AV女優は存在するか


私はAVの関係者ではないので、現場はまったく知りません。

最近のAV

最近、引きこもり需要でAVの本数が増えてきているように思えます。HUNTERの毎月の発売本数がとても増えてきているからです(ただそれだけです。全部のメーカーについて調べたわけではありません)。

それにはAVの公認化(一般化)もあるでしょう。女性もAVを観る時代です。

その分、AV女優になる敷居が低くなっています。

「有名になりたい」「作品に出演したい」という欲求は「若ければ」簡単に満たすことができます。

「可愛い」「キレイ」「おっぱいが大きい」などの要素を満たしていれば、すぐに「AV女優」として「デビュー」できます。

風俗

昔は、お金に困った女性が「水商売」や「風俗」に流れる、と言われました。なにももっていない女性が「手軽にお金を稼ぐ方法」だと言われていたからです。

なぜ、男は若い女の子が好きなのかはわかりません。わたしも、若い女の子が好きです(もっと言えば「ロリコン」です)。そういう男は多いようです。

「水商売」や「風俗」(以下、「風俗」と総称します)の世界がきびしいことは、男も女もたいていわかっています。「若いだけじゃダメ」というのは、「歳をとった女性」のやっかみだけじゃなく、実際「接客」のテクニックは必要です。風俗が商品販売(セールス)以上に、「より直接に《身体的》」だからです。

もちろん、業界内部の「しがらみ」「力関係」等は、他の業界同様にあります。「芸能」と同じで、地域の権力者との関係も強いです。そこには暴力団との関係もふくまれます。暴力団は、地域の紛争解決のための「調整役」でもあります。

暴力団の関与は、「お客さん」が怖がりますから、「暴力団排除」の動きは当然あります。暴力のうち、「私的で肉体的、直接的」な暴力は暴力団が受け持ち、「公的」「経済的」「間接的」な暴力は、それぞれ別の者が受け持ちます。たとえば、会社や金融機関や学校や政治や医療機関などです。

そのなかで、風俗は「直接的、肉体的」な部分が多いので、当然、暴力と近づかざるを得ないのです。

「テクニック」については、学校で勉強するわけではないので、現場で習得することになるのですが、そうすると「二世タレント」同様に、親が風俗をやっている方が有利です。

風俗も数で言えば、中小企業や個人営業が圧倒的に多いです。だから、儲からない。一時的に稼ぐことはあるでしょうが、長く続けるのは難しいでしょう。その上、開店にあたっては「借金」することが多いのです。

まあ、あまり詳しくは書けませんが、風俗にたいする世間の印象は、あまりよくありません。

AVという分野

AV業界では「AVをエンタテインメント産業、アート産業と位置づけ」ようという意識があるようです(『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』鈴木涼美著)。それは、風俗のような「マイナスイメージ」ではなく、「芸能」として、「作品」「アイドル」という「プラスイメージ」を作り出そうという業界の意向です。

一部の人気女優は、「人気俳優」「アイドル」のような扱いを受けているそうです。「流出物」を観ていると、そのように感じます。グラビアアイドルのようです。業界としては、お金を生み出す元(=商品=資本の一形態)ですからとても大切です。

資本としての女優は、他の商品と同様に「速く消費」して「お金」に変えなければなりません。そして、お金はすぐに「新しい商品」に変えて、市場に投入されます。それもできるだけ「速く消費」されるものとして。古い商品、お金にならない商品は、早晩処分されます。労働力という商品と一緒です。

「新しいものがいい」というのは、単なる幻想ではなくて、一つの思考形態です。常に新しいものを求めて、常に自分を欲求不満な状態に置く、というのは、「文化」に直接関係するものです。この文化の中では「消費される」存在として、アイドルも、AV女優も、歌手も、小説家も、サラリーマンも同じです。

そして、常に「新しいもの」が求められます。

AV女優

上に、「可愛い」「キレイ」「おっぱいが大きい」という要素を書きましたが、AV女優はその逆の要素も「売り」になります。「貧乳」「幼児体形」などです。俳優にも「悪役」や「個性派俳優」があるのと同じでしょうか。AV男優には、包茎の人も多いですが、短小、早漏の人は向いていません(ぶっかけ物に出演する「汁俳優」というのもありますが)。

ただ、女優はアイドルとは違います。演技をしなければならないからです。ストーリー物なら当然演技が必要ですし、ほぼセックスシーンだけのものでも、セックスの演技が必須です。プライベートで演技をしている女の子も多いかもしれませんが、撮影では絶対に演技をしなければなりません。気持ちが良くなくても気持ちがいい演技をしなければならないし、気持ちよくても必要以上に感じてはいけないのです。ドラマ女優が嫌いな男優でも、愛している演技をしなければならないのと同じです。そして、その演技はその人がプライベートでする表情でなないのです。ドラマ用、AV用の「好きだ」「感じている」という演技があります。

女の子は「脱げば」簡単にお金になります。うまく売れることができれば、数年で男が生涯かけて稼ぐくらいのお金を稼ぐことも出来るでしょう。でも、それは毎年数千人(数万人?)デビューするといわれているAV女優のほんの数人です。

Web配信という道

最近、IVのDVDが減ってきているような気がします(ビデオ屋さんにいっていないので、印象に過ぎません)。有名なグラビアアイドルでも、DVDではなくて「ネット配信」されるものが多いようです。Web配信なら、DVDをつくる必要がないし、販売にかかる費用も最小限ですみます。在庫を保つ必要すらありません。

本も多くがデジタルで販売されるようになりました。さすがに、紙の本で発売しないというのは少ないでしょうが。「コレクター」としての私は、「所有している」という感覚がないので、デジタルブックは買ったことがありません。

Webが整備されているところでは、だれでも自分の文章を「全世界に向けて」発表できるようになりました。私の文章ですら、アップした途端に「全世界から」見ることができるようになります。

ネット配信は、プロとアマの区別も曖昧にしました。だれでも、文章を書いたり、音楽を作ったり、映像を作ったりして「発表」できます。その分、「粗雑なもの」「粗悪なもの」も大量に出回ります。粗雑・粗悪を判断するのは受け取り手なので、他人がどうこう言うことではありません。「好きな時に音楽を奏でて、好きな時に小説を書き、たまに畑を耕す」という生活は「理想」かもしれません。

ただ、「それでお金を稼ごう」とするときは別です。

IVやAVの価格は下がってきています。今までは大手の制作会社がノウハウを独占し、販売網を独占するなかで高利潤率を保ってきました。制作会社が乱立しても、大量生産、大量販売が利益を支えました。在庫の必要性も販売ルートも必要ないネット販売では、今までの店頭販売では利益が上がらなくなりつつあります。結果として、削ることができるのは制作費だけ、ということになります。

1本あたりの制作費は、どんどん低下しているのではないでしょうか。トップ女優のギャラは、それほど下げることができません。でも、それ以外の女優のギャラは下がっているのではないでしょうか。「もうけたいなら、もっと売れることをしろ」という圧力は、高まると思います。

生活のために、女優は1ヶ月に何本も出演しなければならなくなるのではないでしょうか。今はトップ女優でも、月に10本以上なんてことがあります。それでは体を壊してしまうんじゃないか、とこちらが心配になるときがあります。

商品

元々「商品」としての「財(冨)」は、利益率と回転率を掛けて利潤が最大化することを目指しています。できるだけ速く消費が行われて、つぎの需要が生まれることを目指します。つまり、残るのはゴミだけで、財は残さないのが正しい商品のあり方です(わたしたちが毎日働いて作り出すもので、後世に残るものは殆どありません。つまり、いくら働いていても豊かにはなりません)。

デジタルデータとしての商品は、消費されてなくなることも、劣化することも(基本的には)ありません。そこで回転率を上げるにはどうするか。「飽きてしまって、捨てられる」ことしかないのです。「いいもの」をつくる必要はありません。速く飽きられるものをつくらなければならないのです。

女優も商品です。それも、どんどん「商品としての価値が下がっていく」商品です。業界としては、できるだけ早く消費したいと思います。それが、女優自身が「稼ごう」と思っているかどうかに関わらず、出演頻度を増やす要因になります。

メジャーとマイナー

だれでも作品を発表できると、プロとアマの区別が曖昧になるのと同じで、メジャーとマイナーの区分も曖昧になります。それに加えて、AVの世界は昔からの様々なしがらみがあります。SODなど、明確にメジャーと言われるメーカーやレーベルはありますが、SODグループにはさまざまな小さなプロだクチョンが加盟しています。そして、有名な監督はメーカーを超えて、あるいは単独で作品を作ることもあります。メーカー名Aで作られた作品を、別のメーカーが再編集して、あるいはそのまま販売することはよくあります。メジャーレーベルがモザイク入りで発表した作品が「モザイク無しで流出」することが結構ありますが、著作権がどうなっているのか、本当に「流出」なのかはわかりません。一部「オムニバス」版について、再収録にあたって、女優に再度ギャラが支払われることがあるようです。Japornでは、一つの作品が、時間が経つにつれて、いくつかのメーカー(あるいは販売ルート)で販売されるのは当たり前のようです。

5年経過した作品が流出することが多いのですが、5年で「著作権」が切れるという感覚があるのでしょうか。女優のギャラは、「1本出演いくら」なので、どれだけ作品が売れても、売れなくても、変わりません。AVに限らず、売れて儲かる、売れないと借金を抱えるというのは、プロデューサーなんでしょうね。ちなみに、いわゆる「事務所」に所属していると、支払われたギャラの一定割合が事務所のものになります。

ジャニーズでは、「デビュー」というのはCDが発売された時点のようですね。それまでは、いくらテレビに出ていても、いくらコンサートをしていても「デビュー前」らしいです。昭和生まれの私には、その感覚がよくわかりません。

著作権・特許権

「青空文庫」は、著作権が切れた小説等をボランティアでデジタル化して発表しています。三島由紀夫が自害したのは1970年です。2020年には著作権が切れるので、青空文庫では、三島作品の発表を準備していました。ところが、ウォルト・ディズニーが著作権切れを防ぐために、アメリカの法律を変えました。TPPに加入している日本もその影響を受けて作者の死亡後50年だった著作権の保護が70年になりました。私がいきている間に、三島作品が青空文庫に入ることはないでしょう。

商品のデジタル化によって、データそのものが商品になることが加速されています。本やビデオそのものが商品なのではなく、紙やDVDは「商品であるデータ」を載せる「媒体」でしかないとされていきます。データではなく「物」が商品なものが少なくなっていきます。たとえば、農産物は消費されればなくなってしまいます。ところが、種苗法の改正により農家が自分で種籾を確保することができなくなりつつあります。米は「米という食べ物」ではなく、「米データを運ぶ商品」として売買されます。「米」ではなく「データ」が売買されているのです。

わたしにとっては、米は「食べ物」であって「データ」とは思わないのですが、近いうちに人びとの感覚が変わっていくのでしょう。「教育」も「医療」も、データのやり取りになりつつあるのを感じます。そこでは「人間味」がどんどん失われていきます。コンビニやファストフードの販売が、マニュアル化、つまりデータ化されて人間味が失われています。今回の知床の観光船の遭難で、マニュアル通りになっていなかったとか、数値化された基準がなかったとか、さまざまなことが言われています。実際がどうだったのかは私はわかりません。でも、マニュアルや数値化する基準があれば、そして、それに従っていれば、遭難は起こらなかったのでしょうか。従っていてもそうなんが起きた時には「運が悪かった、仕方がない」と納得しなければならないのでしょうか。その基準はどう決まるのでしょうか。

原発に関する基準がどんどん緩和されていることは、みなさんも御存知だと思います。そこに科学的な根拠はない、政府(行政)の都合でいくらでも変えられる、ということが明確だと私は思います。

科学的な統計データをつくることはできます。たとえば、新型コロナウィルスのワクチンは、接種しても新型コロナウィルスに感染する人がいます。ウィルスのせいではなくワクチンのせいで死亡する人がいます。その割合が0.1%なら良くて、1%ならだめ、というのは「科学的な根拠」でしょうか。私にはそうは思えないのです。

所有と支配

DVDやBDは「物」として存在します。それに出演している女優も「実在」しているでしょう。でも、私が観ているのは0(ゼロ)と1のデジタルデータに過ぎません。それを観て「可愛いなあ」と嬉しくなる私がいます。「こういう女の子と付き合いたいなあ」とか「セックスしたいなあ」とか思いながら、「実際にはこんな女の子には会えないよなあ」と寂しくなる自分がいます。満足できずに新しいDVDを買い続ける自分がいます。その時、わたしにとってAV女優は「本当にいる」と言えるのでしょうか。

同じことは、中学生の頃に部屋に貼ってあったアイドルのポスターにも言えると思います。ビートルズのレコードにもいえます。当時読んだ小説にもいえます。もちろん、テレビや映画もそうです。

リンゴやご飯は食べ続けることができません。お腹が一杯になって食べ続けられなくなるからです。家を何軒もっていても、住むことができるのは一箇所だけです。

でも、データはお腹いっぱいにはなりません。寒さを防ぐこともできません。そして大切なことは「保存(記録)」しておくことができるということです。「蓄積」できるのです。蓄積できるものは、場所などの条件さえあれば、その量はかぎりがありません。かぎりがないということは、いつまで集めても「満足できない」ということです。

もう少し考えてみます。食べきれないほどのリンゴが実っていて、自由に食べられるばあい、それを「保存する」ことはしないと思います。水が飲み放題のばあいにそれを保存しないのと同じです。齋藤幸平さんなら、これを《公》と言うでしょう。

私は本が好きです。「本を読む」のが好きなのではなく、「本を所有する」のが好きです。今でも欲しい本がたくさんあります。でも、いつでも自由に読める場所(図書館)があれば、ほしい本はかなり減るでしょう。ただ、私が本を読む時にはいっぱい赤線を引きます。欄外にもいっぱい書き込みをします。わたしにとっては、これが本当に「本を消費する」ということです。だから、本気で読む本は買わなければなりません。

わたしの「欠乏感」は、「自分のもの」にならないことから来ています。つまり、「所有・支配」の論理から来ているのだと思います。

所有や支配をしなければ、りんごを食べられないでしょうか。そんな事はありません。手を動かして、口を動かせば食べられます。「今の社会ではありえない」と思われるかもしれませんが、毎回りんごを食べるときに「私のものだ。おとなしく食べられろ」と思うわけじゃないし、そんな事を考えない時期(子供の頃とか)もあったのではないでしょうか。

メディアは実在するのか

今日観たドラマは、脳の情報をコンピュータに移して「不老不死を科学で実現する」というストーリーでした。同様のストーリーは、ドラマや映画でいくつか観たことがあります。恋人や母親、子供の脳をコンピュータで再現するというのは、よくあります。「人工知能」の研究者が研究を始めるきっかけも、母親、恋人、友人、話し相手・・・がほしい(それもなんでも聞いてくれる)、なんてことが多いのではないでしょうか。

もし、「脳の働きが、電気のパレスに過ぎない」のなら、それは単なるデータです。それはきっと再現できるでしょう。コンピュータが人間の能力を超える「シンギュラリティ」がくるのが2045年だという説もあります。コンピュータは電子計算機です。人間の能力がデータを扱う(データ化できる)ことだとすれば、それは間違いなく人間の能力を超えます。というか、計算ということであれば、コンピュータはその誕生の時から人間の能力を超えていました。

コンピュータの中で生きている、あるいは脳だけで生きているというのはどんな感じなんでしょうね。楽しい、とか嬉しい、悲しい、苦しい・・・等の感覚は、たしかに脳が感じていることです。脳の特定の部分を電気刺激すれば、その感覚を味わえるでしょう。夢のなかで、感じていることと、現実の肉体が感じていることを区別することは難しいです。

エンドルフィンなどの脳内物質が感情に影響を与えること、脳に同様の物質を投与すれば同様の感情が現れると言われています。脳内麻薬でなくても、実際の麻薬が与える高揚感や幸福感を「偽物」だと言えるでしょうか。「かにかま」が美味しいと感じるのは「偽物」でしょうか。

今日のドラマで、開発者が「これが人類の夢、天国だ」と言っていましたが、彼が忘れているのはみんながコンピュータの中に入れば、そのコンピュータや電気を作る人がいなくなるということです。電気がなくなれば、コンピュータの中の《私》も瞬時に消えていきます。

ドラマのヒロインは、「不老不死になったら、人類の発展がなくなってしまう」と言います。そういう問題じゃないと思います。むしろ問題は、どうしてそんなに《自分》がなくなることが怖かったり、寂しかったりするのか、ということです。そこにデータ依存の本質があるのです。が、あえてそこには触れません。(汗)

データは、基本デジタルです。デジタルというのは、全体を部分に分解して、その集まりで全体を再構成しようというものです。とても「民主的」です。それにたいしてアナログは、初めから「一つの全体」です。それがどんなに小さくても、それは全体なのです。「全体主義的」ですね。そこに「部分」はありません。

夢は、たぶんアナログです。一つの全体です。そこには、肌の感覚(感触)や「匂い」(らしきもの)もあるかもしれません。テレビや映画と実際の体験との違いは、そんなところにあるのではないでしょうか。

良い小説や映画は、「無味無臭」ではなく、触感や匂いまで伝わってくる感じがします。映像がないとか白黒だとかは関係ありません。ただそれは、その小説や映画が「実体験」の記憶を関連づけたり、呼び覚ますためかもしれません。

その皮膚感覚や臭覚をも、デジタル技術や化学(医学)は「再現」できるかもしれません。もしそれが可能だとすれば、それを実体験から区別することはできないでしょう。でも、わたしは、そこにはある種の「違和感」が残り続ける気がするのです。

デジタルな環境で育っていても、実体験はかならずあります。デジタルと空想は違いますが、小説を読んで、映画を見て、空想と現実の区別がつかなくなって犯罪を犯すなどということは、大昔からありました。今の社会では、(コンピュータ)ゲームと現実との境がわからなくなって、犯罪を犯した、などと言われることがあります。もし、小説や映画やゲームが「実体験」と同じならば、彼らをさばくことはできないでしょう。普通はそこに「違和感」を感じるのではないでしょうか。

たぶん、AV女優とか、アイドルとかは「いません」。ですから、常に「違和感」と「不満足(欠乏感)」を感じ続けるのではないでしょうか。






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