実在と経験

日常とドラマ

しおりちゃん、ちょっとふっくらとしていて可愛いです。横顔が福原愛ちゃんに似ていると思いました。

ゆらちゃん、綺麗です。

亜依ちゃん、大好きです。ふくれっ面がとても素敵です。惚れ直しちゃいました。(笑)

どうしてAVが流行るのか(私がAVを観るのか)が少し分かりました。

欲求不満なのは確かです。そして、その「欲求」はフーコーが言うように「つくられた」、あるいは「強制された」ものかもしれません。

でも、そのこととAVが流行ることとは直接的な関係はありません。AVで描かれること、たとえばこの作品ではエッチなJKですが、そういう女の子が「いる」というのは事実ではありません。いるかもしれないし、いないかもしれません。でも、「いてほしい」を映像化すると、「いるかも知れない」になります。UFOを「いてほしい」と思わなくても、それを写真や映像にすると、「いるかも知れない」になります。つまり、「当たり前の現実でないもの」が文字で書かれたり、写真や映像になると、そこに「実在性」が生まれるのです。

しかし農事暦で語られる程度の知識は、怠惰で勤労の経験のないペルセースならしらず、一般の農民たちにはおそらく常識以上のものではなかったであろう。(ヘーシオドス『仕事と日』松平千秋訳、岩波文庫 P.187、解説)

別の言葉で言えば「当たり前のことは本には書かない」のです。逆の言い方をすれば「本に書かれたことは、当時の常識(当たり前)ではない」ということです。当たり前の現実を書いたり、画像・映像にしても面白くありません。誰も読まないし、観ないのです。恋愛も同じです。小説やドラマ、映画で描かれる恋愛は「当たり前の現実」ではありません。そういうことが「あるかもしれない」し「あってほしい」と思うから、面白いのです。

確かに、映画のような恋愛をした人や、AVのようなJKに出会った人がいるかもしれません。でも、その恋愛やJKは映画やAVとは違います。そこには、俳優(女優)とは違う「特定の男」「特定の女」がいて、その二人が作り上げる「独特の関係」があります。そして、その時、偶然「雨が降っていた」とか「暑かった」とかの要素が必ずあります。「仕事の途中だった」とか「下痢をしていた」とか、いろいろな状況の中で「出来事」は生じます。理想の男性や、理想の女の子に出会ったとしても、そして、その人と仲良くなったとしても、いまの私のような老人になっているなら、恋愛には発展しにくいでしょう。

「一期一会」です(これは千利休の弟子、宗二の言葉だそうです。英語でも似た言葉で「once-in-a-lifetime」というのがありますね。『Talking Heads』の曲が大好きです)。一時期、あまり聞かなくなった言葉ですが、最近増えてきているように思います。たぶん、高度成長期のように、現在や過去より未来に目が向いているときには、この言葉は必要ないのでしょう。未来が見えにくくなったとき(希望を持ちづらくなったとき)には、過去に目が行き、現在を大切にしようと思うのではないでしょうか。

もう一つ、ドラマや映画では「かっこいい」「素敵な」「理想に近い」俳優(女優)が登場し、「かっこいい」「素敵は」「理想に近い」セリフを言います。その俳優(女優)は「自分の分身」なのですが、実際の自分はそうではありません。「素敵」なセリフも、思いつかないし、思いついても言えません。なぜ「思いつかない」「言えない」のでしょうか。「恥ずかしい」とか「気が小さい」「内気だ」とかというのもあるかもしれません。でも、「経験していない」からという要因が大きいのではないでしょうか。いくらドラマで見ていて、覚えていてもだめです。なぜなら、先程書いたように「出来事は一期一会」だからです。

「素敵な異性」も「素敵な恋愛」も「エッチなJK」も実在しません。「存在しない」ということではありません。俳優はいるし、恋愛も、エッチなJKも「いる」でしょう。でも、それを実在としているのは、小説(文字)であり、ドラマであり、映画なのです。「現実に」「当たり前に」「目の前に」存在しているものは、「存在」とも「実在」とも言えないものです。それを文章にしたり、あらためて「実在する」と言う必要はないのです。

毎週刑事ドラマで起こる殺人事件、様々な事故、痴漢事件、歴史上の政治的陰謀、聖徳太子や夏目漱石も「実在」する(した)のでしょうか。それを体験した人はいるのでしょうか。第二次世界大戦(太平洋戦争)が終わって、77年経ちます。実際に兵士として戦争を体験した人は、少なくなっています。「戦後の食糧難」を体験した人もどんどん少なくなっています。体験したことのない人には、それはどういう存在なのでしょうか。

専門家(知識人)は「だから、歴史を知ることは大切だ」と言います。「歴史を知ること」「ロミオとジュリエットを読むこと」「AVを観ること」「創造主(あるいはイエス・キリスト)の存在を知ること」・・・の違いは何でしょうか。

「目の前にあること」を「現前性」という言葉で表すとすれば、(読んだことはないけど)デリダの理論になるのかも知れません。それは不可知論ではありません。「見たこと・経験したこと」と、「読んだこと・聞いたこと」との違い、なんだと思います。それは、エヴェレットが「経験識閾」と名付けたピダハン語で言う「イビピーオ」です。

「イビピーオ」を忘れた現代人は、「実在」「実存」「存在」の区別、「真実」と「デマ」の区別をつけることができなくなっているのではないでしょうか。

 

[SW-762]

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