
みな幸せそうにみえるオメラスの地下に閉じ込められている9才(もうすぐ10才)の子ども。男の子か女の子かもわからないそのひとりの子どもがいるから、地上の幸せがある。
数ページの小説ですが、その半分は地上の幸せそうなお祭りの描写です。オメラスの人々は、その子どもの存在を知っています。それはオメラスの人々は全員、子どもの頃に教えられるからです。その子どもがなぜそこにいるのか、その子どもがどのように地上の幸せに関わっているのかは一切描かれていません。
それを説明するのは「野暮」ですね。それが問題ではないからです。ひとりの子ども(子どもじゃなくてもいいけど)の犠牲で、その子ども以外のすべての人の幸せがあるということをどう考えるのかということです。
それは、その逆をどう思うかと同じです。つまり、多くの人の犠牲で少数の人が幸せな社会。私は、今の社会はそういう社会だと思っています。
どちらが「いい社会」でしょうか。後者はだめだけど、前者はいい?それとも逆?あるいはどちらも悪いけど仕方がない?どう思うかは、その人が「幸せ(勝ち組)」にいるのか「不幸(負け組)」にいるのかに大きく関わっている気がします。
でも、それだけではありません。「彼ら(オメラスの人々・・・引用者)は、自分たちもあの子のように自由でないことを、わきまえている。They know that they, like the child, are not free. 」(P.17)
幸せな人々が心に抱くもの、それが何なのか。私にはわかりません。
ピークスヴィルに住む3歳のアンソニーは、人や動物の心が読めます。そして、アンソニーが考えたこと、望んだことは現実になります。ピークスヴィルの人々はアンソニーを恐れ、彼に心を読まれないように細心の注意を払っています。
まあ、そんな話ですが、これもアンソニーがどうしてそんな能力をもっているかの説明はありません。では著者は何を問題としているのか、私にはわかりません。単に恐ろしい話だとしか思えません。
その「怖さ」はたしかに面白いのですが。
SF?
「サイエンス・フィクション」、「サイエンス・ファンタジー」だという人もいます。「サイエンス Science 」というのは日本語の「科学」よりも広い意味です。ラテン語 scientia は「知識」「学問」くらいの意味です。英語の conscience は「良心」くらいの意味ですね。
それにしてもこの二つの作品はどちらも「科学」のイメージがありません。それらしきものは全然出てこないのです。どうしてこれが「SF」に分類されるのかはわかりません。それは「サイエンス」という言葉に対する私のイメージが貧弱だからでしょう。
[著者等]
浅倉久志
1930年生まれ。日本を代表する翻訳家。フィリップ・K・ディック、カート・ヴォネガット・ジュニア、アーシュラ・K・ル・グィン、J・G・バラードなどSF界を代表する作品を数多く翻訳した。2010年2月没。
大森望
SF翻訳家、書評家、アンソロジスト。
1961年2月2日、高知県高知市生まれ。高知市立追手前小学校、土佐中・高等学校を経て、京都大学文学部文学研究科卒(英語アメリカ文学専攻)。
