難しいアニメだ。ただのアニメだとは思っていなかったのだが、不思議な作品である。ある意味視聴者を突き放し、わかる人だけわかればいいんだというのは、恥ずかしがりやの私の作るものと似ている。本当はとってもわかってほしいのにはっきり表現するのは恥ずかしいのである。逆に謎をたくさん作って隠すことによって、話題を作る作戦が成功した作品でもある。「エヴァンゲリオン研究」等の本が出てくれれば成功というやつである。当時クローズアップされた少年犯罪と絡んで話題となったのであろう。「機動戦士ガンダム」等で育った世代にとって、この作品は衝撃的だったのかもしれない(もちろん、この作品の捉え方は中学生、高校生、大学生で異なるだろうが)。何しろ、「使徒」という敵が想定されているが、その敵の正体が不明なのである。むしろ倒すべき敵かどうかも不確かである。それに挑むエヴァンゲリオンに乗るのは14才の子供である。その子供たちはみんな心にトラウマを持っていて、そのままアダルトチルドレンになるような子供たちである。彼らは、今の閉鎖的(あるいは管理された)社会に生きる心を開けない少年(若者)たち、自己の不在に悩み、不安の中に生きる少年(若者)たちと同じである。
自分を、自分の存在を肯定できない若者たち。情報があふれる中で、地域共同体や家庭に帰属できない(と感じている)。自分とは何なのか、自分の存在意義は。自分探しの旅が始まるのである。この作品は、心の中の物語であり、作者の「人類補完計画」である。
その答えは、「僕は僕でいいんだ。僕はここにいてもいいんだ。」というものである。(碇ケンジがそう思ったときに、みんなが拍手をするのには笑えた。)この言葉に力づけられ、不安を紛らわせた若者もいるであろう。この答えだけを見ると、従来の自分らしさを認める、今ここにいる自分を認める従来の自分探しのように見える。(これを「定在性の自己」とよぶことにする。)しかし、その結論に至るには、自分の周りの人との関係が求められる。作品中に登場する相手の中にいる自分、自分の中にいる相手、である。(これを「関係性の自己」とよぶことにする。)しかし、今の若者が不安を持つのは、「もの」から「こと」(物質から情報)の時代に生きていることに起因するのであって、そこでの自己は、流動性(運動性、多様性)としての自己でなければならない。とするならば、従来の定在性の自己(「主体」とよぶこともできる)と現在の流動性の自己を結びつけるものとして関係性としての自己がなければならないのである。この関係性の自己をフーコー(ドゥルーズ)流にいえば「主体化」ということになるのであろう。流動性、関係性としての自己を認識せずに自分の存在価値(自分の位置)を自分で決めることは、「自分が思えば、なにをしてもいいんだ」「自分が望んだように世界は変わる」という考えにつながっていく。
それがうまく伝わるように描かれているかどうか、それがこの作品の価値を左右するように思える。私の感想としては、描かれているにもかかわらず、「僕はここにいてもいいんだ。」という言葉のインパクトが強すぎて、その前段が抜け落ちる気がする。それでも、この言葉が若者に何かを与えてくれていればいいと思う。
(2000年記)
