ゾウの時間ネズミの時間-サイズの生物学

ゾウの時間ネズミの時間-サイズの生物学

「動物が変われば時間も変わるということを知ったときは、新鮮なショックを感じたものだ。時間は唯一絶対不変なものだと、頭から信じ込んできたのだから。(「あとがき」より)」

時間を相対化するということは、人間を相対化することである。いままで(いまでも)、科学は時間や空間を絶対化し、それに基づいて発展してきた。しかし、それらは人間の時間であり、人間に都合のよい空間の把握である。それを相対化して、人間の目から離れてみるとき、人間という生き物のありようが見えてくる。そして、その人間がいかに自然界で不自然な存在かも。

しかし、科学者としての著者の目はそれにとどまっていられない。ほ乳類だけでなく、鳥類や、昆虫、植物まで、「なぜ」そのような形態なのかを探求していく。この「なぜ」という思考方式は、私にも染みついているのだが、その「なぜ」が解明されたとき、そこから問題が始まる。その答えをどう使うのかである。その答えもあくまでも「人間」にとっての答えだからである。

著者は、動物の世界観を読みとってやり、人間に納得のいくように説明することが動物学者の仕事であるという。それはそれで結構なことだが、それが動物を理解し、彼らを尊敬することにつながるのであろうか。

そのためには、もうひとつの前提が必要であろう。それは、人間相互が理解し、尊敬しあうことができるかということである。そのためには、人間同士も相対化する必要がある。時間や空間の捉え方も科学的な統一された絶対のものではなく、個々人で違うことを認めなければならない。個々人のなかでも時と場所によって異なるように。

しかし、私たちは時間や空間を支配の対象、あるいは労働の対象にしてしまった。その結果、自分自身の体も、労働の対象になってしまっている。労働にしたがう時間や空間の把握しかできない体になってしまっているのだ。その自分に染みついた労働(=資本)を見直すことから始めなければならない。



(2000年記)

シェアする

フォローする