超資本主義 吉本隆明 1998 徳間文庫













超資本主義

超資本主義



吉本の筆は辛辣である。政治に対しても、経済に対しても自分の立場をもち、間違ったことは間違ったと認め、批判するものは大いに批判する。それらの基になる情報は、彼のいうには一般の新聞等の誰にでも入手できる物に限られている。つまり、誰もが「目」さえ持てば、彼のような社会分析や社会批判を行えるのだ。

吉本の根本にあるのは大衆の目だ。大衆を大衆として(あるいは民衆として)自分の立場の中心においている。超資本主義とは、そのような大衆が潜在力を持ち、かつ、古典的な「個人」は制度のなかで分解し、社会制度との矛盾が起きている極度の資本主義社会である。

その超資本主義の表徴は、

(1)民間の消費支出が、国民総生産の半分を超えていること

(2)この消費支出のうち選択(加減)できる分が半分以上を占めていること

としている。しかし、このうち(1)については、私は確認できないが、国民総生産は最終的には消費財の形を取るものであり、その消費は労働者が行っているとは限らない。

また、(2)については、エンゲル係数が頭にあるようだが、そのことは消費支出を加減できることとは直結しないということ。つまり、選択はできるが消費は必須であり、自分の所得の半分以上を支出しないで済むというのは幻想である。食費は減っても、教育費や、住居費、車など、文化的な最低限の生活をする以上の所得があるのはごく一部である。健康で文化的な最低限の生活といわれている生活保護基準と一般の労働者の所得を比べればそれは一目瞭然である。吉本は、経済については語らないほうがいいかもしれない。

彼の論理とは別に、労働運動の視点からは、考えるべき点はある。たしかに、今、食べるための運動は成り立たない。しかし、教育費等を含めた文化的な生活の向上は目標になり得るだろう。それが、「今の社会の中」で「生きる」ための要求となるためには、個人がそれを自覚するための新しい論理が必要である。それは、既に大衆の中にあるのだと思いたい。
p98歴史を無意識の共時的集成とみるかぎり、わたしたちは言葉だけで国民大衆の即時的な判断を超えるわけにはいかないからだ。



p216基盤のないことは、支配、被支配のない世界の実現にとっては、必須のとるべき前提でもあったのだ。



p224「民主主義の種」をまくためには前提がいる。それはもし公的なことと私的なことのどちらかを尊重しなくてはならない二者択一の場面にぶつかったら、私的なことの尊重を、自分にとっても他人にとってもためらいなく択ぶという意志を持つことだ。

(2000年記)

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