「見る」ということ


可愛いと思います。

レンズの質が悪いのでしょうか。

それ自体は問題ではないのです。どんなレンズでも、正確に写せるなんてことはないのですから。使い方なのです。レンズの歪み特性を知れば、撮り方で、ある程度正確に写すことができます。そこまでなら、素人でも練習次第でできるでしょう。素人はいくら失敗してもいいし。

プロのプロたるものはそこから始まります。正確に写せるだけじゃなくて、そこに映るものの「美しさ」なるものを引き出せるかどうかです。それも、毎回現場でほぼ確実に。そこで天才と凡才の差が生まれます。

せんじつNHKで『エンディングカット』という芦田愛菜主演のドラマをやっていました。唯(芦田愛菜)は絵画教室の先生に、「自分のめてみること。絵だけじゃなく生きていく上で大切。」とアドバイスをされます。これは上記のことですね。

人間は、見ているようで見えていません。見るというのにも練習が必要です。わたしたちは、本やTVやネットの影響で、実際に見ても体験もしていないことを「知っている」と思い込みがちです。でも、「見るという体験」は全然異なります。絵を描いたり、写真を撮ったりしてみると、その見方が必要なことを痛感するでしょう。そして、その見方というのは、その人の経験そのもの、考え方そのものです。

逆に言えば、その人にどう見えるかが、その人の経験や考え方です。ピカソは『ゲルニカ』を創ったというよりは、「ピカソにはそう見えた」と言ったほうが近いのかもしれません。

本やテレビやVRゲームも経験です。Aという本を読むという経験が、Bというドラマを見るときに「どう見えるか」に影響を与えるのは間違いありません。

そのときに、「過去の経験」と「現在の経験」(あるいは「未来の経験」)、(本やドラマで)「知っていること」と「経験したこと」を混同してはいけません。経験や知識は、現在に於いて「追体験(再体験)」されるのです。私たちは「現在」を生きるしかないのですから。

その「現在」に於いて「過去」(や「未来」)を「体験」すること、多分、西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」という言葉の意味の一つはこのことだろうと思います。

こんな面倒なことを考えなくちゃならないのは、「過去は存在する(存在した)」という思い込みがあるからで、それは文字の影響なんじゃないか、と最近考えています。






 

 
[DSTAR-9027]

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