近代性の構造 「企て」から「試み」へ 今村仁司 1994 講談社選書メチエ














近代性の構造

近代性の構造



平易な今村理論の総括書である。他の今村書と同じく、導入で期待を持たせて、理論史が続き、最後の結論で消化不良になるパターンである。

特にこの本は、平易であるがゆえに理論的な飛躍と思われるところがあるが、仕方のないところであろう。

1968年を全世界的な一つの革命ととらえて、近代(モダン)の終焉としての切断点としている。これはベンヤミン的な観点であろう。確かに68年を現代的な一つの革命ととらえる観点は、私とも共通している。しかし、その革命がもたらしたものについては今だ整理されていない。その革命のあとの反革命的な動きが近代社会を自己補修し、より完成された(これも近代的な思考法であるが)近代が形成されているのが現実である。それとは別にインターネット(これも60年代以降の情報化社会が生み出したものであるが)に代表される高度情報化社会を近代が制御しうるのかどうかの方が大切に思える。

今村は、近代性の構造を5つの要素から構築されるとしている。

1 機械論的世界像

2 方法主義 根拠と体系の真理、自己規律

3 市民社会 他人との関係、自然との関係、自己との関係

4 労働世界

5 時間概念 累積的、進歩的時間感

これらの要素は相互に関連しあって、近代を形成している「企て」主義になっている。それに対して、「相互の限定否定の中で、過去の経験を変容させ、過去の経験の中に隠れている「目覚めを待つ可能性」(ベンヤミン)を救済する精神の営みを、「試みの思想」とよぶならば、まさに現在の思想的態度はそうしたものである。」今村にとっての「試み」は、「自分の内部の異者に気づくことからはじめるのが、排除と差別の回路を断つ第一歩である。自分の内部の異者を見ることは反省の努力であり、そこでこそ理性の能力が試される」のである。

「試み」の仕方は、個々人で別々である。別々であるからこそ近代をずらす力となる。私たちは、それぞれ独自の方法で脱近代に向けて「試み」続けなければならない。00.6.2
p8 軍隊で崩壊させることができるのは、物体だけで、軍事でシステムを崩壊させることは、原理上不可能である。軍事は政治には勝てない。倫理的な問題をはらんだ政治、反逆と反抗と抵抗の政治のみが、ひとつのシステムの歴史を終わらせることができる。



p48 この「永久産業革命」機械としてのテクノ=エコノミズムを分析すれば、近代という時代を構成する基本要素が現れる。エコノミーとテクノロジーという、古代では異質で相容れない二つの要素がひとつに合体すること自体が、まさに近代性なのだ。この「接合」の親和力を産みだす条件は次のとおりである。(一)機械論的世界像-古代のテクネーに代わる近代テクノロジーを生んだのは、機械論である。世界全体を数量的に処理する世界了解図式があってはじめて、近代特有のテクノロジーが生まれた。(二)生産主義的=計算的理性-主観性を原理として「世界を構築する」という生産的=構成的な精神が、近代理性の方法主義を支える。(三)進歩時間論-未来を先取りして計算しつつ、計画を立て実行するという行為は、未来に向かって前進し、進歩する時間意識を含む。単に前方を望むだけでなく、決断して成果を蓄積するのが、近代の進歩と発展の時間意識である。



P.72マルクスは原始的蓄積論で、近代労働のリズムに合う労働身体を作るという意味での労働創出のプロセスを描き、マックス・ウェーバーは、このような労働者や物を作る人々の内面的意識を描いた。



p.73円環時間はもっぱら過去にむかうが、近代の時間意識はもっぱら未来にむかうわけである。



p74意志というのは思考と違って、なによりも未来に関わる独特な精神的態度といえる。



p.92古代ギリシャに見られるように、技術の発明があったのだが、それが経済と結合して、社会を「発展」させることはなかった。



p99実験的ユートピアは絵空事ではなくて、未来を先取りする精神と企てる精神の結合体であり、・・・近代の純粋なあらわれであった。



p126機械論の精神が歴史上はじめて、世界を分解し再構成する方法の精神を作ったのであり、この方法を支える原点に、分割不可能な個人がすえられる。それは、哲学の原理になったばかりでなく、近代市民社会の原理にもなった。



p145自由と権利は、天から降るどころか、近代の人間の制作的理念によってつくり出されたものである。・・・まさに個々人が全体の基礎や原理となる。この部分による全体の構成が機械論的なのである。



p189近代世界が十分に「合理的」であるから、近代的市民の内面があまりにも十分に「自己規律的」「自己立法的」であるから、かえって近代性は排除的・差別的なのだ。



p190近代的人間は、自分自身の内面で、排除と差別の構造を、いわば毎日体験しているのだ。



p191こうしてわれわれは、近代性の構造の二重の排除性に気づく。ひとつは、近代人が内蔵している「排除のエートス」であり、もうひとつは近代世界のあらゆる制度が抱える排除の構造(階級的経済・政治、民俗と人種の差別を助長するイデオロギー的装置など)がある。



p209異者の共同体は、中心のない共同体である。同一化も排除もない共同体である。率先して自己排除する道を選択した人々が作る消極共同体は、たとえ無力ではあっても、少なくともそこでは排除と差別のない生活の実質が実現していることだろう。そこでは人間か非人間かの問いが一切の意味を失うだろう。





 われわれを社会の歯車だと思わせる意識

00.9.24



網の目のように細分化して支配する構造に対しては、網の目のような細分化した反抗が必要である。つまり、少数者による網の目ひとつひとつの攻撃である。その方法は、自らを異者とすること、自己の中の異者を認め、異者と自己の和解を図ることによる。00.9.24

(2000年記)

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