![]() 断筆宣言への軌跡 1970年から1993年の断筆宣言までのエッセイ集です。どのエッセイもおもしろい。 中心のテーマは、文筆家の表現の自由です。そして、文筆家(作家、小説家)の社会における存在はいかなるものかを述べることによって、作者に許される表現の自由を考えています。 ですから、彼の発言をそのまま、一般人の日常生活に適用してはいけません。芸能人などの周縁人に許されたものをそれ以外の人が行うのはルール違反なのです。ところが、一昔前には、芸能人や小説家だから許されたことを、一般人がまねするようになりました。芸能人自体が、一般人に近いことを売りにするようになったのもその原因の一つです。しかし、その一般人と芸能人との境界を侵してしまうと、芸能人の存立基盤がなくなります。自分が社会生活の中で抑制されているものを代弁してくれるのが周縁人であり、そのおかげで一般人の日常生活が担保されているからです。 小説の中の世界と現実、あるいはゲームの中の世界と現実との関係も同様です。その境が見えなくなったときには「正常(!)」な日常生活が送れなくなるわけです。最近の「幼稚な」犯罪をバーチャルな世界と日常との境目がなくなったことに求めるのも理由があります。 しかし、差別語(表現)の問題は、文学に限ったものではありません。つまり、作家だから許されるというものではないのです。作家だからといって許されるものではないといっているのではありません。私たちの日常の会話においても問題は同じなのです。差別がなぜ差別語という形でクローズアップされるのかということが問題なのです。(差別がなぜあるのかという問題にはあえて触れません。)差別語(表現)というのは言葉(書かれたものも含めて)であり、コミュニケーションの手段です。「めくら」はめくらであり、どう表現してもその意味するものは同じです。そして、ある人をめくらであると表現するならば、それはその人の特長(個性)になります。しかし、それを「目の不自由な人」と表現したとき、それはその人の「負」の側面を表現することになっても、その人の個性を表現することにはならないように思えます。「負」はあっても同じ人間だというわけです。人間みな平等に近づくことはいいじゃかいかといわれるかもしれません。しかし、彼は平等ではないのです。彼はめくらなのです。めくらじゃない人はめくらであるということが負の側面であることを知りながら、平等でないことを知りながら、それを認めたくない、自分と同じであって欲しい、つまり自分はめくらじゃないといっているだけなのです。 差別語(表現)を避けなければならない場合は日常的にそれほど多くはないかもしれません。それは個々の差別語の対象が少数者だからです。その上、それが表現される場は、その差別される側の人間がいないことが多いのです。つまり、差別語を避ける理由は、差別とは関係ない人たちの間でのコミュニケーションの技術なのです。差別する気持ちを持っているかどうかに関わらず(差別する心を持っているから差別語を避けると言ってもいいのですが)、差別語を使わないほうが自分を不利な状況に置くことが少ないのです。現代人は(日本人は)他人の言動に敏感です。自分自身がない、あるいは客観的な評価のみで自分自身が構成されているからです。単純に言えば自分が仲間外れになりたくないだけなのです。 特に過去から切り離されている現代人は、歴史的な言語ではなく、現在の社会で再認知された言葉で会話を行わなければなりません。その証拠に、ある言葉で非差別意識を持つ人間がいたとしても、その言葉自体が社会的に認知されていればそれは差別語ではないわけです。その言葉が差別語であるとされた場合、別な言葉でその内容を再認知すれば済むだけです。 誰もが、何らかの形で少数者です。つまり個性を持っているわけです。仲間外れになりたくなければ、自分の個性を表にださないのが一番です。個性はどこかに隠しておけばよい。そして、それを表現してくれる自分以外の人がいればいいのです。例えば、毒舌の小説家。しかし、その小説家も毒を出せなくなったとき、心にしまった個性はどこにはけ口を求めるのでしょうか。 2000.4.24 | |
| p.57 文明すべて異常心理の産物という立場から言えば、電話やラジオは精神分裂病の所産であり、法律や武器はサディズムの産物であり、高層ビルは短小コンプレックスの所産であり、地下鉄は肛門愛リビドーの産物であるということができる。そしてテレビはあきらかにコルサコフ症候群とピーピングの産物なのである。 p.63 みんなが健康に気をつかいはじめたかわりに、みんながいっせいに、健康を犠牲にしてまで物事を深く考えようとはしなくなり、だからこそ馬鹿になってきたのである。 p.64 最近では文章を読んだだけで書き手が非喫煙者かどうかがわかるようになってきた。まず文章にまとまりがなく散漫である。話が途中でことわりもなく横へそれる。二元論ができない。帰納的でなく演繹的であり、だからやたらとわかりやすいかわりにすぐありきたりの結論に飛びつく。 p.77 虚構と現実をより接近させようとするメディアや作品の影響をもろに受けた大人や子どもは、今でp.78もたくさんいる。いればいたで面白いのだが、迷惑がかかります。今きちんとやっておかないと、どんどん虚構が複雑化していく新時代に対応できぬ形而下的で、下部構造的な大人ばかりになってしまうだろう。 p.87 日本はA型社会だから「絶対悪」が「必要悪」になったとたんにそれが社会のルールであることになり、「必要悪」の「悪」が忘れ去られてしまう。 p.105 「成熟した女性」を性欲の対象にできなくなってしまっている男性が現代ほど多数にのぼっている時代・社会は他になかった筈なのだ。男を傷つけることばを平気で吐き、結婚の対象としておのれの好みに合わぬ男は吐き捨てるがごときことばでこれを公然と蔑視し、男の性欲を利用して欲得ずくの肉体関係を結び、恋愛関係の破綻はのっけから金で解決させる気の、怖あいこわい成熟した現代の女性などというものには、よほどの男らしい男でさえ迂闊には手を出せないのである。 p.106 小さすぎる対象に向かうリビドーは破壊衝動となる。 p.156 女性には、こういうことがないのである。だからこそ男性の、あれはその場の雰囲気で言ったことなのだからと言う弁解に対しても絶対に容赦しない。まして女同士大勢で盛りあがったことは、間違ったことであるわけはないのである。絶対に正しいのp.157である。反対するものは絶対に間違っているのである。そうなのである。もし女性でありながらそれに反対する者がいれば、それは可哀想な人なのである。 | 男性の女性化 |
(2000年記)

