批判のエロス ―消費文化のなかの「天皇制」 (クリティーク叢書) 浅見克彦著 1991/06/20 青弓社

批判のエロス ―消費文化のなかの「天皇制」 (クリティーク叢書) 浅見克彦著 1991/06/20 青弓社

『愛する人を所有するということ』の前に

著者(以下、彼とか著者とか言う)は、私が唯一個人的に知っている「学者」です。そして、この本は私が唯一(ちょっとだけ)関わった本で、彼から頂いたものです。当時、彼の部屋に行ったときに、前に出した本が山積みになっていた記憶があります。「執筆料の代わりにもらった」と言っていたっけ。著作料が現物支給なんて、学者は大変だなあ、と思いました。あの大量の本はさばけたのでしょうか。

もう30年前になるんですね。頂いたときは一生懸命読もうとしたのですが、まったくわかりませんでした(汗)。今回、『愛する人を所有するということ』と一緒に本棚で見つけて、読み返すことにしました(『愛する人を所有するということ』の感想は後日)。

この本ではいくつかの本(著作)が取り上げられていますが、私は一つとして読んだことがありません。私の知識は30年前の彼に全然追いついていないわけです。私は何をしてきたんだろうと寂しくなります。

でも、彼が当時抱えてきた問題点がわかるような気がします。マルクス主義(とその運動)に対する行き詰まりや富山県立近代美術館での事件など、さまざまなことがあったでしょう。私はいまだに感じています。民衆はなぜわかってくれないのか。でも、民衆を抜かして運動はありえない。「民衆のため」の運動をしているのであって、自分のために運動しているわけではない、と思いたい。「ヴ・ナロード」で本当に(自分のために、民衆のために)いいのか。彼らはなぜ挫折したのか。ロシア革命とは何だったのか。連合赤軍のどこが間違っていたのか。ペレストロイカがソ連崩壊に結びついたのはなぜか・・・。挙げれば切りがありません。

世の中(世界)は変わったか

それらの問題は、いまでも解決されることなく、そして、話題にもならなくなりつつあります。彼をふくめ、みんなが一生懸命にやってきたことは、どこかに吸収されて無くなってしまったのでしょうか。

それでも民主主義は進んできた、という人があるかもしれません。「ジェンダー平等」「〇〇ハラスメントの告発」「環境に対するSDG's」など、「世界は良くなった」と思っている人も多いかもしれません。「介護保険制度」が施行されたのが2000年。男女雇用均等法ができたのが1972年、その後もさまざまな「ハラスメント関連法」ができています。でも、それで日本(社会)は「良くなった」のでしょうか。

私にはそうは思えないのです。いやむしろ、「より悪くなった」とすら感じています。それは単純なことで、当時聞いたこともなかった「ジェンダー」「ハラスメント」「SDGs」などの言葉が、マスコミで盛んに取り上げられているのですが、私にはいまだにその意味がよくわからないのです。ネットを調べると、その解説らしきことが「丁寧に」書いてあるのですが、どうもわかったようでわかりません。逆に、昔の年寄が「横文字を使うな」といった意味がわかるようになってきました。大臣や官僚はわかって使っているのでしょうか。「平等はいいことで、不平等は悪いこと」「ハラスメント(いじめ)は悪いことで、告発(ちくり)はいいこと」「環境破壊は悪いことで、経済発展はいいこと」など、それらの言葉は直接感情に訴えます。そして「善悪(快・不快)」として、からだのなかに「肉化」していく(いる)のですが、最近は著者の言う「根拠」がない(無根拠性)ように思えて仕方がないのです。

どうして「不平等は悪いこと」なのか、わかりますか。「そんなの説明するまでもなく当たり前だろう」と言われるでしょうが、その「説明するまでもなく当たり前だろう」という感覚は、彼が歴史や伝統、あるいは天皇制の権威に感じた「無根拠性」と似ているのではないかと思うのです(彼がそう感じるかどうかはわかりませんが)。

過去に書いたもの

私はこのブログに記事を書いていますが、以前に書いたものを見直すことはほとんどしません。それは前回書いた内容と、いま自分が思っていることは明らかに違うからです。もちろん、自分が書いたものですから、同じところもたくさんあります。でも、違うのです。その間に読んだ本や経験、その時の体調などが違うからです。ましてや5年前、10年前に書いたものなど、別人が書いたようなものです。自分が書いてブログで公表したものですから、その責任は私以外にはないのですが、それを取り上げられてもなあ、と思います。世の中の「著作家」とか「文筆家」(とか「学者」とか)はどうなんでしょうか。作家でなくても一般の仕事でもそうですよね。過去に行った仕事を褒められること(自慢に思うこと)はいいけど、それをどうこういわれるのは嬉しくないですよね。

彼も30年前の著書について云々言われるのは本意ではないかもしれません。ですから、万が一、彼がこの文章を読む可能性を考えて、なるべく「この本を読んで考えたこと」的に書こうと思います。


第1章で考えたこと

民主主義

私は伊藤整(1905-1969)の作品は一冊も読んでいないと思います。当然『近代日本人の発想の諸形式』も読んでいないので、彼が書きたいことについてもわかりません。

逆にいえば、「戦後民主主義」の舞台裏では、ラディカルな社会批判者に対して、かつての「私小説家」に対する破壊的圧力に勝るとも劣らぬような、非論理的で不合理な拘束と攻撃がかけられている。そして、まさにその舞台裏の非論理的で不合理な拘束の関係ことは、表舞台で演じられるまやかしの「民主主義」の存立を支えている、支配の根拠に他ならないのである。(P.28-29)

私が大学生だったのは、学生運動の炎が消えて、燃えカスの煙がまだちょっと残っている頃でした。私には一時ある「セクト」の友人がいました。その友人といる時には、私服公安が下手な監視をしていましたが、そのうち、私にも一時公安がつくようになりました。当時は就職の採用時に、事前に学生の素行調査をやっていて、雇用者には公安の情報も流れるといわれていた頃です。

無事(?)就職はできたので、それが単なる噂だったのか、雇用者の度量が大きかったのか、私がとるに足らない存在だと公安が判断したのか、そのへんはわかりません。でも、雇用者が興信所を雇っていたのは本当のようです。それが(その噂が?)学生の活動に圧力をかけていたのは事実でしょう。

就職してからは労働組合の役員をやったりしていましたが、上司からは「そんなことをやってると昇進できないぞ」と言われました。それは別にいいのですが、あることがあって、当時の組合の委員長から非論理的な恫喝をされたことがありました。「あなたのしていること(組合とも会社とも全く関係ない)は色々と情報が流れてきています。もし本当にそれをやるんなら・・・」などと。結局当局からも、組合からも弾かれたサラリーマン生活でした。

物質文明

また、産業主義的価値観を絶対不変のものとするふるまいは、その批判者に対抗する際に、しばしば、社会の大勢が求める産業的「豊かさ」を否定することなど、現実的な検討に値しない、という「論理」をもちだす点で、明らかに非論理的な同調主義をその特徴としている。(P.40)

日本のマスコミが「SDGs」ということを盛んに言い出したのはそれほど昔のことではありません(私が気づかなかっただけかもしれませんが)。30年前には間違いなくなかった言葉です。当時は高度成長が終焉し、公害が「問題」から「常に既にあるもの」になっていました。全国にコンビニが乱立し、「安くて便利」なことが最重要でした。

私の母は「終戦当時は物がなくてねえ。今の人はなんでもあって、便利になって、幸せだよねえ」と繰り返し言っていました。「幸せ」かどうかは別として、「物(商品のこと)が豊富にあるのはいいこと」「安いことはいいこと」「便利なことはいいこと」という「産業的豊かさ」を私自身を含めて追求していたことは事実です。「科学的(学問的)」ということと「産業的」ということは「表向きは」別なことだと思われていました。私も、科学や学問は産業(文化や時代)から独立して存在すると思っていました。そして、「科学的」なことは「無根拠」に「いいこと」でした。

現代の産業社会は、高度な大衆消費文化によって支えられているが、その文化に浸された人々の消費行動は、企業のマーケティング戦略が通用するような、ある種の同調化傾向をもっている。(P.40-41)

この歳になってくると、体の自由がだんだん効かなくなってきます。「便利」「楽」というのは年寄りの欲求ですよね。社会全体が「便利」「楽」を求める社会というのは、高齢化社会(年寄が増えている)ではなくて、社会自体が「老齢化」していると言えるかもしれません。私の親の世代は、「若い人は羨ましい」と言いつつ、その便利さや楽なこと自体を否定しているところがありました。若い人にはついていけない、ということではなく、便利なこと、楽なこと自体に罪悪感をもっていたように思います。祖父母の時代は、罪悪感ではなく、それ(便利さや楽ではないこと自体)が「生きること」と直接結びついていたのではないでしょうか。便利ではないこと、楽ではないこと、面倒なことそのものが「生きている(充実している)」ということで、それは「つらいこと」ではなくて、それ自体が「たのしいこと」だったのかもしれません。

マニュアル

バブル崩壊があって、大学進学率が急激に上昇します。それとともに学生(高校生をふくめて)のアルバイトが常識化(常態化)し、奨学金を返すため(あるいは遊ぶお金、トレンドを生きるお金を稼ぐため)に働く、その上返せなくなるという状況が生まれてきます。私は働くこと自体が「苦しいこと」でした。「やりがい」を仕事とは別のことに見つけたかった(見つけるしかなかった)のです。仕事は「お金を稼ぐこと」だと割り切るしかありませんでした。仕事自体が面白いことでなければ、そこに「やりがい」を見つけるのはむずかしいことです。探して、なければ作り出すことは試みていましたが。いまのマニュアル通りのアルバイトは、ある意味「楽(らく)」かもしれませんが、そこに「自分の工夫」が入り込む余地はありません。笑っていようが膨れ面だろうが、マニュアル通りに体を使い、心を使うことが求められ、その対価として「賃金(お金)」がもらえるのです。自分がやっている仕事の意味を考えることは求められません。むしろ、それを考えずに「笑顔で耐える」ことだけが求められます。自分が扱っている商品について、それを使ったことも食べたこともないし、何が入っているかを知ることもありません。マニュアル通りに「商品のいいところ」を話すだけです。マニュアルには「必要かつ十分なこと」が載っています。マニュアル以外のこと(たとえそれが商品のいいところであっても)を話してはいけません。すぐにSNSに載せられたり、運が悪ければ訴訟になったりしますから。それによる損失が場合によってはアルバイトする本人に課せられるかもしれません(労働法上はそんな義務はないはずですが、ちゃんとした?企業であれば、労働契約書に書いてあるかもしれません。それを違法な契約だと証明するのは大変なことです。第一、「ここに名前を書いて」と言われたら、細かいところまで読むひとはいないんじゃないでしょうか)。

そして、この大衆消費における同調主義も、「人並み」「トレンド」といったものを求める性向である限りは、明らかに非論理的で不合理な性質をもつ。(P.41)

「人並み」「トレンド」「同調主義」を「日本(日本文化)」に特徴的(特殊)なもの、として許容(あるいは批判)されることが多いと思います。そしてそれを、「日本文化(日本人)の後進性」と言う人もいます。「はずかしいことだ」と。

私が若い頃は(そしていまでも当然なこととして)「お見合い結婚」は封建制の名残で悪いこと、「自由恋愛」がいいことなんだ、と思っていました。ところが、「モテない」私は、恋愛をしてくれる相手なんか現れません。好きになった人がこちらを向いてくれることもありません。好きな人に「好きだ」と言えない自分の性格(内気)をとても恥じていました。「自由ってつらいことだ」と感じつつも、「それ以上に自由は大切なこと」なんだと考えていました。

稀少性

私にとっては、愛(恋愛)も人間関係も家族も稀少性(イリイチ『H2Oと水』参照)でした。それらは大切で、得難いもので、失ったら二度と手に入らないものでした。愛・家族愛を描くドラマや映画をくだらないと思っていたのはその反動です。それらのドラマや映画では、愛、人並み、人間関係そのものを「尊いもの」であると同時に「得難いもの」として描きます。私は涙もろいので、そういうものを観るとついつい泣いてしまいます(笑)。

稀少であれば、必死に追い求めなければなりません。水と同じです。「世の中大切なものはお金じゃない」と思いながらも、それらを買わなければならないのです。商品を一つの自然(既成の社会的条件)として生きていくこと、「稀少性」はそれを強制します。私はそれを「肉化」していました。

いや、むしろ多くの人々は、社会批判を理解できるだけの良識を、一つの「みだしなみ」としてもっている。しかし、それはあくまで正論の純粋さが意味をもつ「理解」の世界でのことであって、人はその純粋な正義を「理解」できた自らの良識に満足しつつ、実生活の世界では、再び同じように非論理的で不合理な同調主義に服してゆく。(P.43)

エコ、自然保護、SDGs、男女平等(最近ではジェンダー平等などという)、自由、などという翻訳語(漢字熟語)がまかり通り、横文字が飛び交えば人々は満足します。そして「そんな綺麗事を言っても」「背に腹は代えられぬ」という非合理が優先されます。それが商業主義的に「商品」となるのですが、それらはパラドクスでも、日本の後進性でもありません。イリイチの「希少性」という考え方はとてもしっくりと感じます。稀少だからこそ、「背に腹は代えられぬ」ものとして、それらを求め、作り、お金を払うのです。

老い

物(もの)・自然などの空間の稀少性と同時に、時間も稀少性となっています。だから、歩かずに自動車に乗り、飛行機に乗ります。つまり、お金を使います。言い換えれば、時間が商品となり、それを買っているわけです。人生は有限です。長くてもせいぜい100年。短い場合は・・・。2023年の平均寿命は男子81歳。これは2023年に生まれた人の平均寿命(余命)ですから、私は生まれた年の平均寿命を見なければなりません。それは男子65歳で、すでに超えました(笑)。ちなみに、2023年における65歳の平均余命は約20年です。そんなに生きる気力はありません。この厚労省の表を信じて、20年ローンなんか組んではいけません。

若い頃だって、私は歳を取ること、自分が「いずれ死ぬ」ことを知らなかったわけではありません。でも、そんなことは真剣に考えませんでした。自分はいつまでも若いのだと。引退して年金生活をしている人を馬鹿にしていました。老いを見つめた名作、ボーヴォワールの『老い』を読むのが辛かったのは、なぜ日本や西洋社会で「老いること」が嫌悪されるのか、現象は書かれていてもその理由が書かれていないからです。

老年の悲劇は、人間を毀損する、このような人生のシステム全体への根元的断罪である。このシステムはその構成員の圧倒的多数者にいかなる生存理由(いきがい)をもあたえない。労働と疲労がこの〔生存理由の〕欠如を隠蔽している、そして定年の瞬間にそれがあらわになるのだ。これは退屈よりもはるかに重大である。年を取ると、勤労者はもはや地上に自分の占めるべき場所をもたない、しかし実はそれは、彼が一度としてそのような場所をあたえられたことがなかったからなのだ。ただ彼はそれに気がつく暇がなかったのだ。それを悟るとき、彼は一種痴呆的な絶望におちいる。(朝吹三吉訳、人文書院、上巻、P.319-320)

ここに書かれている真実は衝撃的です。「若い頃も居場所があたえられなかった」のです。そして、若者はそれを老人に転嫁して、自分の境遇を見ないようにするのです。

だから、若いことに価値があります。「若さ」つまり「時間」は稀少性なのです。老人にとっても若者にとっても。「若さ」が価値なのはアイドルだけではありません。アイドルを時間のスケープゴート(いけにえ)にして、自分の時間を忘れるのです。

時間が限られていれば、つねに「焦って」いなければなりません。私はつねに焦っていました。そして、先が見えてきた現在はさらに焦っています。

でも、ボーヴォワールは、なぜ「居場所」をあたえられないのかは書いていないように思います。もし、全員ではないにしても、多くの人が生まれてから死ぬまで居場所をあたえられていないとすれば、どうしてそれを「おかしい」と思わないのでしょうか。おかしいと思わない「民衆」の気持ちを離れて、ボーヴォワールの「居場所」はあるのでしょうか。それを政治のせいだ、(資本主義)社会のせいだ、(西洋)文化のせいだ、と言ったとしても、それが「居場所」をあたえることにはならないではないでしょうか。


第2章で考えたこと

サインの文化

画家が自分の作品に署名をしたのはいつ頃からでしょうか。多分、近代(ルネサンス以降)からです。そこには「私(自己)」がどういう社会的位置にあるのかということが関わっています。加藤周一は『現在のなかの歴史』の中でこう言っています。

芸術家がものをつくるのは、すでにつくられた形に、新しい形をつけ加えるためである。別の言葉でいえば、彼のつくる形の意味は、すでにつくられた形の総体との関連においてのみ定義される。その場合に、芸術家にとって、自己を表現するかしないかは、第一義的な目的ではない。(中略)芸術を越える何ものかが、芸術全体の意味を保証するとき、その全体に新しい要素を加えること(創造)が芸術家の目的となり、彼自身の自己の表現はそのための手段となる。(『現在のなかの歴史』新潮社、P.15)

それが、「自己表現第一」になると、

芸術家の目的と手段との関係は、ここではほとんど逆転し、かつての手段(自己表現)は目的となり、かつての目的(創造)は手段となった。(同書、P.16)

私はその現象を見つける第一の要素が「署名」だと思います。逆に、署名そのものが自己表現ともなります。デュシャンの「レディ・メイド」などがそうですね。署名がその作品の価値を左右します。「贋作」がはびこるようになります。署名と「著作権」とは直接の関係はありません。著作権は作者のために作られたのではなく、それを扱う出版社のために作られたものですから(エリク・ド・グロリエ『書物の歴史』参照)。

自己表現、あるいは「自己そのもの」が目的となった社会、これは近代西洋社会そのものです。「自己そのもの」、これを「自我」とよぶことにしましょう。自我はそれ自身を目標とするがゆえに、「非自己」として「他者」を作り出さざるをえません。「他者」は「他人」だけでなく、動物や植物、自然など、自己にとって外的なものすべてです。他者に自我を認めたとき、「一般的(普遍的)自我」として「主体(主観)」が現れます。

なるほど、テクノロジカルな合理性が支配する社会では、社会的正当性問題が風化しており、諸主体は、現状肯定的なふるまいの内にナルシスティックに閉塞しているから、その悪無限を脱出するために、芸術的仮象を通じて諸個人を現実世界の秩序から自立・疎隔させることは、魅力的だといえよう。(P.58)

こうした関係のなかでは、芸術は、生活世界でテクノロジカルな合理性によって抑圧されている主体を観念的にリフレッシュし、その支配に安んじて耐えてゆけるようにする、一つの支配安定化装置にもなりかねない。(P.59)

欲望の幻想的な解放が現実世界での支配・抑圧を支えるというパラドクス、これこそ、芸術の自律性がもたらす危険に他ならない。(同)

差別を描くドラマや映画が、差別の存在を既成事実化し、それを許容する意識を生み出します。なぜなら、平等概念そのものは問われないからです。なぜ差別がいけないのかが問われないからです(無根拠性)。一番(最も重要な)の稀少性とは「自我」です。いや、言い方を変えれば、稀少性とは自我そのものです。自分を守るためなら自我は何でもするのです。ハラスメントでも犯罪行為でも。自我は戦わなければ(闘争しなければ)ならないのです。自我はそれを運命づけられています。勝つことのみが自我の存立条件です。たとえそれが戦争であっても、経済競争であっても。だからこそ、その闘争において求められるのが「自由」であり「平等」です。

どうして自我は、相手を人格として(対等な自我として)認めなければならないのかはよくわかりません。「騎士道精神」のようなものが影響してるのでしょうか。イメージですが、日本の「武士道」と違って、騎士道には「女性(ヒロイン、プリンセス)」が関わっているように思いますが、映画の観すぎでしょうか。女性に限らず勝利者には「賞品(prize)」がつきもののような気がします。武士道はそうじゃないような(完全に映画や時代劇の影響ですね)。

弱肉強食

どの文化にも闘争のようなものが見られますが、その多くは「負債(マイナス)」(たとえば辱め)を負った側が、その負債を埋めるために闘争が始まります(マルセル・モース『贈与論』、デヴィッド・グレーバー『負債論』参照)。対等であるからこそ、負債は埋め合わせなければなりません。しかし、(近代)西洋文化における闘争は違うのではないでしょうか。「弱肉強食」などという考えは「負債」とは関係ありませんね。それはむしろ「対等ではないものの闘い」です。

パラドクスのようですが、繰り返します。だからこそ「自由」と「平等」が必要なのです。植民地支配や奴隷制度があった西洋が差別にことさらうるさいのはそのためではないでしょうか。私は「ボランティア」という言葉が嫌いです。そこにどうしても「偽善」的な匂いを感じてしまうのです。強者が弱者に対して行う「施し(ほどこし)」のようなものを感じてしまいます。「自我の優越性」のようなものを感じてしまいます。西洋人には違うのでしょう。「ボランティア」は「自発的、自主的、自由な行為」というような意味ですね。そこには確固とした「歴史的自我」があります。人より少し強いだけで、にわか仕立ての私の自我は、それを受け入れません。いまの日本の若い人は、きっと私とは違う感覚なのでしょう。

若い人の「有名になりたい(アイドルになりたいetc.)」とか「認められたい」という思いは、私の感覚と似ているかもしれません。逆に西洋で「存在理由(raison d'etre)」と言われるのは、同じような理由なのでしょうか。それは日本的解釈でしょうか。いずれにしても、どの時代、どの文化でも、どの人間にも「同じだ」と考えることは「独我論」(本書、P.107。柄谷行人『探求Ⅰ』、講談社文庫版、P.12)でしょう。


第3章で考えたこと

稀少性と過剰

人類学的な最低生活必要量に対応する第一次的欲求というのは、一つの神話であり、生活上の意味・価値について、実用と「遊び」の間に境界線を引くのは本来無理なことである。もちろん、生活を支える欲求充足の下限を論理的に想定することはできるが、象徴的・創造的文化の創出が人間の本性である以上、そうした最低限の欲望自体も、やはりある「過剰」な文化価値を帯びたものとして追求され充足されるのを宿命としている。はじめに「過剰」ありき。(P.95)

近代西洋において、「稀少性」「仕事(まじめ)」というものが、「過剰」「遊び(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』参照)」に対応するものとして登場してきました。「始めに言葉ありき」と同じ仕組みで、「はじめに「稀少」「仕事」ありき」という「神話」が生まれてきたと思います。「弱肉強食」「生存競争」とか「自然淘汰」なども同じです。たしかに、ライオンがジャッカル?狩りする映像は強烈です。でも、それでライオンが世界にはびこり、ジャッカルが絶滅したりするわけではありません。動物の世界でも、植物の世界でも、動物と植物をあわせた「生態系(と言われる)」の世界でも、強いものが勝ち残り、弱いものが絶滅するなどということはありません。それは、西洋的自我が、自分たちを動植物に投影したものでしかありません。

「選民思想」の一つのルーツはユダヤ教です(「選ばれた民」、旧約聖書)。そしてそれはキリスト教に引き継がれました。ナチスドイツがユダヤ人を迫害したのは皮肉ですし、当然の結果だともいえるでしょう。そこにあるのは強烈な主体、自我です。

「稀少性」が神話だとすれば「過剰性」も神話です。ジャッカルが絶滅しないのは、ライオンの「食欲」に対して、ジャッカルの数が「過剰」だからと説明されたりします。それは論理的説明でしょうか。なぜ、ジャッカルは「過剰」だったのでしょうか。多分、説明は堂々巡りになるでしょう(ライオンの数が少なかったから、とか)。そこに導入されるのが「偶然性」という「概念(?)」(たとえば「突然変異」)ですが、それを論理的説明と言うには無理があります。それは論理を越えたものか、説明の放棄です。自分の食欲以上に狩りをする文化というのはきわめて珍しいと思います。だって、食べられないのですから。農業によって過剰の生産物ができ、貧富の差や商業が始まった、と言われることがあります。そうでしょうか。私には疑問です。飢饉に備えて備蓄が始まった、という説明を聞くこともあります。私はそこに「稀少性に基づく自我」の匂いを感じてしまいます。私自身がそうだからです。余分に持っていないとなにか落ち着かない性分だからです。100(必要かつ十分な量)を持っているだけでは不安です。110、120・・・を持っていて(「所有」していて)初めて安心するのです。100を切る(80や90)ではとても不安で焦ってしまいます(私の人生はもう20も残っていないでしょう)。

100円ショップ

だからこそ、ポスト・モダン情況の基本的特徴づけとしては、選択・代替的相対性の存在ということだけでなく、その顕在化という規定が必要なのである。言い換えれば、そうした関係が、生活世界の中の行為者によって自覚されている、ということが問題なのだ。(P.96)

しかし、より重要なもう一つの原因としては、諸資本自身が、差異化を求める消費欲求を誘発するシステムを作り上げていることを挙げないわけにはいかない。(P.97)

「消費選択」や「差異化」は、いまでは当たり前の議論ですが(斎藤幸平『人新世の「資本論」』参照)、当時はどうだったのでしょうか。「少品種大量生産」から「多品種少量生産」へ、とか、消費者の欲望(あるいは社会)の多様化、とか様々な説明があろうかと思います。それを「供給過剰」から説明することも可能です。商品が過剰だから「選択の余地がある」、「差別化をしなければ自分の商品が売れない」と。そうでなければ、「選択などしていられない」「差別化しなくても商品が売れる」から。最近は「フードロス」という言葉が盛んに流れます。そして、「フードロスをなくすための商品」が新たな商品市場をつくりだしています。経済学的な話はしたくありませんが、「ゴミが使えればゴミでなくなる」というCMや、「二酸化炭素排出権の売買」と同じです。

私は、それは「過剰」ではなく、稀少化と言うべきだと思います。それを求めざるをえないということです。100円ショップの商品でも差別化はありますが、「買わなければならない」のです。AとBを選んでいるのではありません。AあるいはA'(A''、A''')を買わざるをえないのです(Bという選択肢はないのですが、私は「AとBに使える」という謳い文句の「C」を買ってしまい、後悔することがしょっちゅうです)。買わないという選択肢は、なにか罪悪感のようなものを与えます。それが著者の言う「選択・代替的相対性の存在の顕在化」であり、「差異化を求める消費欲求の誘発」です。

個性

それと同じく、文化的価値をさまざまな面でその都度「最高の選択」として追求できるにしても(もちろん大方は観念と会話の中でしかその選択センスを発揮できないのだが)、その際に生活価値を人為的に差異化するセンスが、まさに人工的なものと自覚されている以上、人は「これこそ私のライフ・スタイル」という生活価値の準拠枠をもつことはできないし、またもとうとも思わないのだ。

この事態は、言い換えれば生活をめぐる真/偽価値の陳腐化を意味する。(P.97)

自我は他者(他の自我、つまり一般的な主体)と、全体的な「社会」を構成します。自我は、社会(抽象・普遍・全体)を構成する部分(具体・特殊)としての「個人」になります。特殊な主体としての個人は、「個性(個体性)」を持ちます。そうすると、普遍(種)の部分として「均一性(同じ、平等)」としての「個」と「個性(自己同一性)」との間に矛盾が生じます。これが「ゼノンのパラドックス」同様に、西洋哲学を悩ませてきたものです。私が学生時代に学んで、結局分からなかったヘーゲルの弁証法では、解決しないのではないでしょうか。これは難しい問題ではなく、もともと「ない」問題だからです。

私とあなたが同じなら、どちらかの「存在理由」はありません。ドッペルゲンガーは「抹殺」しなければ、自己同一性(アイデンティティ)あるいは「自己承認」は成立しないのです。「差異化」の根源はこの辺にありそうです。

最近流行りの「推し」は稀少性です。「恋愛の相手」も稀少性です。共同体内の「相手」は稀少性(ウィトゲンシュタインの言う《他者》)ではありません。同じ「コード」を共有しているからです。流行(トレンド)は、コロコロ変わります。というか、コロコロ変わるから「流行」なのです。その変化を受動的に受け入れるのではなく、むしろ、積極的に差異を求めるのが自我です。他人と違うことを求め、を作り出すのが自我です。自我が《他者》を必要とし、求め、作り出すのです。

こうした事態が重大なのは、それが個々人のアイデンティティの不安につながるからである。他者との関係においてばかりでなく、自分が選択する諸価値相互の関係においても、異種混交性があたりまえのことになってくると、「私の生活価値はこれこれしかじかだ」という自己了解が困難になり、人は、意味的存在としての自己同一性を実感しにくくなるわけである。(P.98)

文化価値における意味的な自己同一性が不安定化した個々人にとっては、行為世界での自己同一的な実在感も希薄化してしまっている。(P.99)

「アイデンティティ(自我同一性)」という言葉は、小此木啓吾の本で始めて見たと記憶しています。当時、心理学に興味があったのですが、意味はよくわかりませんでした。どうして自分で自分を自分だと思わなければならないのか。いまでは日本語のように使われる言葉ですが、いまだに実感が湧きません。小此木啓吾がエリクソンの『自我同一性』を翻訳し出版したのが1973年(原書の出版は1959年)。「ここはどこ?わたしはだれ?」というのは、1980年前後に流行ったんだそうです(にこにこ大百科)。40年前です(アメリカドラマ『ルーツ』や「自分探し」なども流行りました)。私は「アイデンティティ・クライシス」をこのような自我崩壊、自己喪失的な意味だ(つまり病的状態)程度に考えていました。だから、西洋でなぜ「アイデンティティ」がこれほど大切なのかが分からなかったのです。

いまでは日本語のように使われるこの言葉なので、若い人は実感として(肉体的に)わかるのかもしれません。多重人格がドラマでよく放送されるので、そういう意味で理解している人も多いのかもしれません。恒常的に差異化・相対化される近代社会(資本主義社会)は、アイデンティティが崩壊されること自体が求められています。いま(の自分)に満足してはいけないのです。つねに「別の」「新しい」自分でいなければなりません。それが社会の原動力とすら見られています。

生活世界は、いささか嫌気がさすほど人を走らせる、「過剰」な意味・価値にあふれている。(P.102)

もの(意味・価値)があるのに、食べれない・手にできないという「過剰」。それは稀少性の裏返しでしかありません。そこに過剰の面を見るのは、生産性や進歩を認める立場で、生産性や進歩を認めない私は稀少性の面を見ます。

「私は・・・」と言ったとき「私」は私にとって他者です。対象としての存在です。アイデンティティとは、対象(客体)としての自己に、主体としての自己を同一化しようという試みです。もちろん「私」は(あるいは言語は)私が作ったものではありません。それは草花や自然同様、自己の外にあり、対象として存在しています。自己は直接自己を見ることができません。自己を対象に投げ入れること(疎外、投影)することによってしか自己を見ることができないのです。話したことを聞くことによってはじめて、自己が存立します。デリダの言う「差延」です。

「ことば」になる前のもの

それでは「話される前のもの」とは何でしょうか。それは「ある」のでしょうか。サピアは『言語』でこう言っています。

すべての言語の潜在的な内容は、同一である。  すなわち、経験についての直観的な科学である。二度と同一でないのは、外に現れた形式である。(岩波文庫版、P.377)

サピアは、ことばになる前のもの、言い換えれば「表わしたいこと」や「感覚」「感情」「経験」があって、それを表現するのが各々の言語だ、というわけです。たとえば、赤い花を見て、日本語なら「この花は赤い」といい、英語なら「This flower is red.」と言うということです。表現は違っても、感覚は同じ、だって人間だもの(?)。でも、英語を話す(母語とする)人と、日本語を母語とする人は同じ経験をしているのでしょうか。女性のおっぱいを眼にしたとき、日本人と、アメリカ人と、キューバ人は同じ経験をしているのでしょうか。私は違うと思います。そして、それから生じる感覚(感情)もまったく違うと思うのです。大人と子供は違うだろうし、現在の日本人と、戦前の日本人でも違うと思います。それでも現在の自分が感じることは、万人が同じように感じるだろうと思うのは「独我論」です。

柄谷は、《他者》とは何かについて、積極的に語ることを自己に禁ずる。それは、ポジティヴな実在として記述されたとたん、ある同質的な言語ゲームを前提する、独我論的主観性の地平に送り戻されてしまうからだ。それは、あくまで《非ー在》としてしか、つまり哲学・思想がその規則に基づいてコミュニケートできないものとして、否定的にしか示されないものなのである。(P.109)

私とあなた、日本人とアメリカ人、現代人と縄文人、もっと言えば人間と植物、はコミュニケートできるでしょうか。普通は「同じコードを共有する程度」によってできると考えるでしょう。植物とコミュニケートすることはできるでしょうか。一般には「擬人化」と言われるでしょうが、植物と話ができるという人もいますし、様々な実験もされているようです。少なくとも、葉っぱが萎れてきたら水をあげたりするのも一種のコミュニケーションといえます。縄文人はどうでしょうか。私は偏見の塊ですので、縄文人は「劣った」思考をしていて「拙い」言語を話していると思ってしまうので、「基本的な(一次的な)」会話しかできないんだろうな、と想像してしまいます。縄文土器に岡本太郎のように現代芸術と同じ視線を投げかけることができません。私は同じ視線を、ラテンアメリカの文化にも投げてしまいます。欧米人にはどうでしょうか。「有名な」画家が描いた絵だと言われると、何が描いてあるか分からなくても「すごい」と思ってしまいます(笑)。

「芸術とはなにか」を書くのは別の機会にしますが、最近自分が嫌になるのは、絵を見るときに、つい「タイトル」を見てしまう(探してしまう)ことです。タイトルから絵の「主題」を見つけようとします。そして「誰が描いたか」を見てしまうことです。知っている人(有名な人)が描いたとわかると、再度その絵を見直します。作者もタイトルも一つの情報として、絵を見る時のコード(約束事)を形成(再構成)します。それは縄文土器を見るときと同じではありません。そのコードはすでに私の中にある、とも言えるし、そのたびごとに変わる、とも言えます。初見で作られたコードと、タイトルや作者を見たあとのコードはちがいます。既存のコードを元にしていると言えないことはありませんが、それを作り変えることによって「見る」という行為が成り立ちます。

出会った「あなた(他者)」はどうでしょうか。初めて会うのなら、服装や話し方などで最初の「コード」を作るでしょう。「第一印象」というやつです。長いあいだ付き合っている人でも、「意外なこと」はたくさんあります。そんなことに出会うたびに、コードは修正されます。

客観

コード(価値)が作品や人、あるいは「商品」に内在していて、主体(自我)はそれを実現するだけだ、というのなら、簡単です。そして、コードや価値は自我(主観)とは別に客観的に「実在」する、というのが科学の基本にあります。科学はその「対象」の中から「コード」を見つけ出すのが役目です。

「ことばになる前のもの」が「コード(文法)」によって「ことば(ロゴス)になる」というとき、多分それは、プラトンやアリストテレスの考えを引きずっているのだと思うのですが、アリストテレスは読んだことがないので、想像で書きます。

木材が机に「なる(である)」のは、木材という「基体(ὐποκείμενον、下に置かれるもの、前提されるもの、第一実体)」は、机という「形相(εἶδος)」を持つということです。つまりプラトンの「イデア ἰδέα」ですが、プラトンは現実の「机となった木材」とは別にイデアが存在する(イデア界)といい、アリストテレスは「机となった木材」そのものにエイドスがあると言ったと解釈されています。プラトンのイデアは目に見える対象とは別にあり、アリストテレスの形相は対象そのものにあります。その後、ヒュポケイメノンはラテン語 subiectum と翻訳され、subject 主観、主体等となっていきます。そして、形相を纏った基体は「ἀντικείμενον(向こうに置かれているもの、感覚に対する感覚対象(外的事物)、思考に対する思考されるもの)」、ラテン語の obiectum (前に投げられてあるもの)に受け継がれ、「object 客観、対象」となっていくのですが、それらの言葉は使う人によってまちまちで、かなりこんがらがっているようです(ギリシアに入ってきたキリスト教の影響も大きい)。まあ、プラトンはイデアを自己の側に見て、アリストテレスはエイドスを自己の外に見る傾向があったとはいえるのではないでしょうか。それは二人の性格や、生まれ育ちに関係しているのでしょう。アリストテレスにとっては、机そのもののなかに「エイドス、価値」があって、それを引き出す行為(言語化、構造化、価値化)が「カテゴレオー(κατηγορέω)」で、引き出されたものがコードや価値や言語(ロゴス)です。プラトンは多分、そうは考えなかった。イデアは対象の中にはないのです。それは自分(人間)の側にあって、存在(対象や自分の体)とは独立に存在します。机がなくても机のイデアは存在し、自分の肉体が無くなっても、自己(の魂)は存在しつづけます。

自己の外側に対象があって、すべての原理(原因)、意味、価値がそこにあるというのは、とてもわかり易いのです。でも、そこに意味や価値を見いだすのは自己でしかありません。他者が同じように思うと思うのも自己です。

「意味していること」が、そのような《他者》にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、”文脈”があり、また”言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができる  規則、コード、差異体系などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での飛躍」(クリプキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。(前出『探求Ⅰ』、P.49-50)

日本人は日本語の規則(文法)を知って日本語を話すわけではありません。学校で文法を習ったとき、「ああそうだったんだ」と思うのです。それを教えてくれた先生もきっと同じだったはずです。でも、一度習うと、文法に従って自分は話していて、自分のことばとは別なところに「日本語文法」がある、と思ってしまいます。きっとアリストテレスも同じだったでしょう。

でも、毎日話すたび、買い物をするたび「命がけの跳躍」をするのは疲れますよね。話すことは疲れますし、商品の売り買いも疲れます。商品をつくるよりもつかれるんじゃないでしょうか。ただ、実際はそんなことをしていません。

彼らはそれを知ってはいないが、それを行うのである。(大月書店『資本論』第一巻第一分冊、P.100、原書、S.88)

実際、私は考えてする行動(言語化して行う行動)、なんか日常生活ではほとんどありません。頭を掻いたあとに「頭が痒い」と思うし、服を脱ぎ始めてから「この部屋は暑い」と思います。「右足を出して、左足を出して」と考えて歩くのは、そう考えないとうまく歩けないときだけです。息をしないと死んじゃう、と思って息をするのは、息がしにくいときだけです。これらは「無意識に」行われますが、それらの行為は事後的にのみ、意識化されます。

私が「私」というとき、私が「他者」であるのと同様、私の体が意識化されるのは、それが他者性を帯びたときにすぎません。


第4章で考えたこと

無根拠性を批判すること

最後の章まで来ました。脇道によりすぎて、長くなってしまいました。

無根拠性に縛られた精神が、まさに論理的根拠を問題としない性質のものであるがゆえに、その意識態度の無根拠性と虚偽性を批判して、態度変更を迫っていくための、共通の論理的コミュニケーションの土俵が設定できないのである。(P.169-170)

著者は、その土俵をどこに設定しようとしているのでしょうか。著者は「学問(学者)」を「職業」としているのですから、「共通の論理的コミュニケーションの土俵」を必要としているのでしょう。学問のなかにとどまりながら、学問を否定すること。民衆のなかにいながら民衆を批判すること。これは「自己批判」そのものです。

論理(という文化)の中で、その論理(文化)的規範(という言葉があるかどうか知らないけど)に違反することを批判することは可能です。でも「論理」とはなんでしょうか。日本語(日本文化)に「論理(ロゴス)」はあるのでしょうか。キリスト教(一神教)、主語述語関係、空(上空から)の視点、などもふくめて「根拠」となりうるものはたくさんあって、それらの「根拠の根拠」は「思考そのもの」です。その背景は「存在そのもの」、つまり「語り得ないもの」「否定的にしか示されないもの」「語る(言葉になる)以前のもの」なのではないでしょうか。

そして、国家でさえ、自ら構成しうるものとしてではなく、「常に既に」構成されてしまっている環境と捉えられる限りでは、個体にとって「所与」の条件として存在するだろう。

しかし、あることが、自分の意志や判断に関わりなく決定された「所与」であるなら、個体にとっての根拠を問うことは不可能である。だから、民族性や文化環境や国家は、個体にとって根拠を問えないものとして存在するということができる。(P.127-128)

国家、環境、個体、所与、条件、存在、意志、判断、決定、根拠、民族、・・・私は、どれもに「主体性」という前提が見えてしまいます。これらの多くも明治以降、翻訳のために作られた翻訳語、あるいは転用された言葉です。日本では古くから、仏教用語や中国思想を表わした漢文の文化があります。文化といっても、文字の読み書きができる人はごく少数でした。明治以降、大量の西洋文化が流入するとともに、識字率も急上昇しました。「西洋に追いつけ追い越せ」という号令とともに、西洋思想は「ハイカラ」で「すぐれた」思想としてどんどん取り入れられたのですが、それらのことばと内容(?)が同じだったわけではありません。たとえば「個人主義」という言葉と「エゴイズム(利己主義?)」とはどう違うかと聞かれると、すぐには答えられません。それは、日本には「個人」も「社会」もなかったからです。それを日本の後進性だという人もいますが、それじゃあ「個人主義」や「エゴイズム」でいいんですか、という問いには(すぐには)答えられないと思います。

「批判」という言葉も、もともとは「判断」するという意味だったようです。

先に、「主観」「客観」という言葉で少し書いたとおり、それらの言葉はヨーロッパで長いあいだ使われて、その意味は時代とともに変遷してきました。それが西周や福沢諭吉等によって日本に紹介されたときは、彼らが学んだ当時の、主に彼らが留学した先で流行していた学説を、彼らが解釈し、日本語(漢語)にしたものです。彼らの外国語や、漢文、古典に関する膨大な知識から翻訳語は生まれています。

それらの翻訳語がすぐに日常会話に使われたわけではありません。「書き言葉」と「話し言葉」は違っていました。だからこそ表現者(たとえば小説家)は「言文一致運動」を起こすわけです。でも、違っていたのは単語だけではありません。文体だけでもないのです。日本になかったものは、単語を作ってもできるわけではありません。でも、それらの思想の導入者はそのなかったものを作ろうとします。それを推し進めたのが、学校教育です。イリイチは「教えられた母語」と「ヴァナキュラーな話し言葉」という区別をしていますが(『ジェンダー』岩波現代選書、P.171)、明治以降の書き言葉は印欧語文法に基づいた翻訳的な文章です。日本語の文字文章は、漢文、漢文を読み下し文にしたものから始まり、戦後はテレビの普及とともに、爆発的に一般化しました。と同時に標準語(共通語)が「正しい日本語」となっていきました。翻訳語が主流となったというよりは、方言に代表されるヴァナキュラーな話し言葉が駆逐されていった、というべきなのかもしれません。言葉がなくなるということは、文化がなくなるということです。アルバイトが話すマニュアル語は、日本語に特有な尊敬語や丁寧語(本来の使い方とは思えませんが)を過剰に盛り込みつつも、論理的な文章(クレームが来ない文章)になっています。

「論理(ロゴス、ロジック)」というのは、印欧語の文法にほかなりません。そして、それに基づいた文章が推薦され、それを日本語にこじつけた学校文法が教えられています。多分、私より私の子どもたちのほうが「論理的」な言葉を話しているのでしょう(いまは小学校から英語を教えるというし)。親父の言うことはわからない、と思われているフシがあります(笑)。昔から年寄の言うことは古臭い(劣ってる)と若い人は思っていて、それに反発して新しいことに挑戦する、それが文化を発展させた、というような「歴史観」がありますが(ドラマの影響が大きい)、そういう意識が高まったのは、日本でも、西洋でもせいぜい200年くらい前からではないでしょうか。

身体性

言葉(ロゴス、論理)で論理を批判することには限界があります。翻訳語のような「教えられた言葉」を発した途端に、それは論理に絡め取られてしまいます。

こうした意味で、天皇と皇室のグラフィカルな代理表象は、その人間的個体の具体的存在感を剥ぎ取った、実に曖昧なイメージをもたなければならない。(P.146)

キリストやブッダなどの教祖と同じですね。セックス(生理行為)は排除されています。自己(他者)への配慮が自己(他者)の制御となった歴史についてはフーコーを読んでいただくとして(『性の歴史』)、血(血縁)とセックスは分離されたのでしょう。しかし、それも近代以降のことです。国王(支配者、権力者)が養子をもらうのは普通に行われていたし、血縁関係のない人が次の支配者になることも制度化していたように思います。「万世一系」なんて神話を信じていた人なんていなかったんじゃないでしょうか。だって、近所で養子が家を継ぐことなんて不思議でも、珍しくもなかったんだから。

批判のエロス

ヒロヒトにつきまとっている、戦争の死と暴力と狂気のイメージ、これを自らの象徴的イメージとして継承しないこと、そして普通の「庶民」と同じように、愛の家庭を守るために平和で自由な世界を求める「民主天皇」という新しい象徴的イメージをアキヒトに与えることが、彼の統合支配機能を確保するためにはどうしても必要なのである。(P.163)

暴力とエロスは同時に語られます(平岡正明の文章に、「対話より暴力が、暴力よりセックスが直接的に影響を与える」というようなものがあったような気がします。探したけど、見つけられませんでした)。

生と死、どちらも〈自我〉にとっては「不条理」なものです。暴力・破壊がもつ「エロス」と「タナトス」。どちらも相補的なものです。そしてそれらは、「主体(主観)」と「対象(客観)」が生み出したもののように思えてなりません。その現代の「主客構造」は、プラトンが生み出したものでも、アリストテレスが考え出したものでもなく、また、キリスト教に内在していたものでもないような気がします。

でも、その主客構造が世界を支配しつつ、いや破壊しつつあります。その原因を説明することはできるかもしれません。ただし「事後的」にです。

そして、そこから生ずる「生理的」違和感や嫌悪感の自覚を通じて、なぜ象徴の権威が守られねばならないかを問題化し、それまで無根拠に受容されてきた象徴の価値的根拠を問うコミュニケーションの「場」を呼び込むことができるはずである。(P.171)

非論理性に論理で対抗することがなぜ難しいか。非根拠性に非根拠性(非論理性、生理的違和感・嫌悪感)、あるいは「物象化された意識」に「行為的世界」・「現実の生活世界」で対抗することが可能なのか。私にはいまでもわかりません。「訳のわからないことを言ってないで、ちゃんと考えなさい」「考えてばかりいないで、体を動かしなさい」「命がけ(自分だけでなくて、妻や子供の命も賭けて)で頑張りなさい」・・・。私には無理です。

《他者》が「コードを共有しないもの」だとしたら、コミュニケーションの「場」は成立するでしょうか。成立するとしたら、それは「事後的に」であり、さらに「命がけの跳躍」が必要なのではないでしょうか。

そこには神もいないし、自分すらいないかもしれません。

このような極端な例は、右のような他者が、結局自己意識にほかならないことを示している。他者(神)が全知なのは、私が私の考えていることを知っていることと同じである。しかし、私は私の考えていることを知っているだろうか?というより、「内的な過程」が実在するのだろうか?(前掲『探求Ⅰ』、P.52)

見えないもの(五感で感覚できないもの)は存在しません。存在するものは「存在者」「現象」だけであって、「存在そのもの、自然 φύση そのもの」を語ることはできません(ハイデガー)。「ある、そしてないはない ἔστιν τε καὶ οὐκ ἔστι μὴῖεἰναι」(パルメニデス、断片B2)。私は自己同一化すること(アイデンティティをもつこと)はできないということです。そこで論理学の要請である、同一律、無矛盾律、排中律は崩れてしまいます。

柄谷は、《他者》とは何かについて、積極的に語ることを自己に禁ずる。それは、ポジティヴな実在として記述されたとたん、ある同質的な言語ゲームを前提する、独我論的主観性の地平に送り戻されてしまうからだ。それは、あくまで《非ー在》としてしか、つまり哲学・思想がその規則に基づいてコミュニケートできないものとして、否定的にしか示されないものなのである。(P.109)

「ないもの(語り得ないもの)」を語ろうとするとき、たとえばフロイトが無意識を語ろうとしたとき、その言説は意識(論理)に絡みとられます。

さらに、「語り得ないもの」を語ろうとするとき、その反対物があらわになります。平和と暴力、生と死、聖と俗等。その反対物がもう片方を補完するといってもいいかもしれません。論理的言説は、非根拠性を補完するというのはそういうことです。これはヘーゲル的弁証法の反転です。「正」と「反」が「合」を生み出すのではありません。「合」つまり「語れぬはずの《非ー在》」から「正」を語ったとき、「反」が生まれざるをえないということです。それは、発展ではありません。あえて言うとすれば「退化」です。

また、「科学的」社会主義のエロスは、まさに科学がもつアウラと社会主義ユートピアの誘惑を求める、一つの文化的欲望に支えられる形で、歴史的存在を獲得していったのではなかったか、と。マルクスを模範として問題に決着をつけようというのではない。疑問を呈する向きが依拠するマルクスにあっても、社会批判の根底には文化的欲望の力がある、という事実を最後に指摘しておきたかっただけである。(P.89)

フーコー流に言えば、牧人権力が管理と支配の権力になるとき、生理的(行動する)肉体は、性的であることを強制されるのです。権力を問うことを否定する気はありませんが、多分権力が生み出した「欲望(渇望)」「エロス」こそが問われなければならないのではないでしょうか(フーコ、イリイチ)。

ということで、私の話が『愛する人を所有するということ』につつけばいいなと思います。どうなるか。






[著者等]

浅見克彦 (あさみ かつひこ)
1957年生まれ。北海道大学大学院終了。富山大学教員(出版当時)。

テクノロジカルな合理性の支配と政治的世界の閉塞。無根拠な象徴天皇制とそれに同調する心性。ポストモダン的批判の去勢に抗して、大衆消費社会における文化的欲望の批判的潜勢力を武器として析出する。文化はわれわれに開かれている!

バジョットと象徴天皇制擁護論

(P.122)__和辻哲郎「統一の自覚」=西田幾多郎

国家・民族・文化の統一性と連続性という虚構

「ましてや、文化的統一など、異質文化に対する排外主義が生む「願望」としてしか存在できないだろう。」(P.125)

(P.126)__天皇という「他者」。共同体の中に入らない神。しかし、対立関係にあるわけではない。神を他者と見るとき、それは主体が現れるときであり、他共同体を他者を見るときである。

「外部」を抹殺する無根拠性のトラップ  民族・文化・国家の「所与性」

「そして、国家でさえ、自ら構成しうるものとしてではなく、「常に既に」構成されてしまっている環境と捉えられる限りでは、個体にとって「所与」の条件として存在するだろう。(LF)しかし、あることが、自分の意志や判断に関わりなく決定された「所与」であるなら、個体に(FF)とっての根拠を問うことは不可能である。だから、民族性や文化環境や国家は、個体にとって根拠を問えないものとして存在するということができる。」(P.127-128)__Nota!! 国家、環境、個体、所与、条件、存在、意志、判断、決定、根拠、民族、・・・どれもに「主体性」という前提が見える。

象徴天皇により「外部」を統合支配する日本国憲法の抑圧性

「しかしそれは、すでに確認したような意味で、「日本民族」「日本文化」「日本国」にとって異質な「外部」の存在を大胆にネグレクトし、そうした「外部」が「内部」にもたらす亀裂と対立を揉み消そうとする(FF)、大変な排外主義の表明になっている。」(P.129-130)


2 「見せる」天皇制の統合機能   見世物的「魅力」による無根拠な同調の組織化

天皇と皇室の演劇的「魅力」

「だから、最高の演劇は、稀少価値をもっていなければならない。そして実際に、君主と王室は、本来稀少性をその本質としているのである。(LF)国家の統合を象徴する存在は、元来唯一性をもたなければ意味がない。血統という幻想によってつながれた単一の家系、これこそが象徴にふさわしい。この稀少性が先の貴族性への関心と結びつくとき、王室のパフォーマンスとの遭遇や、ロイヤル・ファミリィの姿を直視することが、「一生ものの価値」をもつことになるのである。」(P.135)__平安  江戸、江戸以前  戦前  戦後  を同じに見るのは現代の眼

「そうではなく、ここで問題になる「威厳」とはお国のお偉方が加わる儀式的パフォーマンスの中心に置かれ、儀礼的規範の威厳を象徴することを通じて天皇や皇(FF)族に付与される、情況的な価値にほかならない。」(P.134-135)

非具体的な国家的統体性の顕現  儀式的パフォーマンスのイメージ作用

「直接に把握でき(FF)ないからこそ、天皇の個体的存在に「これが国家だ、日本民族だ、日本文化だ」というイメージを重ね合わせてディスプレイし、「日本国」「日本民族」「日本文化」といった統体性を、天皇に象徴的な形で担わせるわけである。」(P.136)

象徴そのものについての儀礼的規範の支配

皇族の視覚的な代理表象に関する儀礼的コード

「こうした意味で、天皇と皇室のグラフィカルな代理表象は、その人間的個体の具体的存在感を剥ぎ取った、実に曖昧なイメージをもたなければならない。」(P.146)__教祖と同じ。セックス(生理行為)の排除?血とセックスの分離。

視覚的代理表象に関する儀礼的コードの内面規範化

「こうした傾向のあることは、先に紹介した大浦作品に対する某県議の発言に端的に表れているが、これはもはや、問題の儀礼的コードが「身体的」「感性的」なレヴェルにまで肉化した事態といわざるをえない。」(P.149)


3 視覚的パロディの可能性   象徴の視覚的イメージの撹乱

「見せる」天皇制の弱い環  視覚的イメージ操作の危うさ

(P.151)__日本の皇族に、青い目ブロンドの女性が嫁ぐことがあるだろうか

象徴的統合を撹乱するイメージ  パロディの可能性

「ただ、どれほど魅力的な「芸術」で、「破壊力」に満ちたパロディでも、鑑賞作品として美術館やギャラリーに閉じ込められ、制度的な「芸術」の枠の中におさまってしまうと、本来それがもっている破壊力は去勢されてしまう。」(P.156)

「この「特例領域」での象徴天皇のイメージの徹底的「破壊」は、むしろ実生活の中で統合支配に抑圧を感じ、それに反抗しようとする稀有な人々の鬱憤と欲求不満を、実生活から隔離された箱庭の中で擬似的に「解消」することによって、そうした人々の反抗を防止してゆく緩衝装置の機能をはたすとさえ考えられるのである。」(P.157)__体制補完的

4 大嘗祭における象徴的イメージの断絶と継承  儀礼的イメージの支配戦略

象徴的イメージのクライシスとしての代替わり

「大嘗祭の支配のメカニズムの核心は、その宗教的趣旨にではなく、儀式性そのものにあるといわなければならないのである。」(P.159)

象徴的イメージの断絶  「大東亜戦争」の最高指揮官のイメージからの脱却

「ヒロヒトにつきまとっている、戦争の死と暴力と狂気のイメージ、これを自らの象徴的イメージとして継承しないこと、そして普通の「庶民」と同じように、愛の家庭を守るために平和で自由な世界を求める「民主天皇」という新しい象徴的イメージをアキヒトに与えることが、彼の統合支配機能を確保するためにはどうしても必要なのである。」(P.163)__生と死と、暴力のエロス

歴史があたえる権威の継承  伝統という無根拠性の支配

「問題は、大嘗祭の儀式的機能の核心をなしている、歴史的伝統性の威力にまったく論理的根拠がないという点にある。」(P.167)

「このように、人々が、いっさいの論理的根拠づけなしに、歴史や伝統に厳粛性と権威性を感じてしまうのは、それが初めから最後まで個々人の意志と行為の介入を許さない、超然とした「所与」でありながら、個々人の存在を圧倒的に凌ぐ時間と事実の堆積だからだろう。個々人は、自己の背負わされた歴史の時間と事実の経過に対して、いっさいその存在根拠を問うことができないにもかかわらず、歴史の存在性から逃れることは永久に不可能なのである。」(P.167)__Nota!!。

5 おわりに  無根拠性の危険からの脱出

「無根拠性に縛られた精神が、まさに論理的根拠を問題としない性質のものであるがゆえに、その意識態度の無根拠性と虚偽性を批判して、態度変更を迫っていくための、共通の(FF)論理的コミュニケーションの土俵が設定できないのである。」(P.169-170)__論理(という文化)の中で、その論理(文化)的規範(という言葉があるかどうか知らないけど)に違反することを批判することは可能。しかし「論理」とはなんだろうか。日本語(日本文化)に「論理(ロゴス)」はあるのだろうか。キリスト教(一神教)、主語述語関係、空の視点、などもふくめて「根拠」となりうるものはたくさんあって、それらの「根拠の根拠」は「思考そのもの」であり、その背景は「存在そのもの」、つまり「語り得ないもの」「語る(言葉になる)以前のもの」なのではないか。それをアリストテレスは「自己の内(なか)」「物(存在)の内(中)」に見た(ヒュポケイメノン、第一実体)。

「こうした価値意識の自己完結的性質こそが、無根拠性の秘密であるとすれば、論理的批判でその意識に立ち向かおうというスタンスは、実効性を追求すればするほど、どうしてもニヒリズムかテロリズムかの二者択一をせまられる結果になりやすい。」(P.170)

「もちろんそれは、無根拠性に縛られて象徴天皇制に支配されている「国民」の意識を、即、転覆させることができるわけではないし、ましてや、マスコミや教育機関をも抱え込んでいる象徴天皇制の支配システム全体を解体できるわけでもない。とはいえ、少なくともそれは、現代天皇制を最前線で支えている視覚的イメージの操作を撹乱するとともに、象徴に肉化している厳粛性や権威性のイメージを破壊する。そして、そこから生ずる「生理的」違和感や嫌悪感の自覚を通じて、なぜ象徴の権威が守られねばならないかを問題化し、それまで無根拠に受容されてきた象徴の価値的根拠を問うコミュニケーションの「場」を呼び込むことができるはずである。」(P.171)



批判のエロス ―消費文化のなかの「天皇制」 (クリティーク叢書) 浅見克彦著 1991/06/20 青弓社






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