影をなくした男 シャミッソー著 池内紀訳 1985/03/18 岩波文庫

影をなくした男 シャミッソー著 池内紀訳 1985/03/18 岩波文庫

Adelbert von Chamisso : Peter Schlemihls wundersame Geschichte 1814

「wundersame」妙、ふしぎな、奇跡的

「Geschichte」歴史、歴史書、物語、事柄、できごと、恋愛関係、アバンチュール

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著者のシャミッソーは、フランス生まれのドイツ人。1789年のフランス革命で没落した貴族の生まれで、ドイツで暮らしたようです。フランスにいてはドイツ人、ドイツにいてはフランス人という「根無し草」のような体験をした人らしいです。そして大旅行家でもあったようです。

ヨーロッパにおけるフランスとドイツ(当時はまだドイツじゃなかったと思うけど)の関係はイメージできません。日本と朝鮮、江戸と大阪、どちらに近いのでしょうか。故郷を離れた人にとっては距離やことばによらず「疎外感」を味わい、「根無し草」のような気になるのではないでしょうか。文化というのはそれほど「ヴァナキュラー」なものだと思います。

自分の影

タイトルのとおり、本書は1814年に刊行された影をなくした、というか、売ってしまった男の話です。主人公シュレミールは自分の影と無尽蔵に金貨が出てくる袋と交換します。大金持ちになった彼は、影をなくしたことを後悔します。美しい娘を愛しますが、影がないばかりに結婚ができません。影を買った男は影を返すかわりに魂を渡せとシュレミールに申し出ますが、その誘惑をシュレミールは拒否し続けます・・・。

文学をあまり読まない私にはわかりませんが、影を主題にした作品はたくさんあるでしょう。最近読んだものでは村上春樹の『街とその不確かな壁』でも、影が重要な役目を果たしています。

「影」は英語では「shadow」、ドイツ語は全くわかりませんが、たぶん「Schatten」でしょう。インターネットという便利なものがあるので調べてみると、「影; 陰, 日陰; 人影, 物影; 幻影; 亡霊; 尾行者; 不幸なこと, 暗雲」(ポケットプログレッシブ独和・和独辞典)だそうです。英語の shadow も語源は同じようですが、古印欧語の「*(s)ḱeh₃-(darkness)」からきているようです。

日本語の「影」もほぼ同様の意味ですが、「物が光を遮って、光源と反対側にできる、そのものの黒い像」だけでなく、「物体によって光線のさえぎられた暗い部分。かげ。」「光が反射して水や鏡などの表面に映った、物の形や色」あるいは「日・月・星・灯火などの光」そのものの意味もあります(デジタル大辞泉)。shadow にも似たような意味はありますが、reflection や silhouette(これはたぶんフランス語から来ている)shade などの意味です。でも、「光」という意味はないのではないでしょうか。文化によってことばの表す意味の範囲は異なります。「月の影(月影)」といえば、月の光です。でも、いまそういう意味が分かる人は少なくなっているのではないでしょうか。つまり、その範囲はどんどん変わっていくということです。

この本での影は、挿絵からもわかるように、光が当たって反対側にできる自分の影のことですが、影そのものにもっと「自分に近い」ものがあると思います。

影は、つねに人間の全人格の一部をなしてきた。(Bächtol 9, Nachtrag 126-42)ギリシャ人はゼウスの前でみずからが光を放つようになるとき初めて影を失うし、イランの場合は、聖人になったときに同様なことが生じる。アイルランドの伝説によれば、人は自分の影が貫かれたときに死ぬ。(Stith-Thompson D 2061.2.2.1)ユダヤ人の場合、足跡がないのは幽霊の証拠といわれる(同上、E421.2)が、同様に影がないのもまたその徴と考えられている(同上、E302.4.4)。(イバン・イリイチ著『H2Oと水 「素材(スタッフ)」を歴史的に読む』P.121)

だから恋人の父親は言います。

またく、なんてこった!そうだろう、むく犬だって影ぐらいはもっているというのに、大事な大事なひとり娘のお相手が影のない男だなんて・・・。(P.82)

つまり、シュレミールは「犬以下」だというのです。それはまさしく「人格」に欠けているということです。人格があるということ「personality」があるということが、人間であるということです。persona は「仮面」です。仮面の下に、つまり裏(影)に人格はあります。

心理学者によると影の記憶は成長の過程につきそっているのだそうだ。ある歳ごろになってようやく影の意味合いに気がつく。つまりは潜在的な自我に気がつき「私という他人」を発見する。(P.137、「ペーター・シュレミールが生まれるまで」訳者あとがき)

自分(自我)に気がつくこと、自我を客観的に(対象として)見ること自体が「自我の始まり」です。自分と他人を区別すること、それは人間と犬を区別することと同じ「論理」です。そこからアリストテレス以来の「分類学」が始まります。それが18世紀のリンネの分類学につながり、19世紀の博物学となります。そして、それがシュレミールが魔法の長靴で行ったこと、そして著者シャミッソーが行ったことなのです。

魔法の長靴は、「近代科学」そのもののような気がします。それを手に入れたことで、シュレミールは失恋の痛みを乗り越えました。そして西洋的近代自我を持ち得たのです。西洋近代個人となったのです。でも、彼は影を失ったままです。

シュレミールの罪の意識は、かれ自身のブルジョワ的性格、自分の影を失ったことを認められない拒絶感、そこから天才を生み出すことのできない無力感にある。(イリイチ、前掲書、P.123。ムジール(Musil, v.7, p.895)とありますが、原典未確認)

近代西洋人が科学の代わりに失ったもの、それに対する罪の意識や悲しみ、それこそが現代文明に生きる人々が共通して心に抱いているものであり、だからこそ、同じ文明の中ではいまだに読まれているのではないでしょうか。

私はしばらく自分の影を見ていない気がします。今日、天気がよかったら、自分の影をあらためて見つめてみたいと思います。






[著者等]

アーデルベルト・フォン・シャミッソー[wiki(JP)]

「影をゆずってはいただけませんか?」謎の灰色服の男に乞われるままに、シュレミールは引き替えの“幸運の金袋”を受け取ったが―。大金持にはなったものの、影がないばっかりに世間の冷たい仕打ちに苦しまねばならない青年の運命をメルヘンタッチで描く。



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