ヒューモアとしての唯物論 柄谷行人 1999 講談社学術文庫(1993 筑摩書房)

ヒューモアとしての唯物論

ヒューモアとしての唯物論



書評という手法は、書き手との対話であり、かつモノローグである。多数に対して向けられたモノローグである。

 この多数は大衆であり、それによって彼は収入を得ている。しかし、それは大衆に支持される必要性を含みながら、それを彼は拒否する。自分が知識人という立場で生計を立てていながら、「知識人」をも否定する。自己否定が自己表現なのだ。社会に認知を得る必然性がありながらそれを否定する表現に大衆(非知識人)が共鳴するのだ。その共鳴が一定水準を超えたとき、彼は行動を始める。


 彼の思考は変わっていない。それは、危険な一本橋をわたるような思考であり、他人が右といえば左(非-右)、左といえば右(非-左)という道である。それは、右にも左にも属さず、常に自分を外部におく思考である。


 それは、彼自身の存在の仕方であって、単なる「あまのじゃく」ではない。一定の存在基盤に立つことを拒否し続けるのが、彼の存在基盤(スタンス)である。


 それが変わるのは1999年である。だからそれ以前の彼の評論は、基本的に同じスタンスにたっているのである。



Mon Apr 30 15:55:46 2001



































































p13デカルトが「コギト・エルゴ・スム」と呼んだものは、それまでの「先例と慣習」に反して仮説を立てる者が必ず立たざるを得ない「場所」を意味するといってよい。そして、そのポジションは、積極的(positive)に措定(posit)する事ができない。それはシステムの間にあるものなので、位置を定めることができないのである。
p17「社会性」という言葉で、マルクスは異なるシステムあるいは共同体に属する諸個人が、交換という行為によって意識せずに互いに結びつけられているような存在様式を指し示している。 個体性と「唯一者」
p21私は「この私」が単独的であると感じている。しかし、いうまでもなく、それは私が余人に替えがたい何かをもっていることを少しも意味してはいないのである。

p23固有名と確定記述の差異は、個体を単独性としてみるか、特殊性として見るかの差異なのである。

p27単独性の概念に固執することは、単独性を単なる特殊性に還元してしまうブルジョワ的個人主義とは何のかかわりもない。
固有名を持つものは固有の性質を持つ
p.51言葉を透明な、意味(内面)に従属するものへと変えることであった。そのためには、言葉の外在性を消去しなければならない。

言語の主体への同化、これこそ正に「言文一致」運動が求めたもの(p.52)なのだ。

新たな「風景」は、むしろ外界を見ない倒錯的なまでに「内的な人間」によって発見された。
思考してきたのは知識階級だけである。
p64高度な情報の消費社会-ここでは意味は情報となり、欲望は他人の欲望となる-
p67逆にそのような作品を等して各国語が形成されてきたからである。
p96われわれを疑わせるのは諸システムの差異であり、また、我々が疑うのは、諸システムの空=間に立っているときである。 超越論的主観の存在(発見)
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主観の成立
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(帝国主義)資本主義の芽生え
p118どこにもない場所を通して自らの文化を批判することは、自己同一性を確立するための最もありふれた手段である。
p125フーコーが破ろうとしてきたのは、一言でいえば、中心としての権力という観念である。それは現実に存在することがありえないのに、常にそれがあるかのように表象されている。この観念は、中心的な権力を奪取することに帰結し、事実集権的な権力を作り出す。さらに、権力が中心にあるという考えでは、現に局所的に生じている矛盾に対する闘争をそれ自体認めないで、中心的なものに従属させることになる。実際には、矛盾はいつも局所的な「出来事」なのだ。
p128「表現の自由」は、しばしば誤解されているのだが、発言する自由よりも、沈黙する自由にかかわっている。民主主義は、カール・シュミットがいったように、成員の同質性を前提とするものであり、異質なものを排除する。
p194対立はいつも差異を隠蔽する。・・・対立は同一性によって形成されるのだ。差異はこの同一性をおびやかす。ところが、われわれは「差異」について語ることができない。差異について語ろうとすると、われわれは対立の言葉をもちいてしまうほかないからである。
p235ここでは、原理性はつねに斥けられる。というのも、そんなものはなくてもシステムが働きさえすればよいからだ。

p244「問題」に対して答えずその「問題」そのものを無効化してしまうこと

p252相手を「決定不能性」に追いこむことによって積極的な命題(意味)を自壊させるという戦略は、今日では、ディコンストラクションと呼ばれている。それは、「事象の根拠」を問う弁証法・・・に対する批判である。
P257熱心に神や人類や心理を愛する者こそ、近くにある”他者”を愛しえない。・・・神や人類を愛する者は、具体的・現実的な他者を平然と切り捨てることができる。
P330矛盾としての実存、すなわち密閉された「内部」にとどまることこそが、それを出る唯一の道なのだ。それのみが、内部を外部の写像たらしめることによって、外部を「実現」する道なのである。