強姦と愛

貧乳ロ●-タ美少女わいせつ映像集 4時間

総集編です。


強姦物も入ってます。どうやら「強姦」と「rape」は違うようです。「rape」は「誘拐」とか、「強奪」なんかの意味もありそうです。特に西洋では「女さらい」の意味も強いようですね。聖書にも女性をさらうシーンがあります。それが「奴隷」とするのが目的なのか、「セックス」するのが目的なのかはわかりません。いずれにしても、「本人、あるいは所有者の意思を無視する」というのがオオモトにありそうです。そして、「意思」が「自己(自我・個人)」と結びついています。それが「(近代的)西洋」を形づくっていくわけです。


日本でも明治以降、つまり3・4世代ですっかり近代西洋的な「自己」を身に着けました。現代日本においては、それに疑問を持つこと自体が「悪(いこと)」です。西洋では、その「自己(自我)」とセットで「自我の治外法権」としての「愛」が語られました。その愛は「男女の恋愛(エロス)」でも「神への愛(信仰・アガペー)」でも構いません。いずれにしても、それは「自我を越えたもの」なのです。日本には「自我なるもの」はありませんでした。それに代わるものが「社会・共同体の意思」です。だから、日本には「愛」が不必要でした。男女についても、信仰においても「愛」などは必要なかったのです。


未だに日本人は「愛」を知りません。いたるところに「愛」を見つけようとし、「愛」という言葉は溢れていますが、「自我」や「愛」とは別なもので日本は動いているように思います。


西洋においても、「自我」と「愛」の関係はつねに問われてきました。この関係は様々な形をとっていました。たとえば「人間」と「神(自然)」との関係などです(哲学ではハイデガーの「存在者」と「存在」などがあります)。でも、それは対立するものでもなければ、並存(別個に存在)するものでもありません。「人間と神(あるいは我と汝、心と体)」は、和解したり、折り合いをつけたりするもの(できるもの)ではないのです。


そんななかで、自我が肥大しすぎると神や自然や他者は支配することでしか自我を実現できなくなります。「rape」の意味もそのなかで変わっていきます。その一つの意味が日本語の「強姦」でしょう。もちろん、日本においても古来から「強姦」という行為はありました。でも、そこには「犯すものの自我」や「犯されるものの自我」は存在しなかったのではないでしょうか。


私は「自我のない意思」というものを想像することができません。それも私が日本人だからでしょうね。でも、西洋人は自分の行動をつねに「自我の意思」で行っているのでしょうか。そんなことは「思い込み」でしかないことに何故気づかないのでしょうか。それが疑問です。日本人も西洋人も、考えていることに大きなちがいはないような気がするのですが。




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