可能なるコミュニズム 柄谷行人 2000 太田出版

可能なるコミュニズム

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柄谷は、商品の生産過程ではなく、流通過程に資本への対抗運動の中心を見出す。「資本=剰余価値への対抗運動が流通過程にはなく、また流通過程にしかないということ、あるいは、生産過程にはなく、生産過程にしかないということ」(P45)である。つまり、「単なる消費者あるいは労働者の運動ではなく、消費者としての労働者の運動」である。たしかに、W(商品)-G(貨幣)においては双方とも主体であるが、W-Gは(偶然に支配された)命がけの飛躍であるのに対して、G-Wはあらゆるものとの交換可能性の実現であり、過程を支配する主体でありえる。しかし、消費者としての(貨幣所有者としての)労働者は、吉本がいうように必要不可欠な消費を越えて任意の消費対象を選択できるような存在ではない。せいぜいサンマを買うか鰯を買うかを選択できるだけであり、消費するかしないかを選択できるわけではない。したがって、消費者運動はその選択性のベクトルをある程度制御することができるだけであり、商品流通全体からはほとんど影響がない。
柄谷は、商品流通の枠のなかでその流通が商品とは異質になる過程を考えている。いわば商品流通をその枠内で「ずらす」わけである。その方法は、「「不買」運動を基軸にし、同時に、生産-消費協同組合をトランスナショナルに組織していくこと」である。
協同組合的生産(あるいは消費)、貨幣ではない流通手段は200年、あるいはそれ以上前から人類は実践してきている。それらを論理的に検証し切れていると思えないし、肯定するわけでもなく、否定するわけでもなく現代に実現しようとする試み(思想)が、果たして歴史的教訓をうまくとらまえているのかどうか。私には確証できない。単に200年前と同じ論議を再びしようとしているように思える。その根拠が150年前のマルクスである。マルクスを論拠にするのはいいが、そこに歴史に支えられた新しい視点があるのかどうか。本人たちは新しいと思っているのかもしれないが、それぞれの考えは形式的に見るならば150年前と同じである。たしかに、150年前と同じく商品交換が行われ、資本の運動がある。その本質は何ら変わっていない。しかし、資本のもつノウハウ(市場の開発力等)とそれと連動した支配体制の精密化(柄谷は嫌うかもしれないが、フーコーの仕事は評価されるべきである)のなかで、運動の形態も変化を受ける。
非資本的な生産は利潤を生み出さない。マルクスの時代でさえ、協同組合的生産が全社会的になることは考えられていない。高度に固定資本の比率が上昇している現代社会で協同組合的生産が支配的になる可能性はない。それは、マルクスとラサールの論争のなかで既に明らかになっていることである。もし、可能性があるとすればまさに消費の面での(大資本に適用するように形作られている)個人の意識改革が必要である。(それは運動の過程で作られる他にはないと思われるが)
生産(消費)協同組合が、現代社会において実践的かどうか(西洋においてのみならずトランスナショナルに)は、歴史の重みのなかでさらなる理論化と、実効ある実践に結びつく論理としなければならない。彼らがやってみればいいのだ。すぐに実践的かどうかが実証されるであろう。あえていえば、むしろ実践的でないことが実証されるのではないだろうか。
柄谷は、ドゥルーズ等の思考を非実践的なものととらえているようであるが、資本のなかで個人がどのように資本になるのか、あるいは同じことであるが労働者となるのかを理解していないと思う。フーコーの権力論を肌身で感じているのは他ならぬ労働者なのである。そして、その象徴として階級として疎外されたブルセラ世代が生まれているのである。
LETSのような流通手段に魅力は感じる。日本においても小さな町が中心であるが「ボランティア券」のようなものが始まっている。しかし、それが行政の援助を受けることには疑問がある。むしろ、インターネットによるデジタル流通手段に私は希望を見出したい。インターネットのもつ匿名性は、ある程度解消することはできるがなくなることはない。それは、現在の協同組合的な関係とは相容れない面があるかもしれないが、匿名性を残すことは、社会の(あるいは人間の)暗い面を温存する可能性があるからである。社会の暗い面は社会が成立する条件である。それを否定することはマイノリティーを否定することに等しい。もちろん、マイノリティーを暗い面だといっているのではない。マイノリティーはマイノリティーであることによって社会構造を保持し、変化させうるのである。マイノリティーの否定は、人間性の半面を否定することであり、すべてを商品として(資本の)社会的に認められたメジャーなものにすり替え、表にさらすことである。
資本主義社会を「自由社会」とよび、労働者を「消費者」あるいは「生活者」とよぶことが一般化し、労働運動が低迷している現代において、柄谷の提言は実効性をもつ可能性がある。と同時に、いままで流通していなかったものまでが商品として流通し、資本が全面化する過程に取り込まれる危険性ももっている。
久しぶりに読んだ「大きな物語」である。さらなる理論化に期待したい。



(2000年記)

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