生命とはなにか 物理的に見た生細胞 シュレーディンガー著 岡小天・鎮目恭夫訳 2008/05/16 岩波文庫

生命とはなにか 物理的に見た生細胞 シュレーディンガー著 岡小天・鎮恭夫訳 2008/05/16 岩波文庫

本書について

著者は「シュレーディンガー方程式」や「シュレーディンガーの猫」で有名な理論物理学者です(1933年、ノーベル物理学賞受賞)。

原書は、

WHAT IS LIFE ? The Physical Aspect of the Living Cell, 1944 Cambridge University Press, Canbridge.

最初の翻訳は岩波新書として1951年に出版されました。DNAの二重螺旋構造「ワトソン・クリック型塩基対」が発表されたのが1953年ですから、「染色体」や「遺伝子」という言葉は出てきますが、DNAという言葉はでてきません。

そういう意味では、「古い本」です。この本に書かれている生物学的な項目のどれが現在まで「正しい」と言われているかはわかりません。

著者は量子力学の知見に基づいて、「生命とはなにか」を語っています。


固体と液体と気体

H2O(水)は、「氷」という「固体」と常温での「水」という「液体」と、「水蒸気」という「気体」の3つの状態(今は「相」と言うらしい)を取ります。シュレーディンガーは、これを次のように言います。

分子=固体=結晶

気体=液体=無定形(固体)(P.117)

いわゆる無定形固体は、本当は無定形でないか、または本当の固体ではないかのいずれかです。「無定形」の木炭線条について、グラファイト結晶の基本構造がX線により発見されました。したがって木炭は固体であり、しかし同時に結晶質であります。結晶構造が存在しない場合には、そのものは非常に高い「粘性」(内部摩擦)をもつ液体とみなさなければなりません。そのような物質は、はっきり定まった融解温度と融解の潜熱をもたないことによって、真の固体でないことが見分けられます。このようなものは熱すれば徐々に軟らかくなって、ついには不連続性を現さずに液化します。(P.117)

気体の状態と液体の状態とが連続したものであることはよく知られていることです。(P.118)

う〜ん、よくわかりません。とにかくシュレーディンガーが言いたいのは、高分子としての遺伝子が安定的だということです。

これは、一個の分子をつくっている原子は、数の多少に関せずすべて、真の個体すなわち結晶をつくりあげているたくさんの原子とまったく同じ性質の力によって結合していることによります。分子は結晶の場合と同じ堅牢な構造をもっています。まさしくこの堅牢さこそ、われわれが遺伝子の永続性を説明するためのよりどころとするものなのです!(P.118)


生物の体は莫大な原子(分子)でできている

量子力学は、原子のような微小な世界での理論です。物の存在は確率で表されます。それぞれの粒子の場所とエネルギーは「不確定性原理」で制約され、粒子はまったく不規則な動きをしています(ブラウン運動、拡散)。でも、生物の体は不規則な偶然性というようには見えません。少ない原子でできていれば、それは確率論的な偶然の動きをしますが、多くの原子は「秩序」を持ちます。

それは、すでによく知られているように、原子はすべて、絶えずまったく無秩序な熱運動をしており、この運動が、いわば原子自身が秩序正しく整然と行動することを妨げ、少数個の原子間に起こる事象が何らかの判然と認められうる法則に従って行われることを許さないからなのです。莫大な数の原子が互いに一緒になって行動する場合にはじめて、統計的な法則が生まれてこれらの原子「集団」の行動を支配するようになり、その法則の精度は関係する原子の数が増せば増すほど増大します。事象が真に秩序正しい姿を示すようになるのは、実はこのようなふうにして起こるのです。生物の生活において重要な役割を演ずることの知られている物理的・化学的法則は、すべてこのような統計的な性質のものなのです。(P.25)


分子の量

分子がどのくらいの量なのか、著者はコップ一杯の水で説明します。

いま仮に、コップ一杯の水の分子にすべて目印をつけることができたとします。次にこのコップの中の水を海に注ぎ、海を十分にかきまわして、この目印のついた分子が七つの海にくまなくゆきわたるようにしたとします。もし、そこで海の中のお好みの場所から水をコップ一杯汲んだとすると、その中には目印をつけた分子が約一〇〇個みつかるはずです。(P.18)

イメージできましたか。

原発処理水(汚染水)が海に放出(廃棄、投棄)されています。その水には「トリチウム(三重水素)」という放射性同位体が含まれているので、長い間、処理できなくて困っていました。トリチウムは「自然界にもたくさん存在」(経済産業省資源エネルギー庁HP「安全・安心を第一に取り組む、福島の“汚染水”対策②「トリチウム」とはいったい何?」2018-11-22)しているものですが、「たくさん」とはどれくらいの量なんでしょうね。「処理水」は「海水」で薄めて「海」に流されています。それが「安全・安心」かどうかはわかりませんが、海水で薄めて海に流す、というのは「科学的」なのでしょうか。私には「税金?の無駄遣い」にしか思えないのですが。

トリチウムが崩壊して重水素や水素になるとき、余分な電子を放出します。これが「放射能(β線)」です。この放射能が遺伝子を壊すのではないか、というのが問題なのです。


非周期性の固体としての高分子

著者はX線(電磁波)で、遺伝子の変異(突然変異)を説明しています。

(一)突然変異を起こす数は正確にX線の照射量に比例して増加するしたがって私がすでに述べたように増加の係数ということを実際にいうことができる。(P.88)

このようなわけで突然変異は、照射されるX線の次々の小部分が互いに力を合わせて作用することによって生ずる累積した効果ではありません。突然変異は照射中に一つの染色体に起こる或る単一の事象であるに違いありません。(P.88-89)

なぜこんな説明をするかというと、固体(高分子)としての遺伝子が変化するためには、一定のエネルギーが「一度に」与えられて、分子の状態を変化(励起)させる必要があるからです(単一の事象)。分子の状態には「不連続な段階」があって、じわじわとエネルギーを与えても変化しません。それが量子物理学が導いた法則です。

つまり、生物(遺伝子)の秩序性(永続性)が保たれているのは、それを構成する分子数が多いことと、それが固体であるからということです。


近親交配

私が「感情的」に納得できないことの一つは「近親交配は有害な結果を生ずる」という主張です。

「ハプスブルク家の下唇」の話は有名です。血族結婚が多かったことから、「下顎前突症」と言われる顎変形症が多かったとのこと(唇や顎の範囲は日本とヨーロッパでは違います)。これは劣性遺伝が現れたといわれています。「劣性」というのは「劣っている」という意味ではありません。父母からの対の遺伝子、たとえばAとBであるとすると、AA・AB・BAのときに現れる(表現型)のが「優性遺伝子」、BBのときだけ現れるのが「劣性遺伝子」です。

両者は原則的には同等の権利をもつものだとみなされなければなりません  なぜなら、正常な形質といえども、やはり突然変異により生じたものだからです。

実際に行われることはといえば、個体の「型」は一般法則としては、二つの写本のどちらか一方に従って定められるのであって、それは正常の方の場合もあり、また変異した方の場合もあるのです。この際「型」を定める方の写本に当たるものを「優性」と呼び、他の一方を「劣性」と名づけます。これをいいかえて説明するなら、突然変異は、生物の型を変えるのにただちに効果を現すか否かに従って、優性あるいは劣性と呼ばれるのです。(P.76-77)

したがって(これらの用語を使えば)、劣性対立因子は同型接合の場合にのみ効果を外の形に現し、一方、優性対立因子は同型接合でも異型接合でも同じ形を作り出します。(P.78)

近親交配は、父と母の両方に劣性遺伝子がある可能性が高いので、「有害な結果を生ずる」と言っているのです。

地球上には多くの民族や部族がいます。個々の部族でいえば、かなり少ない家族で構成されているものも多いのですが(日本の村落を見よ)、「近親相姦のタブー」がその「有害な結果」を防いでるとは、私は簡単には思えないのです。

むしろ、すぐ現れやすいか、現れにくいかの違いで、どの変異も確率的には同じなのではないでしょうか。ある変異のみに注目すれば、その変異が起こる確率は近縁交配のほうが大きいでしょうが、それ以外の変異も考えれば、同じのような気がします(うまく整理できていない)。また、変異の出現はその遺伝子のみで起こるわけではありません。訳者あとがきでめちゃくちゃにいわれている福岡伸一さんの「GP2ノックアウトマウス」がそのことを現しています。その形質を持つといわれる遺伝子を削除しても、他の遺伝子がその役割を補うらしいのです。

訳者あとがきで指摘されている福岡さんの『生物と無生物のあいだ』の「負エントロピー」の取り違えですが、たしかにその本を読んだ時にピンとこない部分でした。

なぜなら、今日の物理化学的科学には熱力学のエントロピーと通信工学に由来する情報理論のエントロピーという二種類のエントロピーがあって、この両者が分子生物学の大学教授などによっても、しばしば混同され誤解や混乱を助長しているからだ。(P.214,訳者あとがき、注1)

長男に訊いたところ、その通りのようです。


平衡状態

でも、福岡さんの主題はシュレーディンガー同様、「生物体のエントロピーが増大していって熱力学的平衡状態にならないのはなぜか」ということです。生物体の(静的)平衡状態というのは「死」です。死んでしまえば生物は、自発的に動かず、呼吸や代謝を行わないのはもちろんのこと、体は腐敗し、風化し、消えてしまいます。つまり、エントロピーは最大になります。

それに対して福岡さんは「生命は動的平衡」だと言います。物質代謝により、生物は「エネルギーをを取り入れて、常にエントロピーを排出する」ことによって、エントロピーの増加を抑えようとします。取り入れて排出する「流れ」が生命そのものだというのです。「諸行無常」や「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」(鴨長明『方丈記』日本古典文学全集27、小学館、P.27)のようにとても日本的です。

またそれはヘラクレイトスの「万物流転   πάντα ῥεῖ 」の思想でもあります。西欧においても、世界を「動き(変化、流れ)」として捉える考え方と、動きを否定する考えがあります。動きを否定するというのは、動きそのものが「幻想」だ、とか「動きそのものは捉えられない」「認識の対象が変化しては認識することができない」など、いくつかの考え方があります。

動きそのものは認めても、それを「留めること」、つまり「記録すること」によって、その動きが「現実を離れてしまう」という考えもあります。「文字」は時空を超えます。それは現実を表現しているようで、現実から遊離しています。現実の方はどんどん変化していますから。

というのは、「そう」ということ、このこともまた言ってはならないのです。なぜなら、そうすると、「そう」というのがまたもはや動かなくなるかもしれないからなのです。また他方「そうでない」ということも言ってはならないのです。なぜなら、これもまた動きではないからです。むしろこの説を唱える人たちは何か他の言語を制定しなければならないのです。(プラトン『テアイテトス』182b)

量子物理学でよくでてくる「原子核乾板」も記憶媒体です。そこに記憶されているのは、過去の素粒子の軌跡です。素粒子の位置とエネルギーは不確定性原理によって「確定されない」のですが、事後的には言えるのです。「方程式」というのは「固定されたもの」です。そこに「運動」が書かれていると考えるのは、一つの思考形式です。その文化では、小説や演劇や写真や映画やテレビやSNSが「現実(真実)」を表しているとみなされます。そのことを「正しい」とか「間違っている」とかということはできません。宗教と同じで「世界の捉え方の違い」ですから。その意味では「科学も一種の神話」なのです。


生命と物理法則

生命が繰りひろげられる際に現れる秩序性は、右のものとは異なる源から発するものです。そもそも秩序正しい事象を生み出すことのできる「仕掛け」には、二通りの異なるものがあるように思われます。すなわちその一つは「統計的な仕掛け」であって、これは「無秩序から秩序」を生み出すものです。もう一つの新しいものは「秩序から秩序」を生み出すものです。(P.159)

日常の世界では、普通後者が見られます。そして前者は物理学者が見つけ出したものです。無秩序な粒子の運動から「統計的秩序」を導き出しました。

それゆえ生命をふつうの物理学の法則という鍵によって解くことが困難だからといって落胆してはいけません。そもそもそれが困難だということは、生きているものの構造について、われわれが今までに得てきた知識から当然予期されることなのです。われわれは生物体の中に広く行われている新しい型の物理法則を見出す準備ができているに違いありません。(P.160)

それでは「生命」とは何なのでしょうか。

もっとも著しい特徴は次のとおりです。第一は、多細胞生物の場合にこの歯車が巧妙に分布していること。これについては64節でどちらかといえば、詩的な説明をしました。第二は、ただ一つの歯車ももちろん人間のつくった粗雑なものではなく、量子力学の神の手になるもっとも精巧な芸術作品だという事実です。(P.169)

う〜ん、結局よくわかりません。

突然変異が量子力学にもとづく「(偶然の)分子の変形」であることは、きっとそうなのでしょう。そして、放射線はそれをひきおこすものです。でも、それが「進化の原因」ということは言えません。

右の対立をもっと簡潔に言いかえると、ルイセンコ側が、生物と環境とは、生物の個々の個体の遺伝性を環境適応的な方向へ必然的に変化させるような歯車で噛み合わされていると唱えたのに対し、正統派側は、そのような必然的な歯車ではなく、偶然的な様々な遺伝的変化が環境という篩によって選別され適者が生き残るという仕掛けを唱えたのでした。(P.188-189、訳者あとがき)

この正統派の考えが間違っているのは、単純に言えば「ふるい」にかけられ続けたら、遺伝情報は減り続けてなくなってしまう、ということです。シュレーディンガーは「進化」という言葉は使っていません。「適応」という言葉も使っていません。

これに対しルイセンコ側の人々は、生物の個体は自己の遺伝形質を環境への適応性を増大させるような方向へ変化させる力をもつ  裏返して言えば、環境は生物の各個体の遺伝形質をそのように変化させる力をもつ  と主張し、この意味で各個体が環境との相互作用によって環境適応的な新しい遺伝形質を獲得することが、生物の進化や品種改良を可能にするメカニズムであるという判断または予想を主張しました。(P.188)

私はルイセンコの著作を読んだことがないのでわかりませんが、共産党的に考えるなら「社会も生物もその進化も、そして人間自身も人間がコントロールできる」ということなんでしょうね。

ここで今読み直しているミシェル・フーコーの『性の歴史 Ⅰ 知恵の意志』から引用します。

十八世紀に発達した社会は  それを人が市民社会と呼ぼうが、資本主義社会と呼ぼうが、あるいはまた工業社会と呼ぼうが  (中略)この社会は、性についての規則だった真理を言い表そうと企てたのである。あたかもこの社会が、性のなかにこそ最も重要な秘密が隠されているのではないかと疑っていたように。あたかもこのような真理の産出を必要としていたかのように。あたかもこの社会にとっては、性が、単に快楽の生産・配分の構造のなかにではなく、知の秩序だった体制の中に登録されることが最も重要であったかのように。(新潮社、P.90)

「性」を「生(命)」と置き換えてもフーコーの言いたいことは変わらないのではないでしょうか。そしてそれは社会主義社会についても同様です。「生命」を対象とする「知」、それが西欧的知の帰結であり、それはマルクス主義においても同じです。そして、捕まえられ、鉱物標本や昆虫標本のように扱われる「生命」は決して生きてはいないのです。

フーコーは「性愛の術(アルス・エロチカ)に対立するものとしての性の科学(スキエンチア・セクスアリス)」(P.92、など)と言っています。前者はイリイチのいう「生きる技術」で性で言えば「(ヴァナキュラーな)ジェンダー」です。後者は「(グローバルな)中性的セックス」です。生命(あるいは進化、歴史)を対象化(知識化)し、それを支配し制御しようとする姿勢はマルクスが批判したヘーゲル(やカント)の考え方と同じです。


自由意思

(i)私の体は自然法則に従って、一つの純粋な機械仕掛けとして働きを営んでいる。

(ii)にもかかわらず、私は私がその運動の支配者であり、その運動の結果を予見し、その結果が生命にかかわる重大なものである場合には、その全責任を感ずると同時に実際全責任を負っている、ということを疑う余地のない直接の経験によって知っている。

右の二つのことがらから推して考えられる唯一の結論は、私  もっとも広い意味での私、  は、とにかく「原子の運動」を自然法則に従って制御する人間である、ということだと思います。(P.172-173)

シュレーディンガーは、人間は「自然法則」の下で自由だ、と言っているようです。「ウパニシャッド」が出てきますが、ウパニシャッドは「梵我一如」(ブラフマンとアートマン、宇宙と自分が一体だということ)といっても、アートマンがブラフマンに溶け込む(一部である)という意味で、ブラフマンをアートマンに取り込むようなことは考えていません。アートマンがブラフマンを「制御する」なんてことは考えないのです。

偶然(自然)を「法則( low、法)」の下においたシュレーディンガーらしい発想だと思います。






[著者等]

エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー[wiki(JP)](ドイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]、1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者。シュレディンガーとも表記される。

1926年に波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い。

量子力学を創造し、原子物理学の基礎をつくった著者が追究した生命の本質―分子生物学の生みの親となった20世紀の名著。生物の現象ことに遺伝のしくみと染色体行動における物質の構造と法則を物理学と化学で説明し、生物におけるその意義を究明する。負のエントロピー論など今も熱い議論の渦中にある科学者の本懐を示す古典。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003394618]

シェアする

フォローする