終わりなき日常を生きろ 宮台真司 2000 ちくま文庫

終わりなき日常を生きろ

終わりなき日常を生きろ



文庫本になっていることを知ったので買った。一週間で書き上げたというので、一日で読んだ。それが礼儀というものである。
この本は、サブタイトルが「オウム完全克服マニュアル」となっているが、完全どころか不完全にも克服マニュアルにはなっていない。出版社はもっとちゃんとした副題をつけるよう考えるべきである。
克服マニュアルにはなっていないが、克服のための「一つ」の状況分析を行った本である。
彼の状況分析が正しいとして、今の若者が「脱社会化」をしているとき、その評価は為されない。なぜ「脱社会化」しているのかも、社会学(あるいは心理学)的な分析が行われているだけである。結果として、現状を肯定することになっている。(あるいは、いくつかの予言をして当たることを楽しんでいるのみである。)
これが、社会学の限界なのであるといってしまえば簡単だが、原因の分析を社会学を超えて行い、その現実に対する評価を行わなければならない。それは、「いい」「悪い」というものではない。現状を認めた上で、それが持つ真の意味を見つけだす作業である。(それが、評論家ではない学者の社会的責務である?)若者がわからないというのは、明治以降常にいわれてきたことである。その「現象形態」は変化するが、本質的に変わらないところがある。社会学はその現象形態に追いつくのがやっとである。
簡単にいうと、宮台は現状とその分析に満足しているのだ。彼にとって「終わりなき日常」とは既に社会的に承認された日常なのである。若者に対するただの共感者であり、「おじさんはわかるよ」といっているだけである。それだけならよけいなお世話だ。
ただ、彼の発言は、社会的に承認されているだけで影響力を持つ。彼が評価しなくても、現状を追認するような影響を持つのだ。その責任を彼はとらなければならないときが来るのである。
「自我(自己)」の確立をする以前に、日本では自我の確立の土台が崩れているのはたしかである。自我は、資本の自我になった。私たちは資本として完成しつつあるのである。自我の確立は社会的なものであるから、脱社会化した個人は自我を持つことはない。
「まったり」と生きることが日本では可能になった。それは、資本に従う生き方であることを本人は自覚しない。また、その生き方ができる日本と、その生き方を創造もできないであろう国々との関係(それらの国々のおかげで自分がそのような生き方ができるということ)も考えない。そのような生き方が、今、一番生きやすい生き方であることは当然なのである。
しかし、彼らを批判するのは間違いである。そこに、可能性を見出すしかないのである。その点では、宮台の今後の著作に期待する。



(2000年記)

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