遊びと人間 ーー仮面と眩暈ーー(増補改訂版) ロジェ・カイヨワ著 多田道太郎・塚崎幹夫訳 1973/07/15 講談社文庫

遊びと人間 <s>  </s>仮面と眩暈<s>  </s>(増補改訂版) ロジェ・カイヨワ著 多田道太郎・塚崎幹夫訳 1973/07/15 講談社文庫

遊び関連本三連チャン

ホイジンガが「人間は遊ぶ生き物だ」と言った時、労働(生産)を重視(もっとも尊重)してきた近代西洋社会は「ハッ」と驚きました。たしかに、西洋はヘシオドスの『仕事と日』以来、またはアダムとイヴの「楽園追放」以来、生産の大切さを説いてきました(カインとアベルの話はよくわかりませんが)。

私は、真面目に働いてきました(そう思っています)。でも、仕事は大嫌いでした。私は「遊び人」ではなかったけど、けっして「仕事人間」ではありませんでした。日本で遊び(遊び人)を表現する言葉として、「飲む打つ買う」というのがあります。お酒は大好きです。「打つ」は博打です。「買う」にはお金がありませんでしたけど。

賭博は社会的に批判されながらも、ずっと続いています。続いているところか、法律で禁止されているにも関わらず政府が胴元になったりしています。宝くじも同様です。さらに、統合型リゾート(IR)という名前でカジノが解禁されようとしています。

実は私は賭け事が大好きです。昔よくパチンコをやりました。お金がなくなって、おしっこをチビリそうになるほどのギリギリ感がたまらないのです。そして、それを支えるのは勝ったときの嬉しさですが、でもそれは逆で、負けそうなときのドキドキ感のほうが強い気がします。だから、パチンコはやめました。身を破滅させることは明らかだから。

「人生は賭け事」と言えないこともないけど、それは貨幣経済の中に生きているので、「お金」ということが頭の中にあって言えることでしょう。お金がなければ、「人生は遊び」ということと同義です。「資本主義社会」そのものがギャンブルだけどね。生産と消費、使用価値と価値(交換価値)の分離、マルクスが「命がけの飛躍」と言ったのはそのことです。

偶然

ギャンブルは、予測できない、不確実性、あるいは偶然が支配する世界です(八百長をしない限り)。もちろん、パチンコにしても、麻雀にしても、あるいはトランプ遊びのブリッジにしても、そこに「技術」はあります。

ところで、またしても、ピアジェもホイジンガも、偶然の遊びには一顧も与えていないのである。(P.263)

そうかも知れません。「雨乞いの儀式」でも、本当に雨が降るかどうかはわかりません。だから「願う」のでしょう。確実に雨がふるのなら儀式は必要ありませんから。

そこに〔人が計算通りに動かないところに〕、遊びの究極の要素が存在し、また存在しつづけるのである。(P.276)

不確実性、あるいは偶然というのは「存在そのもの」を捉えることができない、人間意識にとって解決できない問題だと思います。だから遊ぶ。すべて理性的(論理的)に行動できる人がいるでしょうか。常に意識的に行動することすら難しい。息をしたり、心臓を動かしたり。それらを「不随筋」とか「条件反射」などと名前をつけても「無意識」と定義しても、それらを統御できないことに変わりはありません。

それでも、それを「統御したい」「支配したい」という気持ちが人間にはあるようにも思います。それこそが「科学」の基本ですね。科学は「science」の訳語です。元はラテン語の「scientia」。英語で言えば「knowledge」、「知ること、知識」です。ドイツ語の「Wissenschaft」がわかりやすいですね。まさしく「知ること」です。そして同時に「学問」や「科学」の意味です。scienceの語根「skei-」は「切ること、分割すること」です。日本語の「分かる(解る)」は「分ける」からきているのだったとしたら、同じ発想ですね(「理解 understanding、verstehen」が誰の訳語かは知りませんが、「理で(を)解する」という意味だとまた別の含みがあります)。

分類

分類すれば全体が分かると考えるのが近代西洋の考え方です。。遊びを分析し、分類したとして、遊びがわかるのでしょうか。部分が分かれば全体がわかる、これは還元主義です。今西錦司はこう言っています。

なぜかというと、そういうふうにリダクションリズム( reductionism 還元主義)、つまりよりレベルの低いところで説明したらそれが自然科学であるという、これは自然科学の一つの約束らしくて、物理や化学の世界はそれでうまいこといっているようですけれども、生物はもうちょっと複雑なもので、そういう遺伝子で種の問題とか進化の問題がはたして説明できるのかというところに疑いがある。(『自然・人類・文明』NHKブックス、P.35)

遊びの特徴や、本質がわかったとして、それが因果論(原因結果論)的に、もっと言えば功利(効用)主義的に「〜だから、〜なのだ」というのが遊びの説明になっていると思うのでしょうか。カイヨワのいうように、「遊びは何も生み出さない」。そのとおりです。

「分ける(分類する)」ことが、「分かる(理解する)」ことになり、それが「学問・科学」になるという流れは、西洋では疑問の余地のない当然のことなのでしょう。カイヨワの方法はまさしくこれに則った「学問らしい学問」だと言えそうです。

この本の第一章は「定義」、第二章は「分類」です。「定義する define 」は「dē-fīniō 境界(限界)を定める」ということです。境界を定めると、その中にあるものと外にあるものを分ける(分類する)ことになります。これが「科学(学問)的」ということです。

生産(創造)

でも、「知る」ということと「それを支配する(管理する)」の間には大きな壁があります。

なぜなら、文明とは、時には権利と義務の、時には特権と責任との均衡の取れた一貫した体系に依拠しつつ、粗雑な世界から管理された世界へと移行することにあるのだから。(P.24)

「粗雑な世界」「混沌」の中では人間は生きられないような気がします。「知る」という行為は、混沌とした現実世界の中に「秩序(規則)」を見つけることなのかもしれません。動物は動物なりに、昆虫は昆虫なりに、あるいは植物は植物なりに、周りの世界を「区別」しているのでしょう。それを人間は「理解する(分かる)」と表現しているだけなのかもしれません。

自然の中から「飲めるもの、食べられるもの(栄養になるもの)」を区別して取り込むのが生きることです。狩猟採集生活では、(狩猟や採集は)何も生み出していません。何かを生み出す(作り出す、生産)produce はもともとは「導き出す、引き出す」というような意味です。もともとあったもの、隠れていて見えないものを目に見える場所に引っ張り出すということでしょうか。農業も工業も彫刻も、もともとあったもの(質料)にイデア(形相)を宿す、見つけてあげるという行為です。無から有を作り出すというものではありません。キリスト教は「神のみが創造する」としました。創造は神の領域であり、人間が行えない、行ってはならないものなのです。それが古典ギリシア哲学と結びついた(融合した、利用した?)のだと思います。

今『ミステリと言う勿れ』の再放送をやっています。大好きな作品です。今月、映画が公開されるそうです。観たいけど、お金がないのでTVで放映されるのを待ちますが(何年後でしょうか)、ドラマの中で「人間はミツバチのように蜜を作ることすらできません。人工授精(体外受精だったかな?)だって自然を超えているわけではありません」というような台詞がありました。原発賛成派や遺伝子操作を認めようとする人たちがよく持ち出す議論です。それはそのとおりなのです。でも、それと人類(生物)を滅ぼす行為を認めるかどうかは別のことです。戦争で人が死ぬのも自然を超えているわけではないし、人類が滅んだとしても、それも超自然的なこと(現象)ではありませんが。

「遺伝子操作」はちょっと意味がちがいます。それで自然界にはない「生物(種)」ができるとなると、「神がすべての動植物を作った」という聖書の言葉と異なってしまうからです(だからダーウィンは批判された)。いつ頃からか、「生産」は「無から有を作り出す」という意味に変わります。人間は神と同等、あるいはそれ以上の存在だと思いこむようになり、神は忘れられます。

農業も、本来は種(たね)があって、それが作物になるものですから、無から有を作り出すものではありません。作物(製品)は、種(たね)の本質を引き出す行為にすぎません。でも、種(たね)は放っておいて作物になるわけではありません。土に植えて、水をやって、雑草を取り、他の動物から守ることが必要になります。つまり、「管理(気を配る)」しなければならないのです。それが「自分が作り出した」という意識につながるのではないでしょうか。神がカインの供物を受けとらなかったのはそんな事情があったのかもしれません。私たちは「カインの末裔」であり、神を忘れてしまいました。

管理することは「支配」することとはまた別のことです。「支配」は「分け(支)て配(くば)る」「支(ささ)えを分担する」という意味でしょう。その「管理する control,steer」が「支配する govern」に変わります。

「知るー管理するー支配する」、ここで人間の意識・かかわり方が大きくかわります。旧約聖書『創世記』第一章に「海の魚、空の鳥、血の上を這う生き物をすべて支配せよ」とあります。聖書は数ページしか読んだことがないし、ヘブライ語もその意味もわかりませんが、アベルは羊を支配していて神の言う通りにしていたけど、カインはそれに従わなかった、ということかもしれません。

私が言う「意識・かかわり方」というのはそういうことではありません。他の動植物や、他の人・社会・国に対して「主体」として関わるかどうかということです。日本人にならその意味がわかりやすいように思います。狩猟採集にしても、農業にしても、人間は他者や自然に対して「いわば受動的」に接していました。すべては「自然の恵み」「天(神)の恵み」「海の恵み」・・・です。もちろん、口を開けているだけでお腹が膨れるわけではありませんから、農耕や漁撈など自然に働きかけます。でも、それは自然を「管理」し、「支配」するような主体性ではなかったのではないでしょうか。

理性

先程、「理解」が「理で(を)解する」という意味か、と書きました。このときの「理」は日本的な「ことわり」ではなく、西洋的な「論理・理性」ということです。「論理(ロゴス、λόγος )」には様々な意味がありますが、大もとは「言葉」ではないでしょうか。それは「人間の側にあるもの」で「神話(ミュトス、μύθος )」という「神の側にあるもの」との対比で用いられたようです(不正確ですが)。その神話と言葉をつなぐもの、それが「息(命・魂、プシュケー、Ψυχή)」であり「自然(ピュシス・フュシス、φύσις)です 。言葉は「息・命」とともにありますから。

それを、キリスト教は「Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος(始めに言葉ありき)」(「ヨハネの福音書」第1章1.1)としてしまいました。ロゴスを神の側に近づけるというのは、当時のギリシア(ヘレニズム文化)になじませるためだったのかもしれません。ともかくも、それによって人間は神の側に近づく第一歩を踏み出したように思います。日本語で言えば、「理(ことわり)を解する」が「理(論理、意識)で解する」に近づいた、あるいは同じ意味になったということでしょうか。

人間と自然は同等な関係でも対立関係にあるわけでもありませんでした。犬と猫の関係でも羊と狼との関係でもなかったのです。イエス・キリストという神と人間の仲介者である「人間」の存在は、ギリシアの「理性」と合体し、人間の視点を神に近づけます。人間(ホモ・サピエンス、理性的な人)の誕生です。それに異を唱えたのがホイジンガの「ホモ・ルーデンス」だったのではないでしょうか。

偶然の遊び、それはまた金銭の遊びでもあるが、ホイジンガの著書のなかでは、事実、いかなる場所も与えられてはいない。こうした偏見はかなり問題である。

この偏見の生じた理由は分からぬでもない。偶然の遊びの文化的創造性を証明することは、競争の遊びのそれを証明するより、たしかにずっと困難だからである。しかし、だからといって、偶然の遊びの影響は、たとえそれをろくでもないと評価するにせよ、重大でないということにはならない。その上、偶然の遊びを無視することは、遊びは経済上のいかなる利益をも伴わぬと断言したり、言外に暗示したりする、そういう定義を遊びに与えることになる。(P.33)

カイヨワの指摘は正しいと思います(ただし偶然を無視したわけではありません。『ホモ・ルーデンス』中公文庫、P401〜等を参照)。でも、遊びに「文化的創造性」を求めることはホイジンガが意図することではありません。

文化は遊びとして始まるのでもなく、遊びから始まるのでもない。遊びのなかに始まるのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』中公文庫、P.165)

文化はその根源的段階においては遊ばれるものであった、と。それは生命体が母体から生まれるように遊びから発するのではない。それは遊びのなかに、遊びとして発達するのである。(同書、P.355)

そして「十九世紀における真面目の支配」として、

労働と生産が時代の理想となり、やがて偶像となった。ヨーロッパは労働服を着込んだのだ。(同書、P.390)

「〜(原料)だから〜(製品)なのだ」という生産の発想そのものが近代西洋的なのです。功利主義はもちろんのこと、論理、理性、還元主義、経済、生産などは古代ギリシアの嫡出子を装っていますが(実際そういう面もあるのですが)、キリスト教がヘレニズムを取り込んだように近代西洋以降に特徴的な思考方法(様式)です。

要するに、遊びかまじめな構造か、どちらが先かという問題は、あまり意味のないものである。遊びを法律、慣習、礼拝式から説明するか、それとも逆に、法学、典礼、兵法や三段論法や美学の規則を遊びの精神で説明するかは、相補的な操作であって、たがいに排斥しあうのでなければ、ひとしく実りの豊かなものである。(P.116)

「卵が先か鶏が先か」は因果論の典型です。それを批判するのは正しいのですが、「相補的」というのはホイジンガとは全く逆の発想ですね。

聖なるもの

遊戯的なものと聖なるものとの関連については、私は進んで認める者である。のみならず、私はホイジンガの田に水をひいてもいいと思っている。だが、決定的な点で私はホイジンガと分かれる。遊びと信仰の諸形態が、日常生活の流れから慎重に自分を切り離している点は同じだとしても、日常生活に対しそれらが等価的な位置を占めているとも、またそれゆえに同一の内容を持っているとも、私は考えていないからである。(P.291)

カイヨワは、近代的な意味で「真面目」なのです。

賭けるということ、それは、労働を、忍耐を、倹約を放棄することだ。(P.189)

「聖なるもの(あるいは労働)」や「信仰」を遊びと同じだとは思えないのです。だからこそ「偶然の遊び」を強調します。偶然、あるいは「無秩序(混沌)」を信仰の領域には入れたくありません。

結果として、

聖なるもの  世俗  遊戯」というヒエラルキーを決めれば、ホイジンガ説の構造はバランスを保つはずだ。(P.295)

ということになります。「世俗」は「堕落した聖なるもの」であり、「遊戯」は「堕落した日常」だと言っているように思います。。そこには明確な「価値判断」があります。

それが彼の「ノモス(規則、νόμος)志向」です。そして遊びや偶然を「科学」や「学問」の世界に取り込もうとします。

本書の第一部は「定義」と「分類」。第二部は「遊びの社会学」です。どちらも「学問としての社会学」です。

この自由、この熱中の度合い、また熱狂的行為が隔離された、空想上の、不可避のすべての結果を免れている世界で展開されているという事実、これらは、私の考えでは、遊びの文化的豊かさを説明するものである。またこれらは、遊びの選択が、それぞれの社会の顔、型、価値を、一定の範囲内で明らかにしているという事実を理解させるものである。(P.120-121)

換言すれば、私は単に遊びの社会学を考えているのではない。遊びを出発点とする社会学の基礎づけを考えているのである。(P.121)

「遊びを基礎とした社会学」によるカイヨワの現代社会批判は痛烈です。原書の初版が出版されたのは1958年。今から65年前です。全く同じことが繰り返されています(詳細は本書を読んでいただきたい)。例えば「アイドル(推し)」や「スポーツ(観戦)熱」について、

こうした熱狂を解釈する鍵となるのは、もちろん競技者や演技者のすばらしいプレイではなく、むしろ、チャンピオンやスターとの同一化を求めるいわば一般的欲求なのである。(P.201)

さらに人は、こうした〔華麗な〕職業には、何かしらあいまいで不純な、あるいはだらしないものを容易に嗅ぎつける。崇拝のうちにも、羨望が残滓としてのこっており、その眼で見るとかならず、野心と陰謀、破廉恥と広告による汚染した成功の姿が浮かんでくるのである。(P.201-202)

すなわち、運の贈り物がみじめな人たちに微笑みかけている時、〔スターなどの場合〕には運を信ぜよというし、運の贈り物が生まれつき権力者の子弟に輝かしい将来を約束している時には、運のもたらす利点を否定する〔これがこうした考えの矛盾である〕。(P.205)

それらは、所与の社会の永続的装置の一部分をなしている。(P.205)

偶像たちの豪奢で充実した生活は、毎日のようにそのドラマと背景がファンのもとにとどけられているため、容易にファンの空想の中に入り込み、ファンは偶像を空想裡に遊ばせるのである。仮面は、ごく稀な場合にしか用いられず、ほとんど役立たぬのに反し、ミミクリは際限もなく拡がり、社会を支配する新規範の支えとなり、あるいはカウンター・バランスとなっている。(P.206)

昔はスポーツ雑誌や芸能誌でのみ報じられていた「スター(アイドル、選手)」の生い立ちや努力の様子、あるいは趣味や食べ物の好みまで、あらゆることが「情報」として「大っぴら」になります。そして、技術や作品と関係なく、「浮気」「薬物」などで芸能界(スポーツ界)から追放されます。それはカイヨワの言う「ミミクリ(模擬、この場合は代理)」そのものです。見事な現代文化分析だと思います。

自由と平等

アゴンとアレアは相反する、いわば対象的な態度を表わしているが、しかしどちらも同一の掟にしたがっている。それは現実にはありえない純粋に平等な条件を、遊戯者間に人為的に作り出すという掟である。(P.53)

一定の「制限」「ルール」のもとでの「競争(闘争)」や「偶然の遊び(宝くじなど)」のもとでは、参加者は「平等」です。生まれも育ちも(財産も?)関係がないという前提を「人為的に作り出す」ことによって遊ぶのですから。

どの親、家に生まれるかも「偶然」です。まさしく「親ガチャ」です。本人の努力も意思も及ばないことです。偶然だということは「平等」だということでしょうか。

運はまず、遺伝というアレアそのものにつきまとっている。遺伝は、才能と欠点とを不平等に分配するからだ。次に、運がかならず介入するのは試験においてである。それは最優秀者を勝利させるように仕組まれてはいるが、ヤマの当たった志願者に運命が微笑することもあるし、他方、勉強を怠ったまさにその個所を不運にも衝かれ合格が危うくなることも、実際ありえぬことではないのだ。(P.186)

生まれることからして平等ではない、ということです。

しかし、出生あるいは運によってということは、確かに認めえないことであろう。平等と努力とを愚弄することは許されぬからである。成された仕事は正義のものさしである。その結果、社会主義的性格をも共産主義的性格をもつ体制は、当然、アゴンの上に全面的に根拠を置くものとなる。(P.253)

「正義」などという言葉が出てきましたが、これは無視しましょう。なんとなく誤植がありそうですが、それも無視します。カイヨワは社会主義や共産主義が嫌いなのかもしれませんが、「アゴン(競争)」を「全面的に根拠」とするのが「新自由主義」ですね。「弱肉強食」あるいは「社会進化論(社会ダーウィニズム)」の世界です。カイヨワにとって「平等」とか「自由」とかは何だったのでしょうか。それを明確に読み取ることは、私にはできませんでした。

生きること、生まれること自体が一定の制限を帯びていることは事実です。親を選べないのはもちろんのこと、走ることができても空を飛べないとか、水中で息をできないとか、かならず制限があります。手が三本あればいい、と思っても、たいていは二本しかないし、一本しかない人も、二本ともない人もいます。

ある地方には地震が来て、ある地方には台風が来て被害をもたらします。私の住む地域には台風はあまり来ません。でも、思い出すのは小さい頃に大きな台風が来たことで、窓から見ると色々なものが空を飛んでたことです。親は慌てていたようですが、私は楽しかった。

真に遊ぶためには人はふたたび子供にかえらねばならない。(ホイジンガ、前掲書、P.402)

今の子供はどうなんでしょう。テレビでは、被害の様子、避難所の様子が「恐ろしいこと」「悲しいこと」「みじめなこと」として、どの局も、何度も繰り返し放映します。今の子供は台風や地震を楽しむことができないんじゃないかな、と思えます。それは大人が真面目だからでしょうね。

人間には「自由」がある、空間や時間の制限なんてない、なんて思うのは若いうちだけです。歳を取れば空間(肉体)にも、時間(生命)にも限界があることがわかります。「理解する」んじゃなくて、「感じる」のです。逆に若い人には空間や時間の制限がないのでしょうか。そう思っている(思い込んでいる)だけのように思えます。私自身、若い頃は「可能性は無限大」だと思っていたし、「自分は歳を取らない」とすら思っていたように思います。そして、「自由の大切さ」を信じ、「不平等」を憎み、「自由・平等」を実現するために「民主主義」を実現しようと考えていました(実行したかどうかは聞かないでください)。真面目だったのです。

労働、教育、そして民主制などの理念は、遊びという永遠の原理を容れる余地をほとんど残さなくなったのである。(ホイジンガ、前掲書、P.394)

遊びはあまりにも真面目になりすぎた。遊びの雰囲気は、多かれ少なかれ、そこから逃れ去ってしまったのだ。(P.400)

真面目なカイヨワがホイジンガを批判したい気持は良くわかります。私自身と同じだからです。カイヨワが気づいていたように、人間は平等ではありません。理由は生まれた家や遺伝子にあるのではありません。「同じ」ではないからです。犬と猫が違っているように、私とあなたは違うのです。「同じ人間じゃないか」と言われるでしょう。そうです。でも「人間」の境界を定めて、人間を定義することができるでしょうか。そんなものが客観的に存在するのでしょうか。

自我

「赤」や「青」の定義が文化や時代によって違うように、「人間」の定義も文化や時代によって異なります。

アレアとアゴンの規範をミミクリとイリンクスの権威に代えて社会生活の基礎として定立すること、もしそのことが文明と歴史に(進歩に、未来に)通ずる狭き門、あるいは、かの決定的で困難な飛躍というものに一致するならば、どうしてある種の社会は〔その道を通らずに〕模擬と眩暈との結合にもとづく悪循環を打破しえたのか、いかなる神秘の幸運によって起こりえないことが起こったのか、たしかにこれは研究に値することである。(P.228)

西洋文化は、常にそれを問うてきたのではなかったのでしょうか。すくなくとも、他文化との交流が博物学や人類学として先鋭化した後も、他文化を「理解」するより、他文化を「管理」「支配」することに躍起になっていたのではないでしょうか。

先に書いたように、理解することと管理・支配することの間にある大きな壁、それは主体性です。主体はいつの時代にもあります。しかしそれが肥大化して「自我 ego」となったのは近代西洋に特徴的なことです。それまでは西洋においても、インドや中国、日本においても宗教(あるいは慣習)が主体の肥大を食い止めていました。肥大化した自我は宗教や慣習を「自我を縛るもの」と考え始めました。

そして自由とは、歴史的にみて、何らかの束縛からの自由であった。(訳者解説、P.350)

「自由」というものが客観的にあるわけではありません。そして自我は「自然(肉体、存在)」という束縛からの自由を考え始めました。それが近代科学(学問)であり、コンビニ(便利)です。でも、本当にそれで自由になったのでしょうか。それは新たな「不自由(束縛)」を生み出す悪循環でしかないように思えています。

絵画において、遠近法の大部分は約束ごとである。約束ごとが習慣を生み、習慣がついには約束ごとをもともと自然なのだと思わせるのだ。(P.22)

その自然が、また自我には「束縛」と感じられるのです。

これらの規則には、どこか恣意的なところがあり、それを奇妙だとか窮屈だとか感じる人があれば、誰でも自由勝手に拒否できる。そして、遠近法のない絵を描いたり、脚韻や韻律のない詩を書いたり、ゆるされた和音からはずれて作曲したりできる。もっともそうすることで、人は遊びを遊んでいるのではなく、遊びの破壊に力を貸しているのである。というのは、遊びの場合と同じく、これらの規則を人が守り、尊重する時のみ、規則は存在するからである。(P.22-23)

束縛を感じる自我をのりこえられないところに、現代の(先進国の)諸課題が存在するのではないでしょうか。






[著者等]

【カイヨワ】
フランスの作家・批評家(1913〜1978)。広い知識に裏づけられた多くの評論を発表。著書は『神話と人間』『人間と聖なるもの』など。

【多田道太郎】
1924年京都に生まれる。京大文学部卒。京大教授を経て現在、明治学院大学教授。学術文庫に『複製芸術論』『身辺の日本文化』がある。

【塚崎幹夫】
1930年神戸市に生まれる。京大文学部卒。富山大学教授。主著『星の王子さまの世界』、訳書、カイヨワ『文学の思い上り』などがある。

なぜ人間は遊ぶのか。人は夢、詩、神話とともに、遊びによって超現実の世界を創る。現代フランスの代表的知識人といわれるカイヨワは、遊びの独自の価値を理性の光に照らすことで、より豊かになると考え、非合理も最も合理的に語ってみせる。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示し、これを基点に文化の発達を考察した。遊びの純粋な像を描き出した遊戯論の名著。
目次:
日本版への序文 (ロジェ・カイヨワ、1970年)
序論
第一部
 一 定義
 二 分類
  (イ) 基本的範疇
  (ロ) 喧噪から規則へ
 三 遊びの社会性
 四 遊びの堕落
 五 遊びを出発点とする社会学のために
第二部
 六 遊びの拡大理論
  (イ) あり得ない組合せ
  (ロ) 偶発的な組合せ
  (ハ) 根源的な組合せ
 七 模擬と眩暈
  (イ) 遊びと文化との相互依存
  (ロ) 仮面と失神
 八 競争と偶然
  (イ) 変遷
  (ロ) 能力と運
  (ハ) 代理
 九 現代社会への再湧出
  仮面と制服
  縁日
  サーカス
  空中サーカス
  人真似し茶化す神々
補論
 一 偶然の遊びの重要性
 二 教育学から数学まで
  1 教育心理学的分析
  2 数学的分析
 三 遊びと聖なるもの
参考資料
  昆虫における擬態
  メキシコの「ヴォラドレス」における眩暈
  オマキザルにおける破壊の喜び
  スロット・マシーンの発展、それの生んだ熱狂
  偶然の遊び、星占いと迷信
  蟻の「麻薬」嗜好
  成人儀礼のメカニズム
  仮面による政治権力の行使
  スターへの同一化の強さ。たとえばジェームス・ディーン崇拝
  秩序ある文明の中への眩暈の再湧出。
    一九五六年一二月三一日、ストックホルムの事件
  仮面、恋の手管と政治的陰謀の道具。
    秘密と不安の象徴。すなわちそのいかがわしい性格
訳者解説――ホイジンガからカイヨワへ (多田道太郎)
遊びを考えるための文献リスト (井上俊)
訳者後記 (多田道太郎)
文庫版のためのあとがき (訳者)
遊びの索引



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