街とその不確かな壁 村上春樹著 2023/04/10 新潮社

街とその不確かな壁 村上春樹著 2023/04/10 新潮社

40年間あたためた超大作

私は村上春樹の大ファンです(そのつもりです)。だから、村上ワールドに浸っている時間が大好きです。先日、短編集『一人称単数』を読みましたが、最初の一行から村上ワールドに引き込まれ、そのままの勢いでそれぞれの短編を読み、結局一気に最後まで読んでしまいました。

ところが不思議なことに、この本の初めの数ページはのめりこめませんでした。

この小説の核となったのは、「一九八〇年に文芸誌「文學界」に発表した「街と、その不確かな壁」という中編小説(P.657、あとがき)

だそうです。私はそれを読んでいませんが、この第一部に当たるものなのでしょう。あとがきによると、この第一部も新しく書いたもののようです。約四〇年の時間が経過しています。

その間に僕は三十一歳から七十一歳になった。(P.659、あとがき)

第一部の十六歳の彼女と十七歳の僕のシーンは、とてもみずみずしくて、四十年前の村上春樹の感性が残っています。そしてそれが最初の数ページの「のめりこめなさ」に通じているような気もします。うまく説明できませんが。

第一部で並行して描かれている二つの世界は、第二部、第三部で三つ、四つと増えていきます。いや、増えていくとゆうより主題の変奏によって豊かになっていきます。

そして、フィナーレが始まる前に「ふっ」っと音が消えます。私は驚きましたが、落胆はしませんでした。村上春樹の長編小説は結構こういう終わり方をします。七十一歳の村上春樹は力尽きたのか、とも思いました。

しかし何はともあれ「街と、その不確かな壁」という作品をこうして今一度、新しい形に書き直すことができて(あるいは完成させることができて)、正直なところずいぶんほっとしている。(P.660、あとがき)

村上春樹の中では、これで「完成」してるんですね。つまり、私は村上春樹を全然分かっていないというわけです。

物語(る)

それでも感想を書こうと思います。というのも、村上春樹は、自分が小説を「書く」ということの本質に近づいているんじゃないかと思える箇所が多くあるからです。

要するに、真実というものはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの真髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが。(P.661、あとがき)

物語は(つまりは「人生の出来事」は)静止したものではなく、運動(あるいは過程)としてあるということです。これは『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」(「日本古典文学全集」27、小学館、P.27)やヘラクレイトスの「万物は流れる」(πάντα ῥεῖ)にも共通する何かがあります。

これに対してプラトンは、「しかしこの極端において、ヘラクレイトス説はいかなる知識も不可能にし、いかなる立言をも無意味にする。何かについて何かを言うことは、すでにそれを固定化することであるが、しかしその時はもう言われた当のものは流動していて、すでにそれではなくなっているからだ。」(田中美知太郎『テアイテトス』解説、『プラトン全集2』岩波書店 1974/12/03、P.440)と言います。あるものを認識・定義するためには、その認識・定義する間は(どんなに短い時間であっても)「同一」でなければならないからです。この同一性(同一律)をアリストテレスは論理学の基礎とします。「AはAである」(同一律)、「AはAであるかAじゃないものであるかどちらかである」(排中律)、「AはAであって同時にAじゃないものではない」(無矛盾律)。

これが現代科学にまで続いています。新型コロナウイルスの電子顕微鏡写真が典型的な例です。数字として表す血圧計や、各種の健康診断、気温の測定など、数限りないものが「固定」「同一律」を基にしています。

真実が流動(変化)するものだとすれば、それを「固定する」方法とはなんでしょうか。まず最初はそれを認識し「立言」すること、つまり言葉にすることです。でも、言葉は真実と同じように「音の流れ」で、発すると同時に消えていきます。それを「静止」したものとするのは、「書くこと(文字にすること)」です。小説を書くということは、その真実を物語(ものがたり=語ること、ことば)として「固定すること」に他なりません。

真実とそれを物語ること(流動的なもの)を小説として書くこと(静止したもの)の間には大きな溝(壁)があります。その溝が「不確かな壁」として現れるのではないでしょうか。

同一性

この同一律(同一性、アイデンティティ、identity)は、今話題の「性同一性」にまで繋がる考え方(思考形式)です。西洋では2500年の長きに亘って支配的な考え方の基本ですが、日本人にとっては「新参者」だと思います。「IDカード」が日本で当たり前になりつつありますが、それはせいぜい50年程度のものです。

しかし自分が本来の自分であるかどうかなんて、いったい誰に判断できるだろう?すぐに混じり合おうとする主体と客体とをどうやって峻別すればいいのだろう?考えれば考えるほど、自分というものがわからなくなった。(P.625)

乖離している「自分」と「本来の自分」とを無理やり一緒にするのが「自己同一性」です。

これは前にも言ったと思うけど、ここにいるわたしは、本物のわたしの身代わりに過ぎません。(P.131)

彼女は、乖離を乖離のままにしようとしているのです。「わたし」と「本物のわたし」との乖離は、彼女の「心」と「身体」の乖離でもあります。

私の心と身体はいくらか離れているの。少しだけ違うところにある。だからあとしばらく待っていてほしいの。準備が整うまで。わかる?(P.93)

現実の自分は骨とか肉とかでできています。でも、それは「わたし」ではありません。現実の机は木材などでできています。でも木材が「机」なのではありません。木材の集まりを机たらしめているもの、それが「机のイデア」です。自己を自己たらしめているのが「自己のイデア」、つまり「アイデンティティ」です。それは目の前の現実の世界(現実界)にはありません。それはイデア界にあります。

その現実界とイデア界をつなぐのが「ことば」です。でもラカン流に言えば、現実を言葉にしようとすれば、現実を「不可能なもの(l'impossible)」に変えてしまいます。だから現実は語り得ないものなのです。

流動する現実を止めようとする、語り得ない現実を語ろうとする「自己同一性」を「きみ」や「ぼく」、あるいは村上春樹は認めません。認めることができないのです。現実と語ろうとすることのギャップが「物語=小説」を生み出しているのだから。だからこそ小説は「永遠」に続くのです。

「わたし」は、「本物のわたし」の身代わりです。つまり「本物のわたし」の「影」です。

「ときどき自分がなにかの、誰かの影みたいに思えることがある」ときみは大事な秘密を打ち明けるように言う。「ここにいるわたしには実体なんかなく、わたしの実体はどこか別のところにある。ここにいるわたしは、一見わたしのようであるけど、実は地面やら壁に投影された影法師に過ぎない・・・そんなふうに思えてならない」(P.93)

「影」というのがこの小説のキーワードのひとつです。「ぼく」は街に入るときに影を引き離されます。

心理学者によると影の記憶は成長の過程につきそっているのだそうだ。ある歳ごろになってようやく影の意味合いに気がつく。つまりは潜在的な自我に気がつき「私という他人」を発見する。(シャミッソー著『影をなくした男』岩波文庫、P.137、池内紀「ペーター・シュレミールが生まれるまで」訳者あとがき)

「自我」、つまり「主体(我)」に気づいたとき、「他人(他我、他者、汝)」が「対象」として浮かび上がってきます。「私という他人」の「影」が「わたし」です。

影に過ぎない「きみ」と「ぼく」が作り上げた「本物のわたし」がいる場所、それが「街」です。

「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの」ときみは言う。(P.9)

そしてぼくらはやがて二人だけの、特別な秘密の世界を起ち上げ、分かち合うようになった  高い壁に囲まれた不思議な街を。(P.27)

この街では人は影を持たない。影を捨てたとき初めて、それが確かな重さをそなえていたことが実感される。普段の生活で地球の重力を実感することがまずないのと同じように。(P.55)

「ぼく」は「きみ」のことが知りたい。

「もしそうだとしても、きみをもっとよく知りたい。いろんなことを、あらゆることを」

「なかには、知らないほうがいいこともあるかもしれない」

「でもだれかを好きになったら、相手のことをどこまでも知りたいと思うのは自然な気持ちだよ」

「そしてそれを引き受けるの?」

「そうだよ」

「ほんとうに?」

「もちろん」」(P.91-92)

「ぼく」は「きみ」のことが「知りたい」(健康な17歳の男子とても)。「きみ」と「ひとつになりたい」(健康な17歳の男子としても)。「きみ」も、

「隅から隅まであなたのものになりたい」ときみは続ける。「あなたとひとつになりたい。ほんとうよ」(P.92)

「きみ」の言葉にも「健康な16歳の女子」としての意味が含まれていると思います。いや、「きみ」が「健康」なのかどうかは描かれていません。それも重要な問題かもしれません。そのヒントが第二部のカフェのオーナーとの「その分野のこと」にあるのは明らかだとは思います。

自分と本当の自分、あるいは心と身体が「ひとつ」ではない「影に過ぎない」二人が「ひとつ」になることなど「不可能」なのです。

都市となる土地の周囲に轍をつけることによって、創建者は内部空間を知覚可能なものとし、境界を設けることで外部空間を排除し、後に壁が築かれる場所で2つの空間の結婚を司る。(イバン・イリイチ著『H2Oと水』新評論、P.40)

アリストテレスになると、空間はもはやそのような「素材」として理解されなくなる。プラトンの「容器」(hypdechomene)は、アリストテレスによって、存在の論理的な四つの「原因」の一つと化し、「質料(hyle)」と同一視されてしまう。アリストテレスは、西洋の空間知覚の最終的な土台、すなわち容器としてではなく、広がりとしての空間認識を築いた。アリストテレスとともに、「イデアとしての都市」は法的虚構となるのである。(同、P.46)

プラトンは「空間=容器」として捉え、アリストテレスは「空間=質料=広がり」と捉えているということです。「容器」であれば、そこに「内側」と「外側」があります。内側と外側を隔てるもの、それが古代の都市であれば「城壁」、家であれば「壁」です。

「本当のきみ」が住んでいる街を囲んでいる壁は、「本当のきみ」の「自我の壁」です。「本当のきみ」を知りたいと思うことは、その壁を乗り越えること、あるいは、なんらかの方法でその街に入ることです。

「あなたのための場所はいつもそこに用意されているから」(P.12)

「街にはひとつだけ空いたポジションがあるの。」(同)

それが〈夢読み〉です。

そう、あなたにはそれが出来る。あなたはその資格を手にしている。(同)

何という誘惑でしょう。それがどんなに困難なことでも、そこに行かなければならないと思うじゃないですか。なにせ「ぼく」は17歳の健康な男子なのですから。

そこに壁があるとプラトンは言いました(これがのちのライプニッツの「窓のないモナド」になります)。そして、アリストテレスはそれを単なる拡がり、法的「虚構」としました。ぼくの影は言います。

こんなものただの幻想に過ぎません。街がおれたちに幻影を見せているんです。(P.173)

実際その壁のようなものは、

その層は物質と非物質の間にある何かでできているらしかった。そこには時間も距離もなく、不揃いな粒が混じったような特殊な抵抗感があるだけだ。(P.174)

頭の内で現実と非現実が激しくせめぎ合い交錯した。私は今まさに、こちらの世界とあちらの世界との狭間に立っている。ここは意識と非意識との薄い接面であり、私は今どちらの世界に属するべきか選択を迫られている。(P.176)

「私」がどんな選択をしたか、それはこの本を読んで確かめてください。

自我の壁を乗り越えるために西洋思想が考えたこと、それは「愛」です。プラトンが『饗宴』で書いた「恋(ἔρως、erōs)」は、キリスト教の「愛(αγάπη agápē)」と結びつきました。「自己犠牲的な愛」である「アガペー」、つまり「自我の壁」を捨てて(乗り越えて)「他者」と結びつく可能性をそこに求めたのです。愛(αγάπη agápē)にはチャリティー「(英: charity、羅: caritas、カリタス)」 の訳語を当てられました。その後、charity の意味に変化が起こって、現在では「慈善」の意味で用いられるようになりました[Wikipedia]。なんとなくわかりますね。

もともとアイデンティティがない日本には、「個人」も「自我」もありませんでした。だから「自我の壁」を乗り越える必要も、他者を「愛する」必要もなかったのです。「ぼく」は言います。

ぼくはきみのことが好きだよ(P.91)

「ぼく」は「きみ」を愛しているのではありません。「愛=する」というのは「能動的行為」です。意図的に愛さなくてはいけません。でも「好きだ」は「好き=である」という「状態」です。意図的・能動的に「する」わけではありません。「好き」という状態に「なってしまう」「なってしまった」のです。「きみ」は「ぼく」が好きなのでしょうか。

「隅から隅まであなたのものになりたい」ときみは続ける。「あなたとひとつになりたい。ほんとうよ」(P.92、前出)

「なりたい」というのは「能動的・意図的欲望」ですよね。「好きになり=たい」「愛し=たい」と言っているのです。

君の口にする言葉は高さ八メートルほどの堅固な壁に怠りなく護られている。(P.42)

「きみ」は硬い自我の壁に囲まれています。そしてそれを「乗り越え=たい」と思っているし「乗り越えて=ほしい」と思っているのでしょう。それは可能でしょうか。

いや「その必要はあるのか」という問いに変えましょう。「ぼく」と「きみ」、我と汝、という「デカルト的な」括りではなくて、あるいは「男性」と「女性」という「セックス sex」の問いでもなく、「男と女」という「イリイチ的なジェンダー」で考えてみましょう。

「ヴァナキュラーなジェンダー」をイリイチは「両義的な対照的補完性」と言っています(イリイチ著『ジェンダー』岩波現代選書、P.157)。難しい言葉ですね。原書では「Ambiguous Complementarity」。ますますわかりません(笑)。いまだに私にもよくわからないのですが、分かっている(感じてる)範囲で言うと、

ジェンダーとしての男と女はそれぞれ別々の世界をもっている。だから、考え方も物の見え方も違っている。でも、別々に独立して存在しているのではない。それぞれが補いながらそれぞれの地域の文化・生活を作っている。それを生殖器に矮小化してしまうセックスは「男女平等」を叫ばなければならない。セックスの世界では「男女の平等」が必要であるとともに不可能だ。なぜなら男と女は「もともと違っている」から。ヴァナキュラーなジェンダーは「男女の平等」を必要としない。違っているからこそ補い合っているのだ。

そう捉えるとするなら、「男と女の壁(違い)」は存在するけど、それは乗り越えられるものではないし、乗り越える必要もないのです。その壁の存在こそがジェンダーなのですから。違うからこそ補い合って、その文化は生きていくのです。

それでは「男同士」「女同士」はどうでしょうか。同じジェンダーどうしでも違いはあります(それを私は「パティキュラーなもの」と呼びます)。違いがあることと、他者として自己の中から排除することはまったく異なります。自我の壁を作っているのは西洋的な思考形式です。ちろんそれを「文化」と呼んでも構いません。ただし、それは「局所的」で「歴史的」なものです。それを「普遍的」なものとするときに、「乗り越えられない壁」が生じるのではないでしょうか。

私は小さい頃から、「平等」「個性の尊重」「民主主義」「基本的人権の尊重」・・・を「人類に普遍的なもの」として教えられてきました。それらは私の思考方法(思考形式)を規定しているだけでなく、(同じことですが)私の血肉となっています。

こんなものただの幻想に過ぎません。街がおれたちに幻影を見せているんです。(P.173、前出)

幻想に過ぎないとしても、その壁は存在します。普段は見えません。普段は壁として意識しないのです。

この街では人は影を持たない。影を捨てたとき初めて、それが確かな重さをそなえていたことが実感される。普段の生活で地球の重力を実感することがまずないのと同じように。(P.55)

「意識」というものそのものが、その思考形式が作り出したものです。西洋人にはそれが普遍的なもの、基本的なもの、「わたしがわたしであるところのもの」、「わたしに固有なわたしのすべて」に思えます。だからフロイトが「無意識」を語り始めたとき、感情的なバッシングの嵐が吹き荒れました(「脳死判定」の問題も同じです)。

イエロー・サブマリンのヨットパーカーの少年は言います。

はい。心と意識とはべつのところにあるものですから(P.644)

これは「ぼく」にもわかっていたことです。

考えてみれば多くのものごとはそうやって、当事者の意図や計画とは無縁に、自然に勝手に進行していくものなのかもしれない。(P.471)

「きみ」は明確にわかっていたようです。

だって夢はわたしのつくるものではなくて、どこかの誰かから突然「ほら」と与えられたものであり、わたしの一存で内容を自由に変更できるものだはないのだから(たぶん)。(P.47)

「自我による主体的行為」なるものもその思考形式が作り上げた「幻想」ではないでしょうか。

川を遡る(以下ネタバレ注意?)

その夜、私はその不確かな壁を乗り越えたらしかった。それとも通り抜けたというべきだろうか  ドロリとしたゼリー状の物質を半ば泳ぎ抜けるみたいに。

気がついたとき私は壁の向こう側にいた。あるいは壁のこちら側に。(P.589)

そのために「私」は川(時間の流れ)を遡っていきました。17歳の「ぼく」になるために(あるいは71歳の村上春樹が31歳の村上春樹に会うために)。どこか「催眠療法」と似ています。

その夏、私は十七歳だった。そして私の中では、時間はそこで実質的に停止していた。(P.212)

私が村上春樹の世界に惹かれるのは、この感覚です。私も17歳のとき、人生で唯一「鈴を鳴らした人」(村上春樹著「ウィズ・ザ・ビートルズ」『一人称単数』所収)に出会いました。その女の子とはお付き合いすることもなく、卒業後ふたたび会うこともありませんでしたが、私の時間はそこで「実質的に停止」してしまいました。そして彼女が用意した場所で、

私は〈夢読み〉として、その傷ついた眼を持ち続けなくてはならない。(P.603)

私も、心のどこかに彼女のための場所を用意していました。それが唯一私ができることだったし、意図的に用意したのではなくて、そこに「できてしまった」と言ったほうがいいでしょう。

誰かのための秘密のスペースを確保しながら、別の部分で他の誰かと恋愛関係を持つ  そんなことは可能なのだろうか?ある程度は可能だ。しかしいつまでも続けることはできない。(P.161)

決して遊び半分でつきあっていたわけではない。でも結局のところ、彼女たちとの間に本当の意味での信頼関係を築き上げることはできなかった。(P.162)

つまり、「人を愛すことができなくなった」「愛するとはどういうことかがわからなくなった」のです。私のなかには「秘密のスペース」が、そして「街にはひとつだけ空いたポジション」がありつづけるのです。

私が必要とするのは、何も始まらないことだ。(P.610)

でも、何かが始まっていました。そのきっかけは、

私はこの少女に対して、秘密をひとつ抱え込んでしまったことになる。それも大きな意味を持つ秘密を。それまでは、彼女に隠さなくてはならないことなど何ひとつなかったというのに・・・。(P.626)

そして、

彼女の顔つき全体が、微かな変化を見せていることに。(中略)いや、そうではなく、そこで変わりつつあるのは、微妙な変更を受けつつあるのは、彼女の顔立ちではなくむしろ私の方なのかもしれない。私という人間の心が変容を遂げているのかもしれない。(P.351)

17歳だった「ぼく」は40代の「私」になっています。村上春樹は70代になっています。でも「きみ」は16歳のままです。

そしてもうひとつの大事な事実  私が求めているのは彼女のすべてではない。彼女のすべてはおそらく、今手にしている小さな木箱には収まりきらないだろう。私はもう十七歳の少年ではない。その頃の私は世界中のあらゆる時間を手にしていた。でも今は違う。私が手にしている時間は、その使い途の可能性は、かなり限られたものになっている。今の私が求めているのは、彼女が身につけた防御壁の内側にあるはずの穏やかな温かみだった。そしてその特殊な素材で作られた円形カップの奥に脈打っているはずの心臓の確かな鼓動だった。(P.586)

歳をとって奇妙に感じるのは、自分が歳をとったということではない。かつては少年であった自分が、いつの間にか老齢といわれる年代になってしまったことではない。驚かされるのはむしろ、自分と同年代であった人々が、もうすっかり老人になってしまっている・・・とりわけ、僕の周りにいた美しく潑剌とした女の子たちが、今ではおそらく孫の二、三人もいるであろう年齢になっている事実だ。(前出「ウィズ・ザ・ビートルズ」、P.73)

影と同様「鏡」もよく文学のテーマになります。『白雪姫』『ひみつのアッコちゃん』『デカルトの鏡』・・・。その鏡は反射する実物の鏡である必要はありません。「他者」という鏡が「自分」を映し出すこともあるのです。いや、実物の鏡に映るのは「幻想(まやかし)」「誰かの影としての」私で、「他者」こそが「我」を映し出すのです。

「変化が生じた」ということは、「時間が動き出した」ということです。そして「私」は壁を通り抜けました。

「おとなになる」ということ

変化はもうひとつあります。イエロー・サブマリンの少年です。

私は少年のために、少しばかり寂しく思った。この世界は日々便利に、そして非ロマンティックな場所になっていく。(P.435)

少年は言います。

でももしそうでなかったとしたら、もし仮にぼくが普通の人であったとしたら、ぼくはきっとこうしてあなたと別れることに、悲しみというものを感じているはずだと思うのです。もちろんそれはあくまでぼくの想像に過ぎませんし、悲しみがどういうものなのかぼくには知りようもないのですが(P.654)

感じない感情、コンピュータのごとくにプログラムされた感情のようです。

サーモスタットがエアコンのスイッチを入れるのは暑いと思っているからだと言うこともできる。あるいは、足の指先が丸まるのは、そうすれば暖かくなると指が考えれいるからだとか、あるいは植物が太陽に向かって伸びるのは、そうすべきだと信じているからだとか。確かに実のところ、会話の便法として信念が動物や雲や樹木などにもあるという言い方をする文化は、ピダハンやワリを始めとしてたくさん存在する。だが、私が生活をともにして調査をした部族はほとんどの場合、このような信念があるとするのを文字通りに意図しているわけではなかった。(エヴェレット著『言語の起源』白楊社、P.415)

自分がどう考える(感じる)のかではなく、「どういう答えを求められているのか」で言葉を発する傾向が増えてきているようです。それの典型が「ChatGPT」でしょう。「ChatGPT」は「正しい答えを出そう」と意図(意志)しているわけではありません。でもそれを使う人間は、その「答え」をサーモスタットの意志(意思)と同様に「信じて」しまいます。「ChatGPT」の回答にはいくつかの選択肢が示されることが多いようです。あたかも人間の側の意思を尊重しているかのように、です。

しかし、と私は思う、現実はおそらくひとつだけではない。現実とはいくつかの選択肢の中から、自分で選び取らなくてはならないものなのだ。(P.623)

いくつかの異なった現実が混じり合い、異なった選択肢が絡み合い、そこから総合体としての現実が  私たちが現実とみなしているものが  できあがる。」(P.186)

選択肢は、おそらく無限ではありません。でも、「ChatGPT」が提示する「求められている答えの選択肢」は、求める人の「感情」といちばん対局にあるもののような気がします。求められているのは「正しい答え」ではなくて「(正しい?)感情」なのではないでしょうか。

「私」が変わるのと同時に「イエロー・サブマリンの少年」があとを継ぐようになった。数十年経って時間が動き出したとき、「私」は浦島太郎が玉手箱を開けたときのような状態になったと思います。

街から戻ることは川を「思い出」にすることです。それは美しい大切な思い出だけど、「思い出に過ぎない」のです。それに気がつくことを世間では「おとなになった」というかもしれません。村上春樹は「おとなになった」のでしょうか。

少女の「幻想」に引きずられつづけたような「おとなになれない私の生」、「影をなくした」いや「誰かの影のような」生。

自分が何を探しているにせよ、いったんそれが見つかれば、何を探していたのかそのときにわかるはずだった。(P.561)

自分が何を待っているのか、それが明らかになるのをただ辛抱強く待っていた、というだけのことではなかったのか?(P.585)

壁を通り抜けることができず、自分という「壁」に囚われたままの私は、もがきながら「おとなになっていない」村上春樹の次の作品を待っています。






[著者等]

村上 春樹

1949(昭和24)年、京都府生れ。早稲田大学文学部卒業。

1979年、『風の歌を聴け』でデビュー、群像新人文学賞受賞。主著に『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞受賞)、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『ノルウェイの森』、『アンダーグラウンド』、『スプートニクの恋人』、『神の子どもたちはみな踊る』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』など。『レイモンド・カーヴァー全集』、『心臓を貫かれて』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ロング・グッドバイ』など訳書も多数。

村上春樹、6年ぶりの最新長編1200枚、待望の刊行!

その街に行かなくてはならない。なにがあろうと――〈古い夢〉が奥まった書庫でひもとかれ、呼び覚まされるように、封印された“物語”が深く静かに動きだす。魂を揺さぶる純度100パーセントの村上ワールド。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4103534372]

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