自己の探求 中村元著 1980/12/20 青土社

自己の探求 中村元著 1980/12/20 青土社

図書館リサイクル

退職後、年金ではあまり本が買えないので、本棚にある古い本を中心に読んでいます。そして、結構面白い本を「発掘」します。

というか、やっぱり名の売れた著者の本は面白いのです。どこかしら「いい内容」があるのです。ただ、私がその本を読み終えないうちに著者が亡くなっていることが多いのが残念ですが。

この本は10年くらい前に、図書館からもらったものです。そもそも、リサイクルになったというのは図書館でも要らなくなったのかな、と思います。まっさらな本です。分類シールもありません。寄贈されて(?)図書館には配置されなかったのでしょうか。

もし配置されたとして、何人の人がこの本を借りたでしょう。この町にこの本の存在を知っている人がどのくらい居るのでしょうか。「中村元」を知っている人もどんどん少なくなっているような気がします。

「中村元」が死んでも、この本は残ります。それは著者にとって「いいこと」なんでしょうか。今現在還暦くらいの女優や元アイドルの18歳のときの映像や写真が残っています。それは彼女たちにとって「いいこと」なんでしょうか。特にAV女優は「若いこと」が価値で、ほとんどが20歳前にデビューして数年で引退していきます。20代なかばの彼女たちにとってAVが残るのがいいことなのでしょうか。死んだ人にとっては、その著作が残っているのかどうかは知る由もありませんが、単純に「いいこと」だとは言えない気がします。

「思い出」や「著作・作品が残ること」を「いい」「わるい」とか「自慢だ」「恥ずかしい」とか思うのは「私」です。「〇〇さんはいい本を書いた」「〇〇さんは恥ずかしい」と考えているのは「〇〇さん」ではなくて「私」です。思ったり、感じたり、考えたりしているのはあくまでも「私」なのです。私は「私以外の人(他人、汝)」「ペットの猫」の思い、感覚、考えを思ったり、感じたり、考えたりすることはできません。

その「私」は「自分」と言われたり「自己」「我(われ)・自我」と言われたりします。私は戦後の民主教育を受けて育ちました。その中で、「しっかりとした自分を持つこと」「個性を持つこと」は「正しい」「あるべきすがた」として教えられました。著者は1912年(大正元年)の生まれ(だから名前が元)です。戦前日本の帝国主義的、あるいは軍国主義的教育を受けたということもできます。ですから、「私」について感じるところも違うとは思います。

ただ、戦前と戦後で日本人が「総入れ替え」されたわけではないし、資本主義社会という社会の基本構造は変わっていません。その基本構造を規定しているのが「私」「自己」「自我」だと、私は考えています。この3つは同じではありませんが、その違いをうまく考えられません。たぶん、「定義」の問題なんでしょうね。「私はこういう意味で使う」と整理できればいいのかもしれません。


よくわからないので、「私」に似た言葉や関係が強いと思われる単語を挙げてみます。

わたし、自分、我、自己、魂、精神、心、主体、個人、主語、主観、感覚、感じる、考える

これと対になる言葉を考えてみました。

あなた、他人、汝、他者、肉体、肉体、身体、客体、社会、述語、客観、実体、存在(有る)・思う、事実

ちょっと怪しいのや、こじつけっぽいものもあります。人によって違うものもあるでしょうが、どれも日本語として馴染みがあるものです。このうち、もともと日本語にあったのはどれでしょうか。音読みではなく訓読みできるのは、「わたし、あなた、なんじ」「からだ、たましい」「ある、かんがえる、おもう」くらいです。「かんじる」は大和言葉ではなんといっていたのでしょうか(おもう、おぼえ(覚え)、かんがえる、かんじる、なんか関係がありそうです)。

もともと日本語にあったものは日本人が生きる上で必要な言葉でしたが、仏教とともに中国思想を経由して日本に入ってきたインド思想が日本語を豊かに(複雑に)しました。それから千数百年後、こんどは西洋思想が押し寄せ、それに対応する多くの日本語がつくられました。専門家じゃない限り、どれが大和言葉で、どれが仏教用語で、どれが翻訳語なのかわかりません。

言葉が増えるということは、それに対応する対象が増えるということです。それを「豊かさ」という人もいます。たとえば、「手ぬぐい」は「お手拭き」「タオル」「バスタオル」「ハンカチ」・・・などに分かれます。「りんご」も「みかん」も「ぶどう」も新しい品種が増えるごとにどんどん分かれていきます。「家(住宅)」も「アパート」「コーポ」「マンション」「ハウス」「メゾン」「パレス」等、どんどん名前(呼び名)が増えています。名前が増えることと物が増えることは違います。「量ではなく質が増えている」と言う人もいるでしょうが、結局は同じことです。

これは「物質的な豊かさ」ですが、「こころ」が「私、自分、自己、精神、主体、・・・」などに分けられて、それが「こころの豊かさ」だという人は、「家の豊かさ」を実感する人よりも少ないと思います。「私」が数として増えることはないからです。日本語には「私」を表すのに、「俺、ぼく、あたし」など様々な言葉があります。英語では「I」だけです(古英語や「ego」「self」などは除きます)。これが日本人の「私」は英米人より「豊かであること」の証拠でないことは明らかでしょう。

責任

私はむしろ、分けられることによって個々のものが小さくなるような気がしてならないのです。バスタオルがないと風呂上がりの身体が拭けない人(怒る人)が増えてきているのではないでしょうか(トイレという場所がないとおしっこができない人、ウォシュレットがないと便ができない私)。本来持っていた「豊かさ」が分散してしまう気がするのです。

その分、新しい言葉は日常生活から離れていきます。「わたし」を精神と身体に分け、精神を意識と無意識に分けたとき、「無意識」という言葉は無意識使いがちですが、無意識ということを説明することはとても難しいです。「いろ」を「性」と「好き」、「恋」や「愛」はたまた「恋愛」と分けたときに、「恋愛と好きという気持ちはどう違うの」という問いに答えるのは難しいのです。

どうも気に食わないのが「説明責任」という言葉です。説明も責任も抽象的でよくわかりません。マスコミは「説明する義務がある」という意味で使っているのでしょうか。責任と義務は違いますが、「責任がある人」が「ノーコメント」「お答えは控えさせていただきます」というのが許されるのはなぜでしょうか。誰が何の為に誰に「控える」のでしょうか。それらは空言にしか聞こえないのです。「説明責任」という言葉そのものが空言なのだとおもいます。

言葉が抽象的で日常から離れている分、「婉曲表現」になります。言葉が日常的な西欧語では言ったことが直接的にならざるを得ないのではないでしょうか。

自己

〈自己〉とはないか?ーーこの問題は、古来幾多の哲学体系・宗教思想において中心問題であった、と言えるであろう。(P.11)

という書き出しで本書は始まります。なぜこれが「問題」なのかは、ここでは明らかにされません。本書全体を通して「自己を探求」していく結論が、この前提を解き明かすことになるのでしょう。西欧やインド、キリスト教やヒンズー教・仏教で〈自己〉がテーマとなっているのは確かです。日本ではいつから問題になったのでしょうか。仏教の僧侶にとっては問題だったようです。でも、それは「文献で残っている限り」ということです。文章を書かなかった人、それが人間の大多数、ほとんどの人間です。その人たちにとっても同様に〈自己〉が問題となっていたのかどうかはわかりません。文章を書く人はそれを問題にしていたということです。

しかし古代ギリシア哲学では〈自己を求める動き〉は、アートマンと語義的に似ているプシュケー(霊魂)をたずねる動きとして展開した。(P.18)

文章を書くということは、そこに「自分」を見つけるということです。鏡や水の表面に自分を見つけるように、です。プラトンやアリストテレスが自分で文章を書いたのかどうかは知りません。イエスも仏陀(ゴータマシッダールタ)も自分では本を書きませんでした。古代エジプトやメソポタミアに「書記」という職業があったことは知られています。ヨーロッパでも印刷技術が発達するまでは「書字生」がたくさんいました。今でも「ゴーストライター」がいるように、「書くこと」と「自己の外在化」は同じことではありません。

私は庶民は「自己」をもっていなかったし、今でもある意味ではもっていないと感じています。ドラマなどでは王様や将軍などの「自己」が描かれ、切られ役などの端役、今の言葉で言う「モブキャラ」の「自己」は描かれません。上司などの命令でただ切られて死んでいく人たちはどんな気持ちだったのかなあ、といつも考えます。その人たちを主人公にした「サブストーリー、サイドストーリー、スピンオフ」が描かれることもありますが、ほとんどが本作を超えられません。私には彼等に主君に対する忠誠心と「切られて死ぬのは嫌だなあ」という「自己」との葛藤があったかどうかはわからないのです。愛する妻や子、あるいは親に対する別れがたい気持ちはあったでしょう。でも、主君に対する気持ちは「自己」を遥かに上回っていたのではないでしょうか。

それは、簡単に言えば「そういう社会」だったからです。〈自己〉を中心に物事を考える社会とそうではない社会です。西欧において(日本においても)〈自己〉が中心になったのは近代以降です。それを著者は「自我の自覚」と呼びます。

自我の自覚

〈自我の自覚〉は近代初期にヨーロッパで始まり、そののち西洋の文明はその線に沿って発展した。ところがアジアあるいはその他の諸大陸の民族のあいだでは、まだ〈自我の自覚〉が未発達である。われわれは近代的(つまり西洋的)な自我観を確立せねばならぬ。ーーこれがわが国の知識人一般の間の了解である。(P.22)

これは戦後の民主教育の中心課題であるのみならず、明治維新以来の知識人の心情です。それを「開化」と呼びました。「開化」は「啓蒙」と同じ意味です。「enlightenment」です。「見えない人に明かりを見せて導く」くらいの意味です。この啓蒙主義の下、西欧がアフリカ大陸やアメリカ大陸で行ったことを知っている人も多いと思います。「知識人」あるいは「強者」「支配者」のおごりですね。自己が中心となることは、知識人が力を持つこと、そして知識自体が力を持つということです。近代における「知」の優先が確立します。それはせいぜい200年のことです。

われわれは認識し、意欲し、行動している。それを各個人に限っていうならば、

〈われは認識し、意識し、行動している〉

ということを、自分で自覚している。その事実を考察する時に、

(1)認識し意欲し行動する主体が、その主体それ自身を外界や他人と区別することがなされる。その場合に、その主体は外界や他人と対立するものと考えられる。これを〈自我〉と名づける。

(2)外界や他人との関係を考察の範囲に入れないで、意識し意欲し行動する主体だけを、考察反省の対象とすることも可能である。この場合に、客観化されたために、考察反省の対象となる主体を〈自己〉と名づける。(P.24-25)

明確な切り分けだと思います。

自我の実体

ところで自我を〈実体〉とみなす見解は論理的に一つの誤謬を含んでいる。「実体」とか「性質」とかいうのはカテゴリーであって、現象世界についてのみ適用され得るものである。経験世界においてのみ適用され意義をもつところの「実体」というカテゴリーを、経験世界をこえた領域においても意義をもつと考えて、自我を実体としてとらえたところに、デカルトやインドの自然哲学者たちの誤謬がある。自我は疑えないものであるが、それが実体であるという結論は、そこから出てこないのである。(P.46)

自我は「存在」するのか。それは自我の外に有るものが存在するのかと同じ問なのです。「自我」と「客観的な世界」をどちらが存在してどちらが存在しないと思いますか。「自我は存在しないが客観的な世界は存在する」と考えるのが唯物論で、「自我だけが存在して客観的な世界は存在しない」と考えるのが唯心論、「どちらも存在しない(かもしれない)」と考えるのが懐疑論、と言えるのかもしれません。普通(?)の人は、「どちらもあるじゃん」と単純に思ってしまうのですが、知識人はそれを突き詰めて考えてしまいます。

それは「存在論」として、哲学の中心課題です。存在(τὸ ὄν)をアリストテレスは実体(οὐσία)に矮小化して存在論を回避したのですが「自我が〈どう〉有るか」ではなくて「自我が〈在る〉か」そのものが問題なのです。「在る(存在する)とは何か・どういうことか」ということが存在論です。これはパルメニデスが明確に答えています(「ある、そしてないはない ἔστιν τε καὶ οὐκ ἔστι μὴῖεἰναι」(断片B2))。でも、アリストテレスを受容した西欧哲学は「存在」を「実体と性質」として捉えて、ハイデガーの言う「存在者の哲学」に「頽落」させてしまったのです(日下部吉信『シリーズ・ギリシア哲学講義』)。著者もこの本ではその問題を詳しくは書いていません。そして、

われわれは〈生きている〉という自覚、反省から出発したい。

〈生きている〉ということは、抽象的思索の結果到達して知り得た結論ではない。なんぴとでも日常生活において実感していることなのである。(P.59)

としてしまいます。そしてそのまま「個人」へと話をすすめます。それも一つの「方便」だと思います。

それぞれの個人は全宇宙から影響をうけ、その影響を受けるしかたが異なるからこそ、互いに少しずつ様相を異にした個人として成立しているのである。(P.68)

その無数の原因・条件というものは、無限の過去にまで遡ることのできるものである。

このように考えると、無限の過去からの無数に多くの原因・条件が、その二人の人格を成立させているのみならず、その二人の人格の相違、つまりそれぞれの人格の独自性を成立させているのである。

考えてみると、宇宙の中のありとあらゆるものが、その人の独自性を形成しているのである。(このような原因となる宇宙の一切のものを、仏教哲学では増上縁(ぞうじょうえん)とか、能作因(のうさいん)とよぶ。すべてのものが因となり、縁となると考えるならば、〈因縁(いんねん)〉とよんでもよい。)(P.69-70)

生命

そして以上の考察から、〈生命〉とは個々の細胞とか個体としての生物だけの問題ではなくて、世界全体、いな宇宙全体の問題として取り上げねばならないことになる。(P.195)

ともかく、生命の段階的構造を認めるとすると、直接的な生命は、人間の生命である。

このような立場に立つならば、絶対者を人間ないし生きものの〈生きていること〉のうちに見出すべきであり、それを超えた超越的なもののうちには求めてはならぬのである。生命は絶対のものに相即している。(P.210)

私たちは人間であり、「自己」「生命」「存在」等を考えているのも〈我〉です。でも、そこから「人間中心主義」や「自己中心主義」に行くことは必然ではありません。そこを問うことこそが「自己の探求」なのではないでしょうか。それを飛ばしてしまうと、ただ「倫理」的で「説教臭い」話になってしまうと思うのです。

しかし毒蛇を殺して人間を助けねばならぬという絶対普遍的な定則は何も存在しない。毒蛇の立場から見れば、事情は逆になる。毒蛇にとっては人間は有害な、恐るべき存在である。ただわれわれは人間というかたちをとった生き物であるから、同じすがたや本質的特徴を共通に有するものに味方するのである。そこに段階的な相違があるということも、厳然たる事実である。

そこで、動物、殊に人間に近い動物の生命を尊ばなければならぬという見解を保持しつつ、人間の生命の優位を認めたのは、仏教である。(P.246)

しかし、仏教的心情が浸透しているわが国では、動物実験の犠牲となった動物のための慰霊祭が行われる。西洋にはないことである。人間のエゴイズムを否定することはできないが、西洋におけるように無反省に放置されているのではなくて、第三者の高い立場から見るということが行われているわけである。(P.249)

「反省」しているかどうかが西洋と日本の違いなのでしょうか。もちろん、個々人ではなくて文化のことです。西洋ではその「高い第三者」を「神」としました。神の御前でのみ人間(自我同士)は平等なのです。その神は西洋では投影された〈自我〉・人間性でしかないのですが、それも一つの「反省」だと思います。そこに西洋の強い〈自己(ego、自我の自覚)〉があります。

そしてその「自我の自覚」というのは、「主観性(主体)の自覚」だと思います。つまり、〈我〉の外にあるものも、〈我〉そのものも「対象(客観)」とみなすことです。それを「存在」とみなし「対象化」するのが西洋的発想です。それを明確に宣言したのが「我思う故に我あり」です。日本人は「他者」や「草木」は対象ではありません。「他の生存者との共同・不二一体」(P.203)こそが日本人にとっての「梵我一如」であって、インド思想とは違う気がします。

真実の自己は絶対の主体であるから、対象化することができない。それは、

(1)概念的に規定することのできないものである。

(2)数や量によって規定して叙述することのできないものである。

したがって具体的には形や色をもっているものではあり得ない。もしも言語で表現し得るものであるとすると、〈語〉は他人と共通のものであり、他人と共通の手段または資材を用いて理解しようとする限り、独自の自己がまさにその人の自己として独自である所以のものは逃げ去ってしまう。(P.95)

自己を主体とすることが、即ち自己以外を対象化することです。主体をもつこと自体が「自己中心主義」「人間中心主義」なのではないでしょうか。

ただわたくしは、近代西洋で強調され、またこのごろの日本ではやっている〈人格の尊重〉ということばには、何かしら〈いやらしさ〉を感じる。いかにも虚構にみちているという感じである。たえず〈員数〉として扱われている点には〈尊敬〉の扱いを受けているとは思われない。

しかし、「われも人の子、かれも人の子」と思って、他人に対して無限の親しみを覚え、尽きぬ共感をともにするときに、われわれは明るく生きる生き甲斐を感じる。それはともに無限・無尽蔵なるものとに一体感を通じての、心と心との抱擁である。(P.76-77)

気持ちは私も同じです。〈員数〉と数えられる典型的な例が「選挙」です。私は「一票」でしかなく、それは私の「人格そのもの」とは程遠いものです。それでも私は自分を〈員数〉とされることを認めて、「選挙制度」や「民主主義」を尊重しなければならないのでしょうか。

運命の共感から愛情へ

人間が何故に、鳥獣よりも以上に人間を助け、人間と協力せねばならぬかという理論的な理由づけは、不可能である。ただ人間として生まれたという運命の共同感によるべきであろう。人間は鳥獣よりも知能的にはすぐれているであろうが、道義的にすぐれた存在であるということは立証できない。若干の人々の身勝手な行動は、明らかに禽獣よりも劣っている。

人間がすぐれたものであるということを主張するために述べられた理由づけの議論は、すべて人間の独善である。人間のエゴイズムが鳥獣に対する人間の行動を正当化する。(P.290)

この「エゴイズム(自己中心主義)」がなぜ生じるのかを考えるのが、この本の主題である「自己の探求」です。そして探求する「対象」として「自己」を設定している限り、それは見つかることはありません。「私とは何か」「こころ(意識)とは何か」「人間とは何か」、「私の存在理由」などは見つかりません。見つからない「文化の枠組み」の中で思考しているからです。

その枠組(学問、「知」の枠組み)こそを問わなければならないのです。

微々たる個人が微々たる活動をなすということも、将来に向かって無限の因果関係、条件づけを行うということになると、微々たる個々人の存在の意義は大きいし、また尊い。(P.291)

そう思えれば、私の気持ちも少しは和らぎます。と同時に、そう思うこと自体が「自己承認欲求にほかならない」とも思うのです。でもそれは「活動しない」言い訳にはならないのでしょうね。

[著者等]1912~1999。東京大学印度哲学梵文学科卒業。インド哲学者、仏教学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員。専攻はインド哲学・仏教学。勲一等瑞宝章、文化勲章、紫綬褒章受章(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 バウッダ[佛教]  (ISBN-13: 978-4062919739 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
自分自身はどのように生きたら良いのであろうか?この問題は、なんぴとにとっても差し追っていることがらである。そうして、いかなる人も、最後には自分自身で決定を下さねばならぬのである。この問題に対して著者なりに試みた答えが、本書である。
[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4791750177]

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