Tokyo Idols 三宅響子監督 2017年 日英加

Tokyo Idols 三宅響子監督 2017年 日英加

どういう批判を浴びるかはわからないけど、そこに働いているのは「競争(闘争)原理」です。


アイドルを応援するおじさんも、アイドル自身も競争(闘争)性を内に秘めている、あるいはその犠牲者です。


あるアイドルの女の子が言います「自分に自信が持ちたくて」「認められたくて」・・・。どこまで自信を持ちたいのでしょうか。どこまで認められたいのでしょうか。そこには、どこまでもキリがない「競争」がもろに頭を見せています。


自分が勝てば負ける人がいるのが当然で、勝ったとてその上の人と比べれば自分は下なのです。ドロップアウトしたと自分で認めているヲタクが「勝ち組」(あるいは勝ち組を応援していることで、自分が「勝ち組」の側にいる)という幻想をもち続けているのが悲しいです。


実は、ちょっぴりだけ顔を出す「お札(さつ)が入れられる手提げ金庫」、それが象徴的です。数字はいくらでも増やせます。1000円より10000円が上です。10000円より100000円のほうが上です。いくらでもマルは増やせます。それが競争(闘争)性というものです。


「年間10000人の(自称)アイドルが誕生する日本。若さと性を売り物にしている。」そのとおりです。そして「アイドルに多額のお金を費やす中高年の男性」、たしかに気持ち悪いです。でも、その中高年を気持ち悪いと思う気持ちが「若さと性」を「商品」に変えているのです。若さや性、そして「価値」というものを尊重するかぎり、形を変えてこういう文化は続いていきます。


そういう文化は日本において、そう古いものではありません。半世紀前までは「若造」「青二才」として、若いことに価値を置かない文化でした。「女性が子どもを生むことができる年齢」というのは限られています。でも、そのことと「女性であること」「男性であること」とは、まったく別の問題でした。若いときの「体力」とその人とは別であるように。もちろん、それもその人(の一部)であることは間違いありません。でも、それは変わっていくものだし、そのことでその人を評価する事はありませんでした。力があるものが、力仕事をし、歌が上手い人が歌い、子どもを産める人が子どもを産み、知恵(知識)がある人が知恵を出す・・・。できないことが恥じゃない。そういう文化です。そこには民主主義も自由もありません。そんなものを必要としない文化です。


いま、民主主義や自由を叫ばなければならないのはなぜなのでしょうか。いや、自由や民主主義を必要としている、それで得をしているのは誰なのでしょうか。


「自由」や「民主」という名前がついた政党が多いのが、そのことを雄弁に物語っているのではないでしょうか。






IDOLS has fast become a phenomenon in Japan as girl bands and pop music permeate Japanese life. This eye-opening film gets at the heart of a cultural phenomenon driven by an obsession with young female sexuality and internet popularity. Filmmaker Kyoko Miyake takes a provocative look into the Japanese pop music industry and it's focus on traditional beauty ideals, and confronts the gender power dynamics at work. Language - Japanese. Runtime - 1 hour and 28 minutes



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