哲学が好きになる本 ’92年版 私たちが生きていく上でなぜ哲学が必要なのか 御厨 良一 1992 エール出版社













哲学が好きになる本 ’92年版

哲学が好きになる本 ’92年版





図書館で偶然手にした本である。若貴人気・宮沢りえのヌード写真・ソ連崩壊・民族問題から始まる本書は、高校生向きの哲学入門書である。

ソクラテスから、毛沢東、ガンジーまで(日本人をふくむ)多くの哲学者の思想(と一部宗教)が、それぞれ数ページにまとめられている。読みやすいので、一気に読んでしまった。

私が読みたかったのは、第6章日本の思想であるが、日本の神話(「日本書紀」)、親鸞、荻生徂徠、本居宣長、西田幾太郎である。それなりにまとまっていておもしろかった。

この手の本は多くあるが、私はたまにこの手の本を読むと、考え方が整理できるので、また、読んだこともない哲学者を知ったつもりになって満足するというこころの余裕のためにも(!)ほっとするのである。また、知っている哲学者の意外な面を発見することもある。

ただし、問題もある。それはまさしく「知ったつもりになる」ことである。その哲学者の著作を読む前に先入観をもってしまうことである。実際に著作を読むときもその先入観で読んでしまうのだ。

哲学を生業とするものでなければ、受験勉強のようにエッセンスだけを読むのもひとつの方法ではある。しかし、私は、多くの思想家を知ることよりも、一人の哲学者の著作(原書)を読むことを薦めたい。まあ、読んでみなければその哲学者がどんな考えをもっているのか分からないのであるから、カタログ的にこういう入門書を参考にすることも仕方のないことかもしれない。受験参考書もそうであるが、入門書には作者の解釈、作者の思想が含まれていることを忘れてはいけない。小説を読むときに、本の帯を参考にするように、その程度に考えられればいいのだが。

逆の読み方もある。入門書としてではなく、作者の1冊の著作と読む読み方である。つまり、作者が紹介している哲学者の思索を通じて作者自身の思想を読みとるという方法である。そういう読み方ができれば、この手の本の害はないのであるが。







「哲学」の入門書としては、読みやすく、とても簡潔でいいと思います。

哲学(主に西洋哲学を指すのだが)は難しいといわれます。それは、翻訳の限界だけに原因があるのではありません。どこか日本人には論理的な思考回路として西洋人と違うところがあるのではないでしょうか。だから、この本のキルケゴールの章のように、そのひととなりの一端を見せられたほうが、難しい論理の説明をされるより分かったような気になってしまいます。逆に、小さい頃から教えられている西洋論理主義が思考回路を占めていることも否定できません。ですから、自分たちの内にある論理を西洋論理主義で説明されることが必要になるのです。そういった意味では、西洋論理主義を越える素材が西洋人にではなく、日本人全員に備わっているともいえるわけです。日本の学者・学生諸君、材料はそろっている。後は跳ぶだけだ。

この本の著者は、「ヨーロッパを含め西洋人とよばれる人たち」は、「狩猟・遊牧民族」であり、「相手を倒しても草原を確保しなければならない・・・だから人間関係の対立的・緊張的であり、ものの考え方も対立させ競合させていく傾向をもっています。」それに対して、「東洋人は一般に農耕民族で・・・だから農耕民族が原野で出会う相手は、治山治水のために手をつなぎ会う仲間なのです。」と述べて、契約精神に基づく遊牧民族の哲学と調和をめざす農耕民族の哲学との違いを述べています。そして、最終章で西田幾多郎を説明する際に「東洋の思想を哲学的に体系化することはきわめて困難なことであったのです。なぜなら、そのことはことばを否定する思想にことばを与え、論理を超えた思想に論理を与える努力を続けることだからです。この困難な営みは、西田幾多郎によって成就されました。」

今、私が知りたいことが、西田幾多郎の本に書いてあるようで、思わす西田の本を手にしたくなります。

ところで、「狩猟民族・農耕民族」というところの民族ですが、この本の作者は民族には、客観的基準(土地共同体、血縁共同体、運命共同体、文化的共同体)のほかに民族意識、民族感情という主観的基準が必要であるとしています。確かに客観的基準、あるいは言語を含めた物理的な文化は存在します。しかし、民族意識というのは、作られたもの(であることが多いの)ではないでしょうか。他民族に対する排除意識というのは、その作られた民族意識に基づくものだと思います。民族間に「優劣」をつけることだからです。それは、民族差別というよりも、人種差別の意識に近いのではないでしょうか。

「サラダ・ボウル論」も結構ですが、今必要なことは、民族どうしが理解し合うことではなく、まして民族と国家を結びつけることでもなくて、なぜ民族どうしの理解が必要になったのかということ、なぜボーダレス社会が優先されなければならないのかを考えることなのではないでしょうか。

私は、個人どうしの理解も困難だと考える人間です。まして、異文化間の翻訳や意思の疎通はより難しいと思うのです。人間が最低限しなくてはならないこと、食べること、寝ることなどは文化に違いがあっても言葉が通じなくてもある程度意思の疎通ができる共通の基盤かもしれません。しかし、それ以上は個々の文化に任せるしかないのではないでしょうか。
5章 現代の哲学

サルトルの実存主義とは



p164自分が一つの行動をした、一つの道を選んだということは、自分だけでなく全人類のあり方を選んだということになる、というのです。したがって、私の決断(p165)にともなう責任は、単に自分自身への責任にとどまらず、全人類に対する責任をおうことになるのです。

本題にもどりましょう。責任一つ取り上げても、これほど重大な責任ですから、できれば避けたほうが気が楽です。だから、他人が生きるように私も生き、他人のまなざしのもとに生きていったほうが気が楽です。そこには孤独感も不安も責任の重みもないからです。

しかし、そういう生き方は自由を放棄した生き方であり、人間が人間であることをやめることです。むしろ「自由の刑」を進んでわが身に受け止め、未来に向けて自分自身をたくましく作っていかなければならない。

(2000年記)

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