群衆-モンスターの誕生 今村仁司 1996ちくま新書

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久しぶりの感動した本である。同時に、久しぶりの「ずるい」本でもある。


問題点、視点を永遠と述べたあとに、「みんながんばってね。それぞれが、流れに竿を差せば、流れが変わるかもしれないよ。」と解決を大衆にフィードバックしてしまう。しかし、どれだけ研究しても、結論はそれ以外にはないのかもしれない。


「群衆」という視点で、社会をとらえること。理論にも運動論にも直接関係する。初めてその両者を統一的にとらえることができる。貨幣と同じように、群衆というのも歴史的な概念である。その歴史的な群衆の中での運動論もまた歴史的であるといわざるを得ない。群衆の時代というのは、「民主主義の時代」の別名であり、また、現時点においては「資本主義社会」の別名である。それらは、「群衆」あるいは「大衆」という名前で、その本質を隠してしまう。貨幣が資本主義の果実(結果)であると同時にその本質を隠してしまうように。「大衆」という呼び名は「群衆」社会の頂点である。「大衆」という言葉が、なんと無批判に、無内容に使われていることか。本書は、自分もその一員である群衆(大衆)の本質、「恐ろしさ」を考えるための、格好の入門書である。


群衆は大衆と呼ばれることによって完成する。匿名性が社会を覆い、個人の呼び名はステージネームに、個人の顔さえ仮面になってしまう。




⟨impressions⟩






群衆とは何か。近代資本主義の誕生とともに、歴史と社会の表舞台に主役として登場してきた群衆。二十世紀のナチズムもスターリニズムも群衆社会がつくりだした全体主義の脅威であったことは記憶にあたらしい。一体われわれは、激流のような群衆化傾向に対して抵抗できるのだろうか。ポー、ボードレールやニーチェ、メアリー・シェリーらの群衆への驚き、カネッティやモスコヴィッシの群衆分析、トクヴィルの民主主義論、ルボン、タルド、フロイトらの心理学的考察など、さまざまな視点からその怪物的性格を明らかにし、現代人の存在のあり方を根源から鋭く問う群衆社会批判。





















































プロローグ 群衆への問い

群衆体験



群衆と階級



群衆の発見



用語について



群衆人間と啓蒙



p17 ホルクハイマーとアドルノの言葉を使うと近代理性は「道具的理性」に変質するといってよいのですが、まさにこの道具的理性こそ群衆的理性なのです。なぜなら、道具的理性は、自律的個人ではなくて、量的存在としての群衆を効率的にあるいは計量的にして行くばかりでなく、同時に自己自身をも道具として・量的精神として把握することになるからです。























人間が部品となること、あるいは、部品となった自分をその物として認めること。個人が資本の一部になること。資本の本質を体現する存在になること。人間が資本となること。資本の内在化。
第1部 群衆の本質

1 群衆への視点

群衆と集団



群衆の通俗的イメージ



p29 階級・階層の区別なく万人が群衆化し、群衆の中で「個性を喪失する」ことが群衆の性格である。



p30 近代における群衆の「発見」とはこうした群衆の全般化・普遍化であるといえるでしょう。













群衆は、エンゲルス(あるいは・そしてマルクス、また、ヘーゲルにとっても)にとって、ルンペンプロレタリアートとして現れた。

それは、前近代的な群衆像であるが、現代においても大衆は、そのほとんどがプロレタリアートである。そのプロレタリアートが資本を内在化したとき、資本主義社会は完成し、全ての個人が資本として行動する。そのときに階級という概念が見えなくなり、群衆は階級を超えた存在となる。
2 群衆一般

群衆とは何か



p32 群衆は、ある種の危機から生まれる、あるいは何らかの危機をその中に刻み込んでいる、



危機と群衆



p33 模倣欲望とは、他人の欲望を欲望すると定義できる



排除の力



p35 排除されるべき第三者が見つかり、それに向けて全員の暴力を集中していくとき、群衆は痙攣的に固定化する。そのとき群衆の流動性は解消し、固定的な全員一致現象が生まれる。そのときこそ、群衆の解消の時期であり、古い秩序の回復か新しい秩序の創建かをとわず、日常生活の差異体系がもどってくる



制御され局所化された群衆



p37 儀礼の存在理由は、・・・日常生活の中に蓄積された暴力圧力を解消することにあり、こうすることで、秩序がもともと生成してきたところの基礎的メカニズムを反復再現することにある・・・秩序の期限が排除の暴力にあることを、現実的に認識するのではなく、錯覚的に取り違えて(「誤認」すなわち「隠す」)、また同時にその起源を別の形で・歪曲して再現する(「露わにする」)のです。

3 群衆の類型

群衆を見る角度



群衆の特質



群衆の分類



p66 個人にとっては群衆存在になることは、個人の危機の解決を群衆の中に求めながら、同時に群衆とともに危機を加速させることになるのです。

4 近代の群衆

近代群衆の出現



資本主義経済と群衆



p75 資本主義のメカニズムは、自由にして独立の人格に基づく「契約社会」と表看板にしながら、実(p76)際には、ここ人を相互に置き換え可能な人間、従って量的に処理可能な人間に切り替えていきます。

資本主義下の「市民」は、自立した個人ではなくて、また独立した商品交換者でもなくて、単なる商品価値の体現者でしかなくなります。個人は、他の諸物と同じ身分のものとして扱われるし、またそうした処理なしには「経済合理性」も有効に機能しないのです。物象化とはそうした事態を指すのですが、群衆社会はまさに物象化の社会なのです。市場が「尨大な商品集積」として現れるのだとすれば、資本主義的市民社会は尨大な群衆集積として現れるといってもいいでしょう。価値形式が市民社会から群衆社会への転化の原因なのです。しかし、こうした特徴付づけはまだ大づかみなものです。資本主義と群衆形成との関連は、別の場面に求めるべきでしょう。たぶん、そちらのほうが重要だと思われます。



資本の蓄積と群衆の蓄積



p81 労働貧民群衆は、資本家たちが階級利害の旗のもとに一致団結して階級を形成するほどには、階級ではありません。資本主義社会においてはし本科階級のみが階級のなに値します。資本家階級は唯一の「対自的階級」なのです。



p82 いわゆる「即自的階級」とは、群衆にほかなりません。・・・私は、マルクス以来「階級」と呼びならわされてきた人間群を群衆と予備なおして、近代社会と文化の中で群衆存在がどのような衝撃を人々に及ぼしたのかを、考察していきたいのです。











プロレタリアートは「階級」になり得ないのであろうか。

200年の歴史の中では、労働者が階級として闘争できた時代もあった。それは、労働者がまだ、みずからの中に資本を内在化していないという前提があって可能であったことである。

労働者が、資本を内在化し、大衆化した現代においては、「対他的階級」をなすことは不可能である。



個人が全般的である時代、それは、無条件に資本に反抗できる闘いを行える。その後、個人の中に資本を内包する時代に。そのとき、階級闘争は、自分との闘いでもあった。資本を内在化してしまった後も、個人は残っている。資本が個性を内包しているのだ。そのときには、資本の一部として振る舞うのが「自然」であり、「個人」として振る舞うために自分と戦わなければならない。
5 都市と群衆

ロンドンの群衆



「群衆の人」



p92 近代が苦労して確立しようとしてきた自我の同一性が解体し始めていること、・・・自我同一性の分裂は、個人の社会化の結果であるということができるでしょうが、この「社会化」とはなによりもまず個人の群衆化であったのです。・・・ついに自己分裂が分裂したままで統一されない事態が出現したのです。



パリの群衆



群衆と階級
 自己同一化の過程(近代化)が、自己分裂の過程であること。自己同一化、自我の確立とはイデオロギー(歴史的概念)ではないのか。
6 群衆と理性

隠れた主題としての群衆



ニーチェにおける群衆のモチーフ



群衆とニヒリズム



群衆と理性



p125 複数の存在、多数の存在としての「われわれ」は、群衆としての「われわれ」とは根本的に違うのだということを、確認しなければなりません。多数ないし複数であることが、そのまま人と人との排除なき関係になるための条件を探求すること、これが私たちに課せられた理論的にして倫理的な重要問題になることでしょう。この課題を共同性の再構築と呼ぶならば、その問題の解決は群衆社会を超えたところに求められることでしょう。

第2部 群衆の分析

はじめに
1 恐怖と魅惑-『フランケンシュタイン』

「フランケンシュタインを読む」



ヒュブリスの罪



暴力と不正の伝播と蔓延



父と子の闘争



p140 伝統と切れた新世代は全て、このモンスターのように行動することを余儀なくされるでしょう。モンスターとは新世代の隠喩なのです。



モンスターと群衆



p148 近代社会は生誕と同時に、自律的個人の理想を高く掲げながら、同時にその理想的個人を否定し呑み込む巨大な近代群衆をも生み出してしまう。そして、近代社会は自分が生み出してしまった群衆を自分ではどうにもできない、そうしたジレンマに陥ります。
hubris 過度の自信、傲慢、不遜

catastrophe 大惨事、終局、不幸

catharsis 浄化、純化













自分で全てを調達しなければならない。
2 多数者の専制

トクヴィルの民主主義論



p152 群衆の不気味さを毒消しするイデオロギー用語、それが大衆です。



多数者の支配が絶対的であるということが、民主政治の本質なのである。なぜかというと、民主政治では多数派以外には反抗するものがなにもないからである(トクヴィル「アメリカの民主主義」井伊玄太郎訳、第2巻第7章第1節)

多数派は思想の周囲に恐るべき柵をめぐらせている。この限界内では著作者は自由であるが、その限界を外に出ようとすると彼には不幸が襲いかかる。・・・今日では、文明が専制政治(tyrannie)までをも完成させている。(前掲書)



p154 人間の社会が内的分節もなく、階級、階層、個人の間の境界線がなくなって、全てが同質的で一様な、多数ないし多量ということだけが唯一の特徴になる状態、それが群衆社会です。人間の顔つき、衣装、言葉などに違いがあるにしても、その「精神」だけはどこでも同じようになるでしょう。一見したところ、あらゆる人間が「平等」で「対等」に思われる。そんな外見が大衆民主主義の名前で称賛されるのかもしれないし、現代のほとんどすべての地域でこの大衆の政治が選択されているのは事実です。しかし群衆社会は必ず群衆政治を作り出します。群衆の民主主義があるとすれば、その民主主義の中に群衆はおのれの不気味な特徴を必ず刻みつけることでしょう。



このデスポティズムがどのような新しい特徴を持ってこの世界に登場するかを想像してみよう。私には、同じようで平等な無数の人間の群衆が、彼らの魂を満たしてくれるような、小さくていじましい快楽を手に入れようと休みなくきりきり舞いしているのが見える。誰もが自分のなかにひきこもり、すべての他人の運命には無関心であるかのようである。彼には子供や友人だけが人類のすべてになっている。彼は他の同胞の傍で並んでいるとしても、決してまともに顔を見ることはしない。彼らの袖に触れることはあっても、感じることはしない。彼は自分だけで自分のためだけに生きているのであり、家族ぐらいは彼に残されるにしても、少なくとも彼には祖国はないと言える。

こうした連中の上方に、巨大な後見的権力が聳え立つ。この権力の役割は彼らの享楽を保証し、彼らの運命を監視することだけである。この権力は絶対的で、隅々までゆき渡り、規則的で、遠くまで見通し、穏やかである。それが人々を成人に至るまで見届けるならば、それは家父長的な権力である。しかし反対にそれは人々をどうしようもなく子供状態に固定しようとばかりする。・・・この権力は日々、自由意思の使用を無用にし、希なものにしていく。それは意思の行為をますます狭くなる空間に閉じ込め、じわじわと、市民が自分で自分を律する必要がないようにしていく。・・・

支配者は各個人をその強力な手のなかに次々と掌握し、個人を意のままに捏ねあげた後で、その腕を社会全体にまで広げていく。支配者は、複雑で、細かいところまで行き届くような、画一的で小さな規則の網の目で社会の表面を覆い尽くす。この網の目のために、どんな独創的な精神もどんなに活力のある魂も、群衆を超えて頭角を現すことはできないだろう。支配者は意思を挫かないが、それを弱め、屈服させ指導していく。支配者は行動することを規制しないが、行動の結果にはたえず反対する。破壊しないが、生まれ来るものを阻止する。暴政をしかないが、妨害し、抑圧し、無気力にし、意気消沈させ、愚鈍にする。そしてついには、政府が牧人になって、各国民が臆病で勤勉な動物の群れでしかないようにしてしまう。・・・

現代人は二つの敵対する情念によってたえず突き動かされている。彼らは導かれたいと思いながらもずっと自由でありたいと願っている。相反する本能のどちらもなくすことができないので、彼らは二つとも同時に満足させようとする。彼らは、後見人になってくれる、全能であるが、市民によって選ばれる唯一の権力を想像する。彼らは中央集権と人民主権を結合する。そうすることで彼らはいくらか安堵するし、自分たちが後見人を選んだのだと考えて、後見されていることに自足している。各人は、鎖の端を握っているのは一人の人間でもひとつの階級でもなく人民なのだと考えているから、縛られていることにも堪え忍ぶのである。・・・行政的デスポティズムと人民主権の妥協・・・民主主義的デスポティズム・・・。(第4巻第6章。ただし、訳文は引用者のもの)

































































民主主義的デスポティズム(despotisme democratique)
3 群衆の精神

ルボンと群衆心理学



集団的精神の中に入り込めば、人々の知能、従って彼らの個性は消え失せる。異質なものが同質なもののなかに埋没してしまう。・・・群衆中の個人は、もは焼かれ自信ではなく、自分の意志を持って自分を導く力のなくなった一個の自動人形となる。(ルボン「群集心理」桜井文夫訳、講談社学術文庫、31-35)



ガブリエル・ド・タルドと模倣の法則



p168 群衆社会の自己閉塞性の傾向



タルドのSF小説



p174 「生の倦怠」こそ群衆存在の本質そのものなのです。



フロイトと集団心理論



p176 自我理想の代理である対象が自我を食いつくすことこそ、群衆形成の基本倫理でしょ(p177)う。多くの個人が唯一の同一の「対象」(指導者)に同一化し、同じ「対象」を共有する諸個人がこの「対象=指導者」を媒介にして相互に同一化する。



p177 それは超歴史的な集団に還元されるような人間集団ではなくて、たえず同一化願望に突き動かされて、自然発生的に大小の「指導者」を内部から産出して、個人はもとより、階級や身分をすら溶解させて、ついには等質的な群衆国家を建設するほどの巨大な勢力なのです。それは19世紀において、近代の産業資本主義の文脈のなかで生誕した独自の人間集団な(p178)のです。群衆のなかでは個人は対等であると感じる点では、この群衆は「民主主義的」に見えるでしょう。しかし他方では、この群衆のなかでは個人は自己を消去し、自己をそこへと解消するだけでなく、熱狂的に満足を感じるような大小の「指導者」を産出するという側面から見れば、群衆は正真正銘の「デスポティズム」群衆なのです。・・・ついに新しい人間類型が登場したのだと。近代的人間は、群衆的人間になったのです。




















































カリスマコギャル
エピローグ 批判と抵抗



傾向としての群衆



p183 群衆は集団や組織の一類型であるのではなく、むしろそれらを横断し包摂していくようなひとつの傾向なのです。・・・群衆は特定の「所属」あるいは特定の「空間」をもたないのです。群衆はすべての人間を原則として例外なく包摂していきます。それはすべてを呑み込むメールストレーム(渦巻)なのです。



p184 群衆はメルティング・ポットになります。

おそらく19世紀には、二つの相反する傾向が同時に進行していたのでしょう。すなわち、階級分化の傾向と階級解消的傾向のふたつです。



p185 「全体主義国家」とは群衆的デスポティズムであります。それは情念の等質性を機軸にするから、それに同調しない他者や異者を排除し、差別していきます。



経済と群衆



p186 市場とは異質存在を等質存在に変換する装置である。



p187 群衆はあらゆる人間の個別的差異がすべて溶けて消え去る場所である



p188 価値かと群衆化は連携しながら、人間たちを、情念的にねっとりとした、どうにでもできる粘土のような、「とりもち」共同体の素材にしていく。



政治と群衆



p188 指導者という第三項をおのれの内部からたたきだして、それを媒介にしないでは「自己」同一性を確認できないのが情念の共同体なのである。メンバーが「こころ」に傷をもつならば、この情念的にべとつく疑似共同体のなかで互いに心の傷をなめあう。それはしばしば「怨念」共同体である。

行動と心理における情念的同一化と存在における情念的等質性は、同一の情念を共有しない他者を排除する。



神話と群衆



p189 群衆は集団以上に正当化の神話を要求する。同一化、自我理想の指導者への転移、群衆メンバー間の相互承認などはすべてファンタスマゴリーであるのだから、それを「根拠あるもの」にする物語は群衆にとってどうしても必要になる。



思想の課題



p190 技術合理性こそが人間をますます高度に群衆化していく



p191 現代における神話の機能と役割は、・・・人間たちを群衆化させる機能なのです。・・・神(p192)話と群衆は共同して個人から自由を奪い去り、自由への期待を抑圧し、等質な受動的情念空間に個人を封じ込めるのです。自由や自立よりも、啓蒙や理性よりも、はるかによきものがあると人びとを説得するのが、とりわけ現代の神話的作用なのです。・・・むかしとは違って、神話は思考するのではなくて、人間から思考することを奪うのです。神話、群衆、思考の不在は現代における人間の状況の指標になっています。批判精神は消え去り、一種の情念動物への転落が加速しているのです。



p193 群衆になること、それは人間が人間(理性的に思考する存在)でなくなることです。・・・

人間の自由と自立を可能にする共同性の絆を地道に探求すること、我への問いと他人との関係への問い、さらには人間と自然との関係への問いを同時に一緒に問いながら、幻想と情念の「とりもち」共同体ではなくて、特定の所属をすら問わない「供の共同体」を、それへの路を、見つけだすことは、人間存在(p194)の根本問題を新しい角度から考えなおすことに通じていくでしょう。














































































資本を内在化したという心の傷

















phantasmagory 一連の幻想、錯覚























健康神話

















N.B.





理性とは、近代合理主義ではないか。







神話による現実認識と科学(数字)による認識(という幻想)

科学の発達による思考停止と情念化







日常となったテレビは、日常の一部であって、非限定空間である。その登場人物は隣にいそうで居ない、自分と同じ境遇でありそうで、そうではない存在である。(同じ境遇ではドラマにならない。3面記事)

見るものは、ドラマを自分の現実に引きつけてみる。

(2000年記)

[ ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480056566 ]