日本人の心の歴史-日本文化・思想史- 岡崎 公良 1992 北樹出版













日本人の心の歴史-日本文化・思想史-

日本人の心の歴史-日本文化・思想史-



古事記から昭和文学、丸山真男まで、日本の文化(文学)・思想史を概観した本である。難しい漢字にはふりがながつけてあり、入門書としては親切である。ただ、著者独特の句読点の付け方が少々もどかしくもある。

日本人に脈々と流れる文化を著者は「ないの文化」とよび、西洋の「あるの文化」と対比する。「ないの文化」の意味を私はうまくとらえられないが、それは仏教の「無・空」とも共通する概念であり、それが日本の風土に受容され「もののあはれ」となる。それは、西田幾多郎のいう「述語の論理」あるいは「述語の主語化」であり、自己と自然との和合・一体感となるのである。

著者は、明治維新と終戦(敗戦)を日本の思想・文化の転換の契機としている。そこで問題となっているのは、近代化と自我(自己の確立)である。それが持つ意味は確かに大きいが、インテリ以外にその必要性はあったのだろうか。また、戦争は、その自我の確立が不完全だったがゆえに起こったのだろうか。答えが「否」だとすれば、そこにこそ日本文化の特殊性を求めるべきであろう。自我の確立というのが西洋的な幻想であるという認識で、明治以来の日本思想史をとらえて欲しいものである。

この本を読むと、不思議に自分のなかの「日本人性」を感じる。それは確かにあるのだろうが、それが虚構である可能性も否定できない。私が生きているのは高々数十年であり、その数十年しか自分の体験はないからである。私の知識はその経験を越えているが、それは与えられたもの(作られたもの)でしかないかもしれない。その可能性を持ちつつ、西洋文化に対抗する武器としての東洋思想を探求しなければならない。
p.168我々の現代・現在では、時代が、倦怠というよりは、それよりも物象化し、大衆、学生・青年が物象化し、学問、ことに、哲学、文学が、それぞれの主体性・目的を失い、さまよい、物象化している。



p.175フランスの自然主義文学は、社会の変革をめざして、現実の社会体制に対しての抵抗・レジスタンスの文学ともなることができたのに反して、日本の自然主義文学は、自分と社会との対応を、自分から閉ざして、自分の身の周りの環境世界へと、自分の視野を狭く局限してしまって、私小説、自分自身の身辺雑記の自己暴露、自己告白、小説へと陥ってしまったのであった。



p.176近代日本の純文学というものは、インテリゲンチア(知識・高学歴階層)を対象として書かれたものなのであって、インテリ志向型の文学なのであった。もっとも、このことは、現代の純文学といわれるものにもあてはまることなのである。


(2000年記)

シェアする

フォローする