作ると考える -受容的理性に向けて 今村仁司 1990 講談社現代新書









































作ると考える -受容的理性に向けて

作ると考える -受容的理性に向けて



このHTMLをかくのには長い時間がかかっている。おかげでこの本は3回も読んでしまった。

その原因は、タイトルの「作ると考える」の「作る」、つまり、生産主義的理性がさまざまな言葉で語られていてその整理が難しかったのと、時間概念の2面性(直線的等質な時間と、方向性をもった発展的時間)がうまく整理できなかったからである。さらに、「考える」と、認識と知ることの整理もできなかった。(今でもできていない)

それでは読んだ意味がないではないかといわれそうであるが、自己のなかの異者(私の用語で言えば「特異点」、あるいは「個性」)を受容することによって新しい倫理観を提出する準備の本である。

私たちは、生産主義的理性の支配する体制の中で生きている。その思考も生産主義的である。しかし、同時に、私たちは今の体制が抱える様々な問題も知っている。しかし、考えることはしない。もちろんなにも考えないわけではない。しかし、それは何かを作り出すための思考である。

今必要な思考は、なにも生産しない、あるいは生産を否定するための思考である。そこにとどまり、未来ではなく過去を見つめる思考、それが求められている。それは、自分自身の「成り立ち」を見ることになるが、分裂した自己(見つめる自己と見つめられる自己、生産主義的な自己)のなかで行う自己否定である。

問題は、「いま」いかにして過去を見出すかということである。いまが時間の特異点であり、そこから(その亀裂から)過去を救い出す方法は、きっとないのであろう。それぞれが、それぞれの個性のなかで考えなければならない。それこそが個性なのである。
プロローグ

歴史的転換の諸徴候



資本主義と社会主義



少数民族問題



P18

少数者に対してどんな反応をするかで、その社会の倫理的資質が現れる。



国民国家の理念



P20 「国民国家」への統合そのものが、異質者の共同体と文化の破壊として機能している。



「国民国家」の中に、からくも保存されていた「すべては同等者」という理念を実質化しようとすれば、「国民国家」自体を解体しなくてはならないかもしれない。そして、より重要な思想的問題は、少数者ないし異質者を排除せずに、彼らと共存することである。それは「人道主義」といったものではない。精神のあり方の根本的方向転換が問われはじP21めている。



基軸思想の崩壊



P21 何でもよいが原因とおぼしきものを見つけだせば、ひとは満足するのだと。この不安を大規模に巧妙に解消し、もっともらしい解釈の仕方をつくってひとを満足させてくれるのが、「大理論」というものである。



転換期の思想のあり方



P23 転換期に立つ思想は、啓蒙主義のように時間流を過去から現在を通って未来へと辿るのではなくて、不連続点という開口部から、垂直に下へと降りていく。



未来は過去の下層に沈殿している。



P24 それは、継ぎ目のない首尾一貫した体系であるかに見えてきた思想や文化の諸々のタイプのなかに亀裂や裂け目を見てとり、その裂け目あるいは開口部を通して、それらが隠したり排除したりしてきたものを救出することである。



どこに問題があるのか

































































CATASTROPHE 突然の大災害
第1部・・・作る精神の確立と展開



1 作る精神の確立



近代思想の出発点へ



作る精神の登場



P32 ベーコンの『大革新』は、一種の大掃除である。掃除されるものは、いくつかのイドラである。「種族のイドラ」(人間性に根ざすもの)、「洞窟のイドラ」(個人の欠陥に根ざすもの)、「市場のイドラ」(言語の混乱によるもの)、「劇場のイドラ」(伝統的思想が作りだした虚偽)、これらはいわば認識論的障害物であって、これらの乗り越えがちの革新に通じる。



確実さを求める



知と力は合一する



P37(ベーコン)制作によって自然を征服しようとする人



方法的精神



P43「考える」が作る精神であるかぎりは、「考える」は「知る」に収斂していく。そして哲学は、認識の哲学になる。



政治体の制作-ホッブス



P48 近代における自然の理念化は、自然を徹底的に量的存在に還元して、世界の「数学化」を究極の目標にする。



近代歴史学の生誕



P54ヴィーゴ自身の思想的特質をとりあえず度外視して、彼の基礎命題=定式のみを抽出してみれば、Verum=factum、心理=事実、知る=作る、といった等式は見事なまでに近代精神あるいは近代的思考様式を表現している。



作る精神と「進歩」の観念



p59進歩という理念が生産的理性に裏打ちされた生まれたということである。「作る精神」がなければ、進歩の理念はない。
2 作る精神の展開



作る精神の自明化



市民経済の発展



p62産業社会は、単にモノを作る社会であるばかりではなく、勤勉と禁欲の精神が横溢する社会である。・・・勤勉あるいは禁欲の精神に支えられた作る精神の確立にあった。

経済学の生誕-アダム・スミス



p64人々は自分の日常的経験のなかなら、行為をコントロールしてくれる「良心」を自分で確立することができるのである。



セルフ・インタレスト



p65古い共同体が崩壊し、新しく市民社会が成立してきたとき、人々は自分以外に頼るべきなにものも持たない状態におかれる。思想の面では、自分の精神を鍛えることが緊急事になり、生活の面では自己への関心が決定的に重要になる。市民社会は各人の自己保存をあからさまに際立たせる。



p66スミスの「自己関心=利己心」の概念は、古い博愛イデオロギーを解体して、勤勉と禁欲にいそしむ生産者階層の経済行為を励ます。



文化価値の転換



p67産業的市民社会にあっては、生産主義的理性は人々によって実践的に生きぬかれ、いわば空気のように自明のものとなる。

作る精神によって鍛え抜かれる勤勉精神は「多忙であること」(busy、business)を文化の中心価値としていく。

カント



コペルニクス的転換



ヘーゲル



産出する精神



p73外部を作り変えるとは、他者・外部を自己自身のものとすることである。それを「同一化」という。同一化の内容は、まず自己を自己自身の他者にし、ついで他者のうちにあって自己自身であることを見出すことである。つまり同一化は、非同一化をふくむ。あるいは逆にいって、ヘーゲル的同一化は、非同一なるもの・外部・異者を内に吸収することで「他者化」する。他者とは同一性の土俵の上でのみ成り立つ。

ヘーゲルにおいて重要なことは、外部に出ること、外部を制作的に作り変えて内部化すp74ることである。精神は、自己を外化と自己分裂を通して自己意識に到達する。精神は「自己を世界に合わせて作る」と同時に「世界を自己に合わせて作る」。

現実が合理的、理性的であるのは、現実が理性ないし精神によって制作されたからである。理性と現実の同一性を成立させる条件ないし根拠は、生産する精神である。

生産・定立・対象化



p75定立(setzen、pose、poser、etc)は、したがって、表象一般の精神による生産・制作といえるだろう。



対象化とは、意識のなかで、何らかの観念・表象・概念を構築し、明快な形をもってわれわれの眼前に据え立てることである。意識作用の領域では、それは客観化ともいい変えることができる。

マルクスと作る精神



歴史的精神の確立



p81 最初に進歩が、ついで発展が、最後に進化が生まれる。



進思想のもう一つの帰結は、古いものに変わって新しいものを作りだすという「革命」の思想である。革命という言葉は、もともとは「元に戻る」ことであり、したがってそれは「復古」である。

作る精神と時間



p83 近代の自然科学の時間概念は、自然の量的把握と一体である。



時間・空間はどこをとっても均質的である。時空間は均質であるがゆえに、連続的である。

量的性格、連続性、限界のなさ、等質性。これらは近代技術思想の性格と符合するし、事実、技術的制作活動は、このように表象された時間を対象的に操作しコントロールする。しかし、ありていにいえば、近代の時間は、日常生活においても理論においても、就くkる精神と作る活動の産物であって、作ることと時間の近代的性格が一致するのは、もとより当然なのである。

p84 技術と知識の面で、単純から複雑へ、不正確から正確へ、不確実性から確実性へ、という動きが進歩と見なされる。その時代区分上の名前が、「未開」「野蛮」「文明」である。こうした観念群が人々の精神をとらえて肉体化するとき、近代人という人間類型が生誕する。

近代人は、進歩・発展・進化の時間に、病的なまでにとりつかれた特異な人間なのである。

まとめ



p85 世界は、自然であれ人間の世界であれ、生産・制作活動による「作品」=「人工物」なのである。

近代文明の基礎は、労働と認識の内的連関、作ることと知ることとの不可分の関係にある。








































































生産と思考停止

権利の譲渡

仕事以外は考えなくてよい

思考停止と民主主義



第二部・・・作る精神との格闘-現代思想



1 離脱の試み-ハイデガー



近代性を問う



p89
表象とは対象化・客観化である。近代の思考様式の体質・体制(constitution)は、この対象化行為によって貫かれている。



フッサールとハイデガー



p91「内容的充実」の計算可能性



まず自然が「数学か」され、それが社会の「数学化」をひいては人間の感覚的、感情的生活の「数学化」を引き起こす。自然の科学につづいて、社会の科学と心理の科学が生誕する。こうして世界の全面的「計量可能性」が生じる。世界は測定の対象になる。正確と厳密と確実が近代の価値になる。事実の知はさかんになっても、事実とその知の意味はますます喪失していく。



近代の計算主義的理性のおかげで、世界は徹底的に「物象化」してしまった。



p92 フッサールの認識論的差異(超越的なものと超越論的なものとの差異)を、ハイデガーは存在論的差異に切り換える。ハイデガーの隠語でいうと、存在者と存在の存在論的差異によって、存在の意味を救いだすこと、これが初期ハイデガーの企てであった。



p93 近代の精神は、私の用語でいえば、生産主義的理性のことだが、それは「考える」を「知る」に還元した。近代という時代は、表象を「作り」、表象されることを「知る」ことはできても、「考える」ことはできない。「考える」とは、「存在者の存在を可能にする存在とその意味」に関係する。存在が忘れられる(近代理性はこの忘却を偶然ではなく必然的にする)とき、「考える」も忘却される。



離脱の動機



挑発としての技術



存在の意味の消滅



技術と手仕事の違い



p99 表象作用(Vorstellen)の帰結は、世界の「道具体制化」となる。・・・技術は「考えない」。手は「考える」。技術は自然を挑発するが、人間の手は挑発しない。人間の手は(p100)贈与するが、暴力をふるわない。



p101 「知る」と「考える」を峻別するとき、真理は知られるのではなく「思考される」ことになる。思考とは、そのとき、答えのない一連のシリーズになる。存在の意味が露わになるように永続的に問いかけを続ける。
2 歴史への懐疑と根源史の構想-ベンヤミン



p107 人間生活は常にカタストロフィーのなかにある。連続があるのではなく、むしろ不連続がある。



p108 彼の歴史を見る目は、現在の表層のなかにあるさまざまな亀裂や穴から、生活の下層や地下へと視線を辿らせる。その目が探し求めるものは、下層に沈殿する堆積物である。それをベンヤミンは「根源の歴史」(Urgeschichte)とよぶ。人類の根源史は目覚めを待っている。この根源史が目覚めさせられるとき、それは未来になる。過去とは可能性としての未来なのである。



p109 限りなく廃墟として積み重なっている過去の出来事・死者と対話し、目覚めさせ、回想し内面化すること、これは一種の離別の作業でもある。別れは、過去の可能性を未来に向けて解放する。人は、真に別れるために哀悼する。



p116(ベンヤミン)おのおのの現在にとって根源的な歴史との触れ合いを可能にすること-このことこそ歴史的唯物論の課題である。歴史の連続を打破するイマノトキという意識に、歴史的唯物論は依拠するのだ。



p130 自然を搾取する労働(産業労働)は、必ず人間を搾取する。技術・労働主義は、自然と人間の両方を搾取して、地球の荒廃をひきおこす。
未来にのみ目を向け、過去を忘れた現代人





いつまでたっても未完成な人間・いつまでたっても未完成な個人=その時、その存在がすべてである(それ以外はない)。



私には明日があるというが、明日の私は今日の私ではない。今日の私は今しかいない。



私の歴史を今の私が持っている。全人類の歴史を今の私が可能性として持っている。今私が行動すること、それが過去の歴史を救うこと。



イマノトキしか生きることができなければ、ユートピアは無意味である。
3 異者へのまなざし-アドルノ



p146 彼らが描く「啓蒙」は、野蛮と闘う啓蒙ではなく、自らが野蛮たらざるをえないような啓蒙なのである。そして第二に、この啓蒙の野蛮化は、偶然的な出来事とか、啓蒙の一時的ミスといったものではなくて、原理的な野蛮化なのである。

生産主義的理性は、啓蒙主義に行き着く。



p149 精神の内部構造に即していえば、自己を救うためにもう一つの自分を殺す。自然的、神話的自我を殺して、理性的自己を救うのである。

供犠とは人間のうちなる自然の否定である。たしかに、これは魔術からの解放、つまり神話的世界からの脱出である。しかし同時に、この過程で、精神は犠牲作りのメカニズムを抱えこむ。合理性が供犠の原理を受け継いでしまうのだ。ひとたび理性が自立するとき、理性はおのれの内にある犠牲作りを隠し、ひいては忘却してしまう。



p150理性の誕生と野蛮(供犠としての暴力、犠牲者作り、等々)の内面化とは同時に起きている。



p151 理性は外的自然を支配するばかりではなく、外部自然の支配が反転して、内部自然(「人間的自然」)の支配にもなる。外部への支配的関係を媒介にして、しかも、この関係は忘却され、無意識化して、自我は二つに分裂する。一方の我(本来的我)p152が、もう一方の我(非本来的我)を支配し、対象化し、物化し、管理する、等々。



無差別とは、「どうでもよい」と「互いに無関心」の二つの意味をもっている。無差別になることは、あらゆる質を消去されて、全くの量的存在になることを意味する。



p154 啓蒙の理想たる「自己立法=自律」はその内容から分析してみると、内部自然の抑圧と歪曲である。



最初に、個人の精神の中に、構造として野蛮の芽が生ずる。こうした精神を持つ人々が互いに関係しあうとき、社会関係の野蛮化が生まれる。自己を支配し統御する理性は、今度は他人を支配する理性になる。



芸術は「文化産業」になり、資本主義的商品となる。それは道具的理性の手の内に取り込まれ、抵抗の牙をぬかれる傾向がますます強くなる。



p161 体系化は、すべての異質物を中和し、根拠の地平の中に同一化する。



p162 近代の思考圏では、道具性と同一性とは同じことの両面であることは、すでに『啓蒙の弁証法』で指摘されていた。



p173 芸術が、異者の救済のテーマにとって典型的に役立つのは、それが対象化=制作でありながら、同時に対象化的制作を限定否定するミメーシス的能力をもつからである。対象化は自然の支配に傾く。この傾向にミメーシスは抵抗する。芸術はふたつの相反する傾向を体現し、かつ自然との和解のユートピア的契機をも内蔵している。

かくして問題は、ミメーシス能力を、理性の能力として開発していくことである。認識、芸術のみならず、政治と社会の領域においても、ミメーシス能力を新しい理性の可能性として鍛えあげることが課題となる。その意味で、アドルノの『美の理論』は、一つの政治哲学の書物として読むことができる。異者、非同一なものを承認し交通することができるミメーシス能力は、支配、全体化、同一化のオーダーとは違う形で、人と人との意志疎p174通の可能性を開く。西洋形而上学の体質であった同一論・対象化論・全体化論を、限定して(全否定ではない)、新しい共同性の条件となる。



自我同一 自己を考える、自己を知る、ぼくって何だろう。そう考えたとき、既に自己は分裂している。ギリシャ時代から、西洋的思考は分裂的である。
4 作る精神からの脱出



生産主義的理性の伝播とそれへの抵抗



フランスでの反復



脱構築

p.178構築主義は、根拠の哲学である。この「根拠」のなかには何でも代入することができる



脱構築は肯定的である



外部に立つ



deconstruction inventive

p.187「異者」は、それ自体として存在するのではなくて、制度化された思考様式(形而上学的文法)によって陰画的に産出されるのであって、だからこそ、伝統の解体、脱構築なしにはそれを「見出す」ことはできないのである。



さまざまの「脱-」

p。188権力は、もっと微視的な領域で支配を受け支配を担う服従主体をたえず生産する。・・・この生産の場は、さまざまの制度としてある。この制度のなかに近代の生産主義的理性が貫徹している。



p189哲学(形而上学)は、作る精神に基づくかぎり、当事者の意識を越えて、政治権力の基礎付けをもやってきたのである。マルクスは哲学のこの機能を「イデオロギー」の機能とよんだ。






























既成の体制のなかで生まれ、そこで解釈され解釈を行う「異者」
5 受容的理性に向けて



異者と倫理

p191この自由意志とは、最初から、目的の製作、設定とその道具的実現という技術製作への意志、つまりは生産への意志である。

・・・お互いを「道具と手段」としてみなしあう。



p192「同一の文法」をもつ共同体のなかでは人々は互いに他者であっても異者ではない。この圏内では人々はたしかに意思疎通できるのだが、それは自己の内なる異者や異者としての異者を犠牲にしてのことである。



排除なき人間関係

p192作る精神は、「交通の原理的不可能性」を内在させている。・・・われわれは自分自身を異者としてとりもどさなくてはならない。われわれは自分の内部で異者を受容しなくてはならない。自分の内部に「主人と奴隷」を抱えている限り、す(p193)なわち意志的主体としての「主人」が物としての「奴隷」を手段として扱う習慣があるかぎりは、われわれは他人に対しても同様に振る舞うであろう。・・・異者を異者として受容することは、自分を異者化することなしには不可能である。

対象化的思考を受容的思考によって限定すること、



異者論と共同性論

p195「非対象化的世界関係」の概念は、受容的理性の概念として展開される。



欺瞞からの目覚め


(2000年記)

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