![]() 未来への帰還-ポスト資本主義への道 この本は、ネグリがイタリアに(投獄されに)帰国する直前に書かれた(話された)ものである。 最初に読んだときは、「何というひどい訳なんだ」と思った記憶があるが、再度読んでみるとひどいのは訳ではなく、私の理解力であった。内容は項目別に多岐にわたっており、アフォリズム的である。それは、この本がドキュメンタリーフィルムから採録されたテキストをもとにしているからであろう。そのドキュメントを是非見てみたかった。 想像であるが、そのドキュメンタリーフィルムを見て、ネグリ本人が話しているのを見たら感動したであろう部分が、文章になるととても味気ない。話し手の表情が見えず、声が聞こえてこないからである。その文章と映像(音声)との違いこそが、大切である。それは情報量の違いに還元できない次元の相違である。テレビ世代で、本を読まない世代はその次元の違う情報に囲まれて生活している。考え方が異なるのは当然であろう。 「平板になっていく現実、そしてますますつまらなくなっている世界(P.22)」のなかで、現実感を、生を感じさせてくれるのは書かれたものよりも、その瞬間の映像や音声である。平板な現実(それは未来に向かって傾斜しているが)のなかで垂直な線を引くこと、立体化することが生を感じさせてくれる。それは、垂直に過去を発見することでもある。例えば、過去に撮られたドキュメンタリーフィルムを見ることで、過去を発見することができるのである。もちろん、書かれたものも含めて、過去を発見する(甦らせる)手段は他にもある。それらを発見することで、自由が発見できる。それは、「共同的自由P.15」であろう。 翻訳されているネグリの作品は少ない(と思う)。その中で、ネグリの思想の全体像を知るよい本である。 | |
| P.28労働はその政治的力から切り離された。この政治適地からは、工場のなかでグループ化され、強固な組合的・政治的構造の内部に組織化された労働者に由来していた。この構造の破壊は、この領域で揺れ動くプロレタリアートの不定形の群衆-外部の目からは-をその跡に残した。 P.29固定資本で最も重要なもの、生産性の差異を決定するものは、今後は労働する人々の頭脳のなかにある。 P.39今日、近代からポストモダンへの転換期にあって、問題は再び多数者=多数性の問題となっている。社会階級が社会階級として形骸化するかぎり、社会階級の組織的自己集中化現象は消滅していく。したがって、われわれは再び個人の集合体というものに直面している・・・これは知的大衆化の結果としての多数者=多数性である。 P.63問題は、今や大衆的知性となった一人のプロレタリアの行動、言葉、抵抗が、いかにしてこの現実に立ち向かうことができるかを解明することである。世界の偽造を築き上げるために、現実の意味を変型するために、この現実からあらゆる対立的意味作用を取り除くために使われる画像、言葉、形態を生産しているのは逆説的にも労働者自身なのである。 P.90愛は固有を共同へと変えるための本質的な鍵であると私は信じている。 | 1995年のパリの総括が必要 |
(2000年記)

