき、「自由で平等な個人」が完成すると思っていたからです。

ところが、個人が完成するどころか、「私」を理解することもできません。自己が「不確か」なだけじゃなく、私にまつわるすべての物事が「不確実」なのです。

愛することと好きになること

先に「共感される」という言葉を書きましたが、これは「共感する」の受動態ではありません。それが明確に現れるのは「愛」です。愛は明確な主体(「I」、洒落です)が必要です。「愛する」にしても「愛される」にしても、行為があってその主体があります。愛は「する」ものであって「ある」ものではありません。これに対して「好きだ」は「好きである」ということなので、「ある」ものであって「する」ものではありません。好きになってしまう、そういう状況が生じてしまうということです(「共感」もしようとしてするのではありません)。

西洋的自我は、それ自体で(仮初めでもいいから)「完結」していなければなりません。それはライプニッツのモナドに象徴的なように「窓(隙間)」はありません。でも、それでは「他者」と関わり合うことができないのです。他者と関わるためには、自我の崩壊の危険性を犯してその外周を乗り越える必要があります。その能動的・意識的な乗り越えこそが「愛する」という行為なのです。

それに対して「好き」というのは、草木や山や川と同じように「あるもの」「おのずから現れるもの」です。ですから、もともとそれは「人知を超えたもの」「コントロールできないもの」「不確実なもの」です。私には「愛」という言葉はどうもしっくり来ません。人を(女の子を)「好き」になったことはあります。明確に言えます。でも、「愛したことがあるか」と聞かれると、明確には答えられません。むしろ「私は人を愛せない人間だ」と思ってきました。今の学生はどうなんでしょうか。「愛は地球を救う」とか「そこに愛はあるんかい」とかいうような言葉がなんの違和感ももたれず巷にあふれています。きっと私とは感覚が違うのでしょうね。

戦前は「家どうしが決めた結婚」が当たり前でした。家制度が崩壊しても半世紀前までは「お見合い結婚」が当たり前でした。それが今では「恋愛」が結婚の前提のように思われています。人々は「恋愛」を求めて人生のうちの膨大な時間を費やしています。「愛する人が見つからない」こと、「恋愛できない(恋人ができない)」ことが若い人たちにとっては大問題です(「出会い系サイト」も大はやりです)。テレビでは毎日何時間も(どのチャンネルでも)恋愛ドラマが流されていて、恋愛することが強迫観念にすらなっているのではないでしょうか。

でも、今の若い人にとっても意識的に(意図的に)、あるいは能動的に「愛する」ことは難しいのではないでしょうか。

中心がいくつもあってしかも外周をもたない円

同調的で相互監視的で「お上」の意向にことさら弱く従順

「島国根性」「日本人気質」

民主的改革が不徹底

・・・「世界一「陰湿で心が狭い」日本人が、自ら小売店を殴り殺す ーー中途半端で封建的な残念すぎる国民」(古谷経衡、プレジデント Digital、2020/05/12)の文中の言葉

戦後の民主教育を受けてきた私は、そういう日本人気質が大嫌いでした(「忖度」なんていう言葉は私の辞書にはありませんでした)。今でも「皆んながやっていること」には(とりあえず)逆らおう、と咄嗟に考えてしまいます(笑)。でも、近代西洋的な民主主義が「絶対に正しい」などというのは、単なる思い込み、あるいは「信仰」ではないでしょうか。「民主主義国」と言われる先進国が行った二つの世界大戦、今でも行っている「後進国」に対する搾取、「新自由主義(Wiki)」と言われる「万人の万人に対する闘争(Wiki)」は、近代民主主義の帰結だと私は思います。

そして、それは「私(自我、ego)」という「一つの中心を持つ外周のある同心円」構造がもたらしたものです。文学作品においても、主人公はその外周(壁)を「冒険」して「愛」によって乗り越えるのがテーマです。

村上作品においても、その外周(壁)を乗り越えようという「もがき」がテーマになっています。でも、「僕」はその壁が乗り越えられるものだとははじめから思っていないのです。乗り越えられないからこそもがくのです(『黒の舟唄』が思い出されます)。「愛」もテーマになってはいますが、私と同様、「僕」は「自分が愛している」ということに確信を持っていません。そこにあるのは、常に「不確かさ」です。私は、村上春樹には西洋的自我に基づく「(人類)愛バンザイ」のノーベル文学賞なんかとってほしくありません。

そして今でもまだ、何かがあるたびにぼくはその特別な円について、あるいはしょうもないつまらんことについて、そしてまた自分の中にあるはずの特別なクリームについて思いを巡らせ続けているのだ。(P.48)

さて、これから『街とその不確かな壁』を読みましょうか。






[著者等]

村上春樹[wiki(JP)]

HARUKI MURAKAMI was born in Kyoto in 1949 and now lives near Tokyo. His work has been translated into more than fifty languages, and the most recent of his many international honors is the Hans Christian Andersen Literature Award, whose previous recipients include J. K. Rowling, Isabel Allende, and Salman Rushdie.

6年ぶりに放たれる、8作からなる短篇小説集

「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか? 「一人称単数」の世界にようこそ。

収録作
「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「『ヤクルト・スワローズ詩集』」「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」(以上、「文學界」に随時発表)「一人称単数」(書き下ろし)



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163912394]

シェアする

フォローする