旧約聖書を語る 浅野順一著 1979/09/20 NHKブックス

旧約聖書を語る 浅野順一著 1979/09/20 NHKブックス

図書館リサイクル本

タダ本です。お風呂本。

ついに私が「旧約聖書」に手を出すことになりました。5年前には考えられなかった。

面白かったです。初心者向けにわかりやすく、著者が考える旧約聖書の真髄を語っているのではないでしょうか。

もっとも、私は旧約聖書を読んだこともないどころか持ってすらいません。読もう読もう(読まなくちゃ)と思いながら半世紀が過ぎてしまいました。今は、ネットで無料で読むこともできますが、どうもね。

わたしの人生の大半は、宗教を否定することで過ぎました。信仰、迷信・・・と戦い、事実(真実)を科学的に明らかにすることが最大の目的でした。自分の「使命」だと思っていたし、自分には「できる」と思っていました。

今でもどこかでそう思っているし(だから、考えたり、文章を書いたりしている)、とくに信仰心が生まれたわけでもありません。

宗教

いま、(旧)統一教会が話題です。オウム真理教の前例があるはずなのですが、マスコミは「初めての」という言葉を連呼しています。イエスの方舟など、宗教がらみの事件(というかゴシップも)が絶えることがありません。創価学会だって、末端組織はかなり怪しいです。

何かを「信じる」とはどういうことなのでしょうか。まずは「知る」ことが必要です。知ることにはいくつか方法があります。「体験する」という方法が一番確実なように思えます。見たり、聞いたり、触れたりすることです。本書では、

それからもう一つ、「知識のはじめである」とか「知恵のはじめである」とかいう「知識」あるいは「知恵」ということばでありますが、これは今日われわれが考える学問とか知識という意味ではなしに、本来は「交わる」という動詞からきている。(中略・・・引用者)これはアダムとエバが夫婦の交わりをしたということでありまして、したがってこの知識ということばは、ただ頭の操作ということでなしに、全身的な交流という意味の交わりであります。(P.190)

語源についてはよくわかりませんが、「知る」は静的、あるいは受動的なものではなく、動的、あるいは能動的なものだということでしょう。そして「ヨブ記」に関して、

「耳で聞く」というのは、間接的に聞くということを意味する。私はいままで、神のことを信仰のことを人から聞いていたが、それではだめだということです。それに対して「わたしの目で」というのは、直接的にということを意味する。(P.185)

「聞こえる」というのは、そちらに向いていなくても「受動的」に聞こえる、でも、「見る」というのはそちらに向いていないと見ることはできません。「能動的」ということに繋がります。

著者は新約、旧約聖書ともに「ことばの宗教」(P.19)であると言います。その「ことば」というのは、能動的、具現的なものです。

仮に「背後にあるもの」が意味だとしますと、前に出てくることは、その意味が具体化することをあらわしていましょう。つまり聖書のことばが、事実として実現しなければ「ことば」とはいえない。ご承知のようにギリシア語では、「ことば」をロゴスといいますけれども、どちらかというと、それは「論理」、「法則」、「理性」を意味します。それに対してヘブル語では、もっと具体的であり、理念の具体化という面が含まれます。すなわち、ことばが肉体になる。ーーそれがイエス・キリストである。旧約において、人間の救いは神に約束されていた。しかし、それは約束のしっぱなしではなしに、イエス・キリストとして歴史的に実現したということになるわけです。」(P.20)

他者と自己

「信じること」の話に戻る前に、この「ヨブの懺悔」について考えてみたいと思います。これは聞くと見る、受動と能動の話だけじゃなく、他者と自己(自我)が明確になっているということです。

二度の試練を経てヨブは神に不信をもつになります。友人との討論の中で、

ヨブは言った、『わたしは正しい、神はわたしの公義を奪われた。 わたしは正しいにもかかわらず、偽る者とされた。わたしにはとががないけれども、わたしの矢傷はいえない』と。 (『ヨブ記』Wikisource、第34章)

と言ってしまいます。「人間不信」にもなっていました。それまでは、友人(他者)の声が聞こえ、それを当たり前に受け入れていたけれど、他者を信じることができなくなりました。

そこで神は、「直接」ヨブに話しかけます。

この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、 「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。 (同、第38章)

そしてヨブは答えます。

『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。 わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。 (同、第42章)

友人(他者)の言葉は「間接的」で、神の言葉は「直接的」なのです。私はここに、他者との壁と、自我の萌芽を見ます。

唯一神教

宗教学者の見解によると、のちのユダヤ教あるいはキリスト教においては、世界人類において神はただ一人ヤーウェのみであるという立場ーーこれを唯一神教といいますーーであるが、モーセの時代には、唯一神教ではなく、ただ一人の神ヤーウェを拝する宗教ーーこれを拝一神教といいますーーであった。ほかの民族にはほかの神々があるということを認める立場の信仰であったというのであります。(P.81-82)

日本では日本語を話すのが当たり前です。韓国では朝鮮語(韓国語)を話すのが当たり前です。玄関で靴を脱ぐことも、その文化の中で育った人には当たり前です。私の祖母は、チーズと石鹸の違いがわかりませんでした。私はタコの刺身が大好きです。・・・

玄関で靴を脱がない文化、タコを食べない文化を知ると、それが「当たり前」ではないことが分かります。地球が丸いと思っている文化、亀の甲羅の上に乗っていると思っている文化、様々な文化があります。

神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を與へるものである。

古人は我々の先祖はアダムであると信じてゐた。と云ふ意味は創世記を信じてゐたと云ふことである。今人はすでに中學生さへ、猿であると信じてゐる。と云ふ意味はダアウインの著書を信じていゐと云ふことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も變わりはない。その上古人は少なくとも創世記に目を曝してゐた。今人は少數の専門家を除き、ダアウインの著書も讀まぬ癖に、恬然とその説を信じてゐる。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかつた土、ーーアダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉かう云ふ信念に安んじてゐる。

これは進化論ばかりではない。地球は圓いと云ふことさへ、ほんたうに知つてゐるものは少數である。大多數は何時か教へられたやうに、圓いと一圖に信じてゐるのに過ぎない。(芥川龍之介『侏儒の言葉』全集第七巻 1978/02/22、岩波書店、P.391)

人間は生まれながらに玄関で靴を脱ぐわけではありません。脱がなければならないという必然性もありません。山の民が山の恵を食べるように、海の民は海の恵を食べるのです。それらは文化の違いです。

隣の国では、別の宗教を信じている。それを「間違っている」というのは、日本語は正しいけど、韓国語は間違っているというのと同じなのではないでしょうか。

為政者(支配階級)と宗教

詳しいことは知りませんが、古来多くの為政者が特定の宗教を推進しました。4世紀に古代ローマがキリスト教を国教とし、日本では古来では仏教、明治初期からは神道を中心とした政治が行われました。中国や日本では儒教が中心だった時期もあります。

宗教を統一すること(それは不可能ですが)は、文化を統一(化)・均一化(均質化)するということです(そのために重要なのが「教育」です)。それは取りも直さず「考え方」を統一するということです。その考え方が為政者の不利なものであろうはずがありません。

世界の均質化

近代西欧文明が世界を覆いつつあると言われています。それが事実かどうかは別の問題ですが、日本もその中にあって日本人の思考はその近代的な思考です。明治維新から150年ほど、世代にすれば5世代ほど(曽祖父母の親、あるいはその親)で日本人はダーウィンの進化論を当たり前だと思い、それ以外の考え方はありえないと思うようになりました。

その間に、都市と地方は格差が拡がっているにも拘らず、均質化しています。というのは、物質的にではなく「考え方」が均質化しているということです。いや、物質的に均質化するために、考え方を均質にしています。その物質とは「商品」です。どこにいっても同じ物が買える、つまり、どこでも同じものが売れるためには考え方を同じにしなければなりません。「物はどこに持っていっても同じものだ」というわけではありません。物は文化によって意味づけられるからです。タコを食べないところではタコは売れません。文化、つまり考え方が物を意味づけるのです。

また、不足を感じていなければ、物は売れません。新しい商品を作っても今までの物で満足していては売れません。古い物は、「古い」というだけで「悪い」と思い、捨てたくなる気になってもらえなければならないのです(iPhone14が発売されれば、iPhone13を持っている人が買う文化)。常に「不満・不足」を感じている文化(意識)を作ることが大切です。

先日、一人暮らしの母のテレビが壊れました。音は聞こえるのですが、画像が写りません。家電店に行くと、「修理するなら、3万円以上かかる」と言われました。小さいテレビなので、同じような製品が3万円以下で売っています。結局、新しいテレビを買いました。母の家に戻り、設置。母が「たまに父が映っているビデオ(VHF)を観ている」というので、繋げようとすると新しいテレビにはRCAの端子がありませんでした。

世界の至るところで戦争が行われています。そのうちのあるものは「宗教」の対立が原因だと言われます。宗教の違いは「考え方」の違いです。近代西欧諸国は「啓蒙」という名のもとに世界を均質化(キリスト教化)しようとしました。今は「民主主義」というように名前が変わっていますが、その本質は変わりません。私は、それは明らかに「商品」を売るためであると思っています。イスラム諸国に商品を売る、あるいはイスラム諸国から石油を買うためには、価値観の共有が必要です。しかし、イスラム諸国にとって石油が持つ意味は違います。「商品」ですらないかも知れません。「商品」というのは西欧文化が物に与えた「意味」にすぎませんから。

物の意味(西欧諸国の考え方で言えば「価値」)は、文化によって異なります。石油が持つ意味、レアメタルが持つ意味、草花が持つ意味、水が持つ意味さえも文化によって異なります。

他人

私は、「神が世界を造った」とは思いません。進化論についても疑問をもっています。ある人が進化論を信じ、ある人が創世記を信じるというのは「正しいこと」「悪いこと」「間違ったこと」なのでしょうか。

「民主主義」の善悪を検討することはできません。古典ギリシア語のδημοκρατίαは政体の一つであって、検討することができました。今、「民主主義」というのは欧米によって「プラスの価値観」を持たれています。民主主義は、その実現方法を検討することはできても、民主主義を検討に付すことはタブーなのです。それは西欧文化、西欧の考え方そのものを問うことだからです。

民主主義の基本は「個人」です。

個人の人生の問題をもっぱら語っている著しい例は、のちに述べる「ヨブ記」でありましょう。この「ヨブ記」は、旧約全体の中ではずっと後世に書かれたものであり、旧約において苦しみ・悩みは後世になるにしたがって、一方では個人的になり、他方では宇宙的な苦しみ・悩みという方向に進むといえます。(P.24)

エゼキエルについて一番特色的なことは、人間は一人一人、個人的に責任を負わなければならないということを非常に強調していることであります。(中略・・・引用者)したがって、民族全体として悔い改めるとともに、個人個人が悔い改めなければならないということを強調いたしております。(P.146)

だから、人が苦しむというのは、先祖のためではなく、子孫それ自身の責任であるというわけであります。(P.147)

しかしエゼキエルにおいては、神対イスラエルの関係が基本になっておりますけど、それと同時に、イスラエルの個人個人が神に対して責任を負うべきものであることが強調されている。(P.148)

個人という考え方は「自分」「他人」を生み出します。呼ぶが議論をしている間は、友人は他人ではありません。ヨブが「私は正しい」と言った時、友人は「間違っている人間」、「自分とは違う他人」となりました。考え方の相違が自己と他者を作り出したのです。ヨブは神と和解したようです。

それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います(ヨブ記、第42章)

では、友人とはどうなったのでしょうか。神は言います。

わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである(同)

つまり、ヨブと友人は「神」という仲介者のもとで繋がりを取り戻します。個人は直接には他者と和解することはできないのです。

その神は、「キリスト教」となり、「国家」となり、「民主主義」と姿を変えます。西欧文化にとっては他者、他の文化、他の国等と直接「対話」することはできません。自分たちとは違うもの、自分たちの上にあるもの、個人を超えた「何か」が必要となります。

信じること

私は、神と和解しなければ、他者と和解できないのでしょうか。イエス・キリストを持って十字軍は遠征しました。いま、「民主主義」や「自由」「正義」のもとに戦争が正当化されます。正義のための戦争「聖戦」を、「それは正義じゃない」「民主主義の否定だ」という時、それもやはり「正義」や「民主主義」を信じているのです。

「神」や「正義」や「民主主義」というのは、「お寿司」や「科学」と同じく一つの文化に過ぎません。病気は「治すもの」だと信じている文化があります。病気は「治るもの」だと私は思います。学校や教育は必要だと信じている文化があります。私は「学ぶこと」のほうが大切だと思います。もの(商品)を買うのが当たり前だと信じている文化があります。私は、そうは思いませんが、買わざるを得ません。歩いていけるコンビニも自動車で行く文化があります。交通機関がなければ実家に帰れないと信じている私が居ます。交通機関が私と実家を離したと思うことはできません。でも、交通機関がなければ親元を離れることはなかったかも知れません。

私は、戦後の民主教育を受け、「正義」は信じなかったけど、「民主主義」や「自由」、そして「論理」や「科学」を信じてきました。「自分」というものの「存在」も強く信じてきました。それらはどれも実現しません。実現しない以上、最後の「自分」もとても弱くなりました。「弱くてもいい。科学や制度がその代わりをしてくれる」と信じてきました。足腰の代わりを自動車がしてくれます。筆記用具で字を書く代わりをパソコンがしてくれます。自分で食べ物を作る代わりをスーパーがしてくれます。記憶の代わりも文字(本、パソコン、ハードディスク等)がしてくれます。きっと私は、それらのものを信じたまま、弱いまま、死ぬのでしょう。

ただ、そうではない文化があるということも知っています。その文化の中で暮らしたことはないし、暮らすことはできないかもしれないけど、そういう文化はあります。

私は「満足できない」「なにか足りない」と思いながら死ぬでしょう。そういう文化の中で生きているからです。今は、そうではない文化を遠くで眺めながら、他人に背を向けながら「和解」を夢見ています。

[著者等]浅野順一(あさの じゅんいち、1899年12月12日 ‐ 1981年6月10日)日本の牧師、神学者(旧約聖書学)。青山学院大学名誉教授、キリスト教功労者。
旧約聖書の研究50余年、斯界第一人者の著者が、その深い学識と、牧師としての信仰と伝道生活の経験をもとに西欧精神文化の基底をなす、古典の思想を平易に解説。その真髄に触れて旧約の世界を魅力的に語る。

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