「無限」に魅入られた天才数学者たち アミール・D. アクゼル(Amir D. Aczel)著 青木薫訳 2002/02/28 早川書房

「無限」に魅入られた天才数学者たち アミール・D. アクゼル(Amir D. Aczel)著 青木薫訳 2002/02/28 早川書房

Book-off 税込み220円

特に買うつもりがなかった本です。子供が正月休みに帰ってきて、一人でBook-offに暇つぶしに出かけました。なにか買ったらしいのですが、そのとき「ポイント使います、と言ったのにポイント分引いてもらえなかった」と言うので、一緒にBook-offに行きました。期限付きポイントだったので、その分を引いてもらうつもりでいったのです。たまたまこの本を見つけたので、返金してもらうよりこの本をポイントで買ったほうが面倒がないと思い、子供に220円を払ってポイントを使いました(笑)。

たまたま、そのときに『量子重力理論とはなにか』(竹内薫著、ブルーバックス)を読んでいて、時空の連続について考えていました。その本は、ブルーバックスにしては数式が多く、まったく理解できませんでした。

時空が最小単位をもつということは、時空が連続していない、無限に分割できないということです。

数式

b = a + 1(b は a よりひとつ多い)

a が「1」なら、b は「2」です。a には(条件がなければ)いろいろな数を入れることができます。1、2、3、2分の1、√2、π・・・。とりあえず「自然数(1、2、3・・・)」を考えてみましょう。「1,2,3」に対して b は「2,3,4」となります。a をどんどん大きくしていくと、それより1多い数が得られるのですが、a は無限に大きくできるでしょうか。実際には(自然には)不可能です。なにか大きな数を思い浮かべたとしても、それより「一つ大きな数」( b )があるからです。

この式は「ありえないこと」を表しているのでしょうか。いや、「リンゴをください」「もう一つください」と言うことは、実際に可能です(もらえるかどうか、もう一つあるかどうかという問題は残りますが、「ください」と言うことはできます)。

集合(集まり)

a に入れられる数「1,2,3・・・」の集まり(集合)と、b に入る数「2,3,4・・・」はどちらが多いでしょうか。b には「1」がないので、b のほうが「一つ少ない」と思えます。数えてみましょう。数えるためにはどうするか。リンゴとみかんの数が同じかどうか(どちらが多いか)を比べるときにどうしますか。運動会の玉入れで赤玉と白玉を比べるとき、一つずつかごから出していき、残ったほうが勝ち(多い)ですよね。

それでは取り出します。「赤1−白2」、「赤2−白3」、「赤3−白4」・・・。終わりません。なんせ自然数は無限にあるのですから。でも、予想はできます。同じです。なぜなら、a (の要素)一つに対して、b つまり (a + 1)が一つあるのですから。

こんどは「 b = a ✕ 2」を考えてみましょう。a が「1,2,3・・・」に対して、b は「2,4,6・・・」です。b は偶数です。自然数は(正の)「偶数(2,4,6・・・)」と「奇数(1,3,5・・・)」でできています。自然数と偶数を比べたら、偶数が「半分」でしょうか。いいえ、前と同じく一つの a に対して一つの b が対応するのですから、同じです。

こんどは、b = 1 ÷ a を考えてみましょう。a が「1,2,3,4・・・」に対して b は「1,2分の1(0.5),3分の1(0.3333...)、4分の1(0.25)・・・」です。一つのケーキを a 人で分けた一人分、とも言えます。b の最大は「1」、a が大きくなるたびに b は小さくなります(ゼロに近づく)。もちろん、b は自然数としては「1」だけで、それ以外は自然数ではありませんが、その数はやはり同じです(a 一つに対して b 一つ)。

「数直線」は、数を直線の場所(原点からの距離)で表したものです。数を視覚化するために、「空間化」したものといってもいいでしょう。自然数 a は、ある間隔を置きながら等間隔に永遠の彼方まで続いています。b (1 ÷ a)は、1から見ると、どんどん間隔を詰めならが0に近づいていきますが、0を越えることはありません。

これが「ゼノンのパラドックス」のひとつ、「飛んでるやは飛ばない(止まっている)」です。

無限の数の「大きさ」「量」「多い、少ない」と言いましたが、集合論ではこれを「濃度」と言います。自然数の濃度と奇数・偶数の濃度は同じです。これをカントールは「ℵ0(アレフ・ヌル)」という記号で表しました。分数で表すことのできる数(有理数)も濃度はアレフ・ヌルであることは予想できるでしょう。では、有理数で数直線は埋め尽くされているのでしょうか。いいえ。「√2」や「π」は分数で表すことができません。これらを「無理数」といいます。

無理数は「ある(実在する)」のでしょうか。たとえば √2 は一辺が1の正方形の対角線です。π は直径が1の円の円周の長さです。一辺や直径の「1」が「ある」のだとすれば、√2 や π も「ある」といったほうがいいでしょう。有理数と無理数を合わせたものを「実数」といいます。というか、実数のうち有理数でないものを無理数という、といったほうが良いのかもしれません。ここで注意することは、√2 や π や e(ネイピア数、ネーピア数、ネピア数、オイラー数ともいう。自然対数の底)などは「人間が意味づけしたもの」だということです。その意味では自然数も同じです。偶数は「2で割り切れる数」、奇数は「2で割り切れない数」です。7は「ラッキーナンバー」というのも同じですね。数に意味を見つける研究は「ゲマトリア(数秘術)」(P.37)と言われます。

連続

さて、数直線上のすべての点は実数で埋め尽くされている(連続している)のでしょうか。私のイメージは、数直線を指で摘んで持ち上げたときに、ズルっとつながって持ち上がるか、プツンと切れるかという感じです。

カントールは、実数の濃度を「ℵ1」としました。これは「連続している」ということです。そして、

ℵ0 = ℵ1 (2の整数・有理数乗は無理数)

と定義しました。これは言い方をかえれば「数直線上の数はすべて小数で表される」ということです。その少数の桁数はℵ0個です。ℵ0とℵ1は、ℵ1のほうが「濃度が濃い」のですが、その中間はありません。これが「連続体仮説」と呼ばれるものです。でもこれは別の言い方をすれば問題ではなくなります。

すべての実在する数を実数と呼ぶ。実数を空間的に表したのが数直線である。(私の定義)

でも、これは「数直線は連続している」あるいは「実数以外の数は実在しない」ということを意味してはいません。これは「少数以外の数は存在しないのか」という問いとなります。

少数の各桁は自然数です(十進法であれば1,2,3,4,5,6,7,8,9,0、二進法であれば0,1)。自然数の無限の組み合わせの集合が実数ということです(これが「2ℵ0 」の意味)。つまり、実数も「物理的な実在」から離れられない、ということです。

虚数

この本には一切虚数が出てきません。想像上の数(imaginary number)が「虚数」です。私は虚数を使ったことも、見たこともありません。想像すらできません。なので、拘らないことにします。

少数で表せない数があるとすれば、連続体仮説は崩れます。でも、それが「実在しない」「想像上の」数だとしても、虚数のことではありません。むしろ、虚数というのは「 i = √-1 」のように定義が可能です。つまり、「意味のある」あるいは「人間が意味づけした」数です。それを「ない」と言ってしまうと、「ゼロ」や「負数(マイナスの数)」も「ない」ことになってしまいます。

ラッセルのパラドックス

「私は嘘を言っています」。私が言っていることは本当(真)でしょうかウソ(偽)でしょうか。「真」なら私は嘘をついているので「偽」、「偽」なら私は本当のことを言っているので「真」です。

ある条件(S)を満たすもの(要素、例えば x とします)の集合(S(x))を考えるとします。前の例で言えば「2で割り切れるもの」という条件なら、それを満たすもの(要素)の集合は S(x) = {2,4,6,...} となります。ところが「x は x の要素ではない」という条件の集合は自己矛盾です。x が要素なのかどうかわからない(決定できない)からです(ちょっと端折りました)。

ラッセルのパラドックスが意味しているのは、全体集合(すべてを含む集合)は存在しないということだ。(P.191)

ラッセルのパラドックスは、数学においては空手形を切って何かを手に入れるわけにはいかないことをはっきりと示した。「これは集合である」と言って集合を定義するだけでは不十分なのであって、実際に要素が存在するような集合を作らなければならないのだ。ユニコーンを定義したからといって、ユニコーンの存在を証明したことにはならないのと同じことである。(同)

カントールの最後の遺産は、すべてを含む集合はありえないという事実に気がついたことだった(ラッセルのパラドックスもこのことを示している)。すべてを含む集合が存在しえないのは、どんな集合に対しても、それよりも大きな集合が必ず存在するからである(具体的には、べき集合  もとの集合のすべての部分集合からなる集合  がそれにあたる)。(P.197)

「すべての実在の数の点を表した数直線がある」と言っただけでは、そういう直線が存在する証明にはなりません。

最大のマトリョーシュカというべき全体集合は存在しないことを考えるなら、そして、けっして到達できない絶対者に思いを致すなら、ゲーデルの不完全性定理も理解できるような気がするのではないだろうか。それは、今いる系の外側にあるもの、与えられた系よりも大きなものが、常に存在するという主張なのだから。(P.205-206)

だが、その文書の内部で操作しているかぎり、その文書を消去することはできない。その文書を消去するには(あるいは、その文書を別のファイルに移動させるには)、その文書から出て、より大きなシステムの内部でその操作をしなければならないのだ。

与えられた系の内部にいたのでは捉えられない概念や性質が存在し、それらを理解するためには、より高いレベルに移らなければならない。一方、カントールが示したように、最高のレベルというものは存在しないのだから、いかなる系の内部にも、把握できないアイディアや性質が必ず存在することになる。これをたとえるなら、人間は決して神を理解できないというようなものかもしれない。人間の心がどんな系であるにせよ、その有限な系の内部では十分に理解できないものが存在する。神はともかくも人間よりも高次の系なのだから、有限なる人間の心には神を理解することはできないのである。(P.206)

ついには「全体」というものがないんだ、というような話になってきました。だとすれば、人間が認識できるのは常に「部分」だと言う事になります。人間が認識するのは常に存在の一部であって、「存在の全体」、つまり「存在そのもの」は認識できないということです。

人間の心は有限でしょうか。わかりません。たとえ人間の心が無限だとしても、さらに高次なものが存在するという考えです。それは神でしょうか。その神はℵ1なのでしょうか、それともℵなのでしょうか。そして、人間と神との中間の存在はないのでしょうか。私にはわかりません。「人間は決して神を理解できない」のでしょう。

そもそも「実数」をℵ1としたことが正しかったのか、すら私にはわかりません。それが「定義」だとして、それが存在するということが証明されているのかもわかりません。結局、「数直線は連続しているのか」という問いは、「実数をℵ1とし、それを視覚化したのが数直線で、かつ、それを連続していると言う」という定義(公理)なんじゃないかとしか、私は理解できませんでした。この定義こそが「連続体仮説」であり、それは数学の他の分野とは無関係なのです。

コーエンは、ゲーデルがやり残した残り半分の道のりを歩き通したわけである。コーエンの証明により、カントールの連続体仮説が正しいかどうかは、現在用いられている集合論の公理系内部では立証できないことが決定的に明らかになった。(P.221)

連続体仮説は、集合論の公理系(ZF+選択公理)とは完全に独立だったのである。連続体仮説が真であれ偽であれ、それを証明することも反証することも、現在の公理系の内部では不可能なのだ。そして選択公理については、ZFの公理系から独立であることが示された。(P.223)

私にはわらかないけど、そういうことのようです。

「🍎🍎🍎(リンゴ3個)」と「🍊🍊🍊(みかん3個)」を合わせるといくつでしょうか。「3+3=6」ですが、それは「6個のリンゴ」でも「6個のみかん」でもありません。言うとすれば「6個の果物」です。このときに、上位概念への移行があります。上部概念というのは「種から類へ」とか「一部から全体へ」ということもできます。実はリンゴ一つ一つやみかん一つ一つも同じではありません。そこにあるのは「個物」だけです。3や6は、個物に備わっているのではなくて、個物から離れた「概念」にすぎません。

「個物(部分)が分かれば全体がわかる」これは還元主義(Wiki、今西錦司『自然・人類・文明』も参照のこと)です。そして、カントールが示したのは神の証明ではなく、神の証明の不可能性、そして還元主義が成立しないことです。

数・数えること

有限な数から出発するかぎり(それが五でも五百兆でも)、いかなる数学的操作(加法、情報、指数演算)をもってしても最初の無限基数に到達することはできない。最初の無限基数ℵ0は、有限基数(要するに普通の数のこと)からでは"到達不可能"なのである。しかし、いったん最初の無限基数ℵ0に到達してしまえば、指数演算によって高次の無限基数を作ることができる。(P.226)

無限というのは、単なる仮定(想定)にすぎないのでしょうか。私が感じるのは、無限小数(たとえば、 1.2354789484125... )といっても、それぞれの桁は自然数なのはなぜなのかということです。それぞれの桁の「数字」は私の理解できる範囲から作られているのです。「🍎🍎🍎」を「リンゴ3個」と呼ぶのは、人間が決めたものです。人間といっても、「ある限られた範囲(文化)」だけです。私は「リンゴ3個」と「 three apples 」の意味は違っていると思います。「تفاحة」なんて、リンゴを表しているのかどうかもわかりません。

そもそも、「数」という概念がない(あるいはほとんどない)文化もたくさん存在します(ケイレブ・エヴェレット著『数の発明』みすず書房、参照)。数はたしかに便利です。でも、それは数が便利な文化(必要な文化)に住んでいるからです。その代表が貨幣です(千円とか一万円とか)。貨幣が必要な国では数を知ることが必要です。貨幣がない世界を思い浮かべてください。日常で、大きな数を使うのはどんなときでしょうか。一度に住める家は一軒です。水はコップ一杯、箸は一膳、茶碗は一個、米は一合、・・・、そんなに大きな数は必要ありません。それよりも、数を意識する場面がとても少ないように思います。水を飲むときに「今、口に15cc入っている」なんで思うことはありません。多分、腕が二本あることも普段は意識しないし、指が五本あることも普段は意識しません。

有る物がなくなったときには、それをつよく意識します。片腕を(失わずとも)怪我をしたときには、とても不便です。でもだからといって、常日頃「眼が3つあったらなあ」とは思わないでしょう。「数直線は連続しているのか」という問いは、「なぜ数えるのか」という問いに結果すると思うし、「3という数がある」というのも単なる決め事(定理、仮説)にすぎないのではないでしょうか。

カントールによれば物理的な実在はたしかに数学の原理に依拠している。そうだとすれば、連続体、数、そしてそれらの性質は、物理的実在のさまざまな側面に映し(FF)出されているはずである。だがカントールは、こう付け加えてもいるのだ。しかし数学は、その存在を正当化するために物理的世界を必要としない、と。(P.235-236)

そう思うかどうかは、人それぞれです。確かに、数は便利です。でも、著者が住んでいる文化が「数を必要とする文化」だということを忘れている気がします。「数は実在する」「無限は存在する」「神は存在する」と言っただけでは、ユニコーンと同じように「存在する」証明にはならないのです。

無限を考えるということ

この本にはたくさんの数学者や哲学者がでてきます。中心人物はカントールです。彼は無限と取り組む内にうつ病になりました。

一八八四年の最初の発作からほぼ立ち直ったカントールは、ある目標にねらいを定め、英国史と英文学の研究に時間をつぎ込んだ。その目標とは、シェイクスピア劇の真の作者はフランシス・ベーコンだという説を証明することである。(P.169)

もう一人の重要人物、ゲーデルは、

カントールは多年を費やしてシェイクスピア劇の作者はシェイクスピアではないことを証明しようとしたが、ゲーデルはライプニッツが、おそらくは彼のものではない理論を作ったことを証明しようとしたのである。(P.217)

う〜ん、危ないです。そのほかにも、たくさんの人物のたくさんの逸話が書かれていて、読み物としてもとても面白い本です。

私は数学も(算数も)苦手ですが、この本を読みならがイメージしようとして、精神状態が不安定になりました。私はイメージできないものは理解できないし、理解できたと思えません。「3+3=6」という計算や、「 b = a + 1 」という式は、分かった、というよりも「覚えた」のです。覚えているとテストで点数が取れます。ただそれだけのために覚えたのであって、それがイメージできていたかどうかはわかりません。「なぜそうなるの?」とは思わなかったし、そんな質問をすることもは「頭の悪い子」「面倒な子」と言われるのがオチです。病院に連れて行かれて、「知能検査」をされるかもしれません。「1000円で800円のものを買ったら、200円お釣りがもらえる」ということがわからないと不便(生きづらい、あるいは生きられない)社会に住んでいるからです。

最近、改めて「憶えたこと」「当たり前だと思っていること」を見直そうと思っているのですが、そんなことは不可能だということもわかってきました。でも、「そうじゃない」「そうとは限らない」「そうじゃない社会もあるだろう」という思いは常にもっていようと思っています。

量子力学

さて、本書を読むきっかけとなった「重力量子理論」についてですが、それによると時間や空間には最小単位があります。

これはようするに、幾何学単位系での自然な長さや重さがどれくらいかという問題だ。第3章に出てくるが、幾何学単位系では、長さの「1」は約10-33センチメートルのプランク長さであり、重さ「1」は約10-8キログラムのプランク重さになる。(前出『量子重力理論とはなにか』、P.28)

量子力学では、エネルギーや素粒子の位置は確率で表されます。電子の軌道(場所)をモデルで表すと、粒子なら一つの軌道(左)、確率の高低で表すと右のようなイメージになります。

電子
量子は「モノ」というより「コト」(あるいは現象)に近い代物である。(同書、P.8)

ある粒子が、ある場所であるエネルギーで存在するというのは確率なのです。とは言っても、私たちが感じる長さや時間はそれから見ると計り知れないくらい大きいので、現実で眼の前のリンゴが消えたりすることはありません。最小単位があるということは、単位時間や単位空間に「隙間」があるかどうかは別問題として、「連続していない」ということです。ただ、前出書には書いていませんが、この時間や空間も確率の粒子として電子同様に表されるのでしょう。上記の図のように。

空間はあるエネルギをもつ「場」です。アリストテレス的に言えば、物質(エネルギー)の入れ物です。ただ、そこには入れ物と中身の区別がない、と私は思います。「空間はエネルギーと大きさと時間を確率論的にもつ場」ということになります。それは電子の雲のように、相互に入り乱れています。その場所や時間は観察によって「事後的に」確認できます。私にはできませんが、誰か方程式化してください。

時間と空間(時空)をこのように考えたとき、そこに「連続」というものを考える意味がないのではないでしょうか。ある単位の時空は、ここにあるかもしれないし、あそこにあるかもしれない。いや、同時にいたるところにあるとも言えるでしょう。そこに順番をつけることもあくまでの便宜的なものです。

「ここに3個リンゴがある。右から、甘そう、酸っぱそう、腐りかけ」。「左右」というのが便宜的に人間が考えたことなのは分かりやすいですね。実際「左右」がない文化はたくさんあります。「甘い、辛い」というのも文化的。「腐っているかどうか」も文化的です(はっこうしょくひんはいろんなぶんかにある)。その林檎が「生きている」かどうかの判断も文化的でしょう。そうすると「3」も文化的と言ったほうがいいのではないでしょう。

数は実在する。そしてその実在性は、人間とは関係がないと私は考える。(P.233)

もしも連続体が存在しなければ、連続体を基礎とする微積分学というアプローチがこれほど有効でありえるだろうか?(P.234)

カントールによれば物理的な実在はたしかに数学の原理に依拠している。そうだとすれば、連続体、数、そしてそれらの性質は、物理的実在のさまざまな側面に映し(FF)出されているはずである。だがカントールは、こう付け加えてもいるのだ。しかし数学は、その存在を正当化するために物理的世界を必要としない、と。(P.235-236)

「数が実在する」というのは「神が実在する」と同様、文化・歴史的なものです。微積分や集合論が有効なのは、数が必要と同様、文化・歴史的なものです。そういう社会に住んでいるからです。無人島やジャングルの奥に住んでいれば、微積分は有効ではない(意味を持たない)でしょう。

カントールの言葉はそのまま「数の文化・歴史性」を物語っているように捉えたいと私は思います。






[著者等]

アクゼル,アミール・D.
カリフォルニア大学バークレー校にて数学を専攻。オレゴン大学で統計学の博士号を取得。現在はベントレー大学の統計学助教授として活躍するかたわら、The American Economistなどの雑誌に論文、記事を執筆する。フェルマーの最終定理を扱った『天才数学者たちが挑んだ最大の難問』(早川書房刊)は本邦でもベストセラーとなった

青木/薫
1956年、山形県生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院修了。理学博士。翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

「無限」とは、読んで字のごとく、限りがないということだ。「永遠に続く」「大きい」「果てしない」など、それぞれに抽象的なイメージを持って、違和感なく使っている言葉の1つであろう。この言葉に明確な定義をもたらしたのが、ゲオルク・カントールという数学者である。本書はカントールの生涯を中軸に、「無限」が数学の概念として認められるまでの波瀾を描いた作品である。

無限という概念は紀元前6世紀から5世紀の間に、ギリシャで発見された。ギリシャ人が無限の概念に出あったのは、ゼノンのパラドックスを通してだったと見て間違いない、とここでは記されている。では、数学になる前の無限は何だったのであろうか。それは神である。ユダヤ神秘主義において神を表すヘブライ語「エン・ソフ」は「無限なるもの」を意味する。そして、アルファベットの最初の文字であるアレフで始まる。神を意味するヘブライ語エロヒムもまたアレフで始まる。アレフという文字は神にそなわる無限という属性なのである。

カントールは、無限とは「部分と全体が1対1に対応すること」であると定義した。そればかりか、無限は1つではなく「無限に」たくさんあるというのだ。そもそも部分と全体が等しいとはどういうことか。この無限の集合論の帰結にカントール自身が、興奮しつつも途方に暮れていたようで、友人の数学者デデキントにフランス語で「我見るも、我信ぜず」という手紙を送っている。

この発見は19世紀の数学界からは、猛反発をくらった。特にベルリン大学時代の師であるクロネッカーは、執拗なまでにカントールの研究成果の発表を妨害した。そして、研究への行き詰まりもあいまって、彼は心はしだいに病んでいくのである。彼の病気についてわかっていることは、抑うつ状態になる直前、彼が決まって「連続体仮説」について考えていたということだ。精神病院への入退院を繰り返し、カントールは失意のままに亡くなるが、彼の意思を受け継ぐ数学者がいた。クルト・フリードリッヒ・ゲーデルである。ゲーデルもまた、無限にかかわる20世紀最大の難問「連続体仮説」の証明に取り組み、精神をむしばまれていった。

このように本書は、「無限」に魅入られ、そして闘った数学者たちの物語である。「数学の本質は、その自由にある」と述べたカントールをはじめ、無限を求める数学者たちの執念と苦悩が伝わってくるようだ。決して容易に読破できる内容ではないが、現代数学の発展に寄与した数学者たちの壮絶なドラマを、彼らと共に難問に挑みながら、読み進めるのもおもしろい。(冴木なお)



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